番外編 真理とキヌ 2
努がキヌを連れてマンションのドアから出てきた。
「おふくろが、真理ちゃんと一緒に行きたいってわがまま言うもので、すいません。寒い中、話し相手までしてもらったのに。一緒じゃ、お詫びにならないかもしれないが」
努は溜息をもらしてはキヌを振り返る。キヌは足元に注意を払って気付かない。
「転んだら大変。転んだら大変」
スーパーの宣伝ソングのようにリズムを付けて繰り返して言い続け、中途で真理の腕を取りゆっくり歩く。
「私も温かいものを食べたいと思っていたところです」
3人で暖簾をくぐり、ドアを開けると、熊鈴の音と店の温もりと共に美代子の声が聞こえてきた。
「いらっしゃい。キヌさん。真理さん。さっき
幾分気遣わしげな声だった。キヌは店の敷居を跨いで、安心したのか美代子の声に顔を挙げた。顔を見つけると真理の腕を離し、嬉しそうに近寄っていく。
「お久しぶりね、大橋さん。ご主人お元気」
「元気ですよ。あんなに寒い中で編み物をしていて、心配していました。店に来てもらおうかと覗いた時、真理ちゃんがいたから安心したんだけど」
途中から努の顔を見て話しを続けた。真理とキヌは大きな食卓の角に、斜めに向き合うように座った。食卓の上にピンクの塩が入ったガラスの瓶があった。キヌは手に取って眺めるが何かわからない様子で真理に見せる。
「ヒマラヤ岩塩って書いてありますよ」
「お塩なの。きれいな色ね」
努は二人から離れて美代子のそばに立つ。真理が母親と話してくれているのを見て後ろ向きになる。
「何時頃から外にいましたか」
「午後三時過ぎに紙袋を抱えてマンションから出て来て、四阿に入って編み物を始めたの。膝掛けも持っていたし、まだ陽が差していたからそんなに寒くないとは思ったけれど、春といっても陽が沈むとまだまだ寒いし。四阿で編み物をするようになったのは前からの習慣だから、どこかへ行ってしまう心配はないけど、二時間以上、外にいたことになるのね。冷えて風邪でも引いたら大変」
「いつもすいません」
何かあったら携帯に電話をくださいと言ってはいても、今日まで職場に電話が来たことはない。電話するほどのこともなく今日まで来たわけではないことは知っていた。美代子や真理のような住人がいてくれることに感謝するが、どこまで甘えるのだという自問が常にある。
『欽』にはちょくちょく世話になっていた。今日のような場合、真理がいなければ、途中で女主人がキヌを連れに行き、店の中で努の帰りを待つことになる。鍵を持たせても、使いこなせないから同じことだった。閉じ込めるわけにいかず、いよいよ自分が仕事を辞めようとすると、しっかりしている日が続いたりして、もう少し大丈夫かと思う。この繰り返しで今日まで来た。
「出来ることしかしていないから、お礼なんかいいのよ。何にしますか。鍋焼きうどんならすぐにできますよ」
努は話し込んでいる二人にうどんでよいか聞くと、二人して頷き返してきた。
「真理ちゃんは年齢から言ったら孫よね。優しくていい子ね。お母さんもお元気だし、取り敢えず良かったわ」
言うだけ言うと美代子は厨房に入った。努がキヌのそばに坐ると、真理に意外な話をしていた。
「そう。私はね、子どもを何人も何人も死なしているの」
キヌは真理の膝に手を置き、顔を耳元に寄せるようにして話している。
「授かっても流れてしまって、産めなかった。病院に罹っても治せない。諦めてくださいっていわれて。私は頭がおかしくなりそうだった。そんな時、あの人がこのお守りを作ってくれたの。手先の器用な人でね、仕事で忙しくて私のことなんか気にしてくれていないと思っていたら、ある日、これを渡された。何も言わずに黙ってね。温かかった。お地蔵さんが」
真理は淡々と話すキヌを見詰めていた。白い紐で首から下がっていた布包みの中に、夫に作ってもらったという7cmほどの地蔵尊の彫り物が入っていた。紐を首から外し、布袋の口を緩め出して見せてくれた。真理は話を聞いているうちに知らずに腹に手をやっている。
「触ってごらん。温かいから」
手渡された地蔵尊はキヌの肌のぬくもりか、確かに温かかった。真理は両手でそれを握り、人差し指で地蔵の頭をそっと撫でた。
「その直後に授かって、無事に産んだのが努ちゃん。私は40歳だった。ぎりぎりセーフの歳よね」
野球の審判のようにキヌは両手を広げ、声をあげて笑った。
努は、自分がやっと授かった子だということは知っていたが、父親が彫った地蔵尊をお守りにしていたことは聴いた覚えがなかった。
「見たことないな。いつから持っていたんだ」
努は真理から、名刺ほどの大きさの平べったい木片に細かく彫った地蔵尊を受け取った。地蔵の円くて柔和な顔が、若いころの母親に似ているような気がする。何度触ったものか、地蔵尊の表面はつるつるになっている。
「ずうっと持っていましたよ。もう何十年も。あんたと同じ年齢。これを真理ちゃんにあげようかと思ってね」
父が彫った初見の地蔵尊は母のお守りだ。母の顔に似た地蔵尊が花村さんのお守りになる。母の言葉をどう受け止めてよいかわからず、しばらく地蔵を撫でていた。『いいか。地蔵尊だからな。親父は怒らないだろう』
努に手渡されて、真理は再び地蔵尊を手にした。
「おじさんいいんですか。私が戴いても」
「おふくろがそうしたいというのなら、貰ってやってくれ。ずいぶん古くて迷惑かもしれないけど」
「私はもうすぐおじいちゃんのところに行くから。このお地蔵さんはこれから真理ちゃんのお守りになるのよ。おじいちゃんもきっと喜ぶわ」
キヌは布袋に木片をしまい、紐を布袋にくるくる巻いて手渡す。
「新しい洋服を作ったら、これは捨ててね」
美代子が大きな盆で、土鍋のうどんを二つ運んできた。食卓の努のそばに盆のまま置いて、もう一個の土鍋を取りに厨房へ戻った。努は最初に真理の前に土鍋を一つ下ろした。
「努ちゃん届かないよ。遠すぎて」
「まあ待て。今日のお礼なんだから花村さんが先だろ」
次の鍋をキヌから少し離れたところに置く。美代子は努の前に土鍋を置いて盆を片付ける。真理は蓮華と箸を配る。美代子がとんすいを持ってきて努に渡し、好みを覚えていて、卓の真ん中にある七味と一味のスパイス瓶を努の前に引っ張った。
「熱いので注意してくださいね」
「母ちゃん、猫舌だったろ。冷ましてやるからちょっと待て」
「あんたも猫舌」
とんすいにうどんをよそって、フーフー冷ます努の姿を美代子と真理が微笑みながら見ていた。
「いつもは母ちゃんっていうんだ。おじさん」
普段のままの二人を見て真理は、一日の緊張がほぐれるのを感じていた。うどんの鍋を引き寄せ蓋を取ると、暖かな湯気が立ち上がった。湯気の下の三つ葉の緑と長ネギの白色が食欲をそそる。美代子が生卵の入った笊をそばに置いた。
「卵のお替りは自由です。味の濃い方はスープを足すから言ってね」
美代子が厨房に消えると、努がキヌの鍋に生卵を割りいれた。真理も真似をして、自分の鍋に生卵を入れた。卵をそっと沈ませるとると、牛蒡と人参、豚のばら肉が出てきた。
「ここのうどん、初めて食べます」
真理の驚きの声に努が応える。
「そのバラ肉がうまいんだよ。ここのうどんは」
奥から美代子が「ありがとう」といった。
うどんを食べている途中で、病院でスマホの電源を切ったことを思い出した。ポケットから出して電源を入れると、すぐに電子音が鳴った。キヌは努に小鉢に移してもらったうどんを、無心に啜っている。
「失礼します」
真理は店のドアから張出しに出て、着信履歴を見る。祐也の番号が何回も入っていた。母のもあった。裕也に繋ぐ。
「真理です。電話くれたんだね」
「当たり前だろ。何やってんだよ。付いて行ってやれなかったから心配で、バイト終わってから何とか連絡取ろうとしてた。おばさんにも電話したんだぞ」
「ママに何て言ったの」
「何も言わない。いますかって言ったら、まだですって」
「無事終わったから」
「大丈夫か」
「うん」
真理の両目から大粒の涙があふれた。
「明日、会えるか」
「うん。今ね、家のマンションの下の『欽』と言う定食屋さんにいるの。近所の人に温かいうどんをごちそうになっているの。美味しいよ」
あとは声にならなかった。祐也の声が聞こえてはいたが返事ができなかった。ポケットの地蔵尊を握りしめて深呼吸を繰り返した。真理はやっとのことでさよならを言い電話を切った。暫く立ったまま、鼻を啜っていた。
店に戻るとキヌが真理を見て手を止めた。
「風邪ひいたかもね。鼻が赤いよ」
キヌはうどんを食べることに戻った。
「ここのうどんは延びても美味しいよ。真理ちゃん」
無邪気なキヌを見ていると気持ちが和んだ。地蔵尊を握って、おばあちゃんの幸せを、おすそ分けしてくださいと祈った。
長編小説 定食屋「欽」譚 阿賀沢 周子 @asoh
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