第十話 出会い

 凍えるように寒い日であった。ほんの数歩先にある大通りを歩く民衆を憎む。お前の住む暖かい家は俺一人を迎え入れるだけで崩れ落ちてしまう程に脆いのか。体を包む毛布一枚を手放せない程にお前はそれに愛着を持っているのか。温めた牛乳の一杯を分け与えられぬ程にお前は渇いているのか。体から熱を逃がさぬよう地に這いつくばる様に蹲り、俺は世界の理不尽さをたった一人で呪う。全身を巡るのは孤独からの寂寥ではなく、激しく脈打つ民衆への憎悪だ。誰もが浮浪児を見捨てるのだから己だって見て見ぬ振りをしても構わぬと言い張り、数歩先で凍死している大勢の子供をよそに家族とホットワインで乾杯することが正義だと思い込む。俺は彼等の本質を地に揺らめく影に見た。顔立ちという個別の個性を黒く塗りつぶした影はまるで、己の個を集団に埋没させ、集団の意見に賛同する幸福を選んだ民衆に極めて酷似しているように思えたのだ。影とはどれも太陽を否定するかの如く、揃って同じ向きを向くものだ。まさに彼等の本性は影なのだ。俺はそれを確信し、影を怨嗟の対象とした。それは惨めに蹲って過ごす事の正当化にすらなりえる。影が彼等の本質ならば地に映る影を睨みつけるのみで十分であり、寒さに耐えて顔を上げる必要もなくなるからだ。

 故にその日、とある影が揺らめきながら俺に接近した時も、その影の主に話しかけられるまで俺は地に伏せることを続け、決して顔を上げようとしなかった。


 *


「君、大丈夫かい」


 そのような声と共に体に掛けられた布は、何故か人の体温を纏っていて暖かかった。俺はハッとしたように顔を上げ、その布が上等な外套であることに気づく。視線を前に向ければ俺よりは厚着をしていたが、一般的に見れば薄着の男が一人立っていた。彼は俺と比べたら年を重ねているようではあったが、まだ成人にも達していないようにみえる。何が起こったのか理解出来ず呆然としている俺に、男は膝をついて視線を合わせた。


「君一人だけが子供達の集団から離れた場所で蹲っていたから、てっきり死体かと思ってしまったよ。気づけて良かった。生きているのならば何よりだ」


 男はそう言って俺の頭を優しく撫でた。俺は驚き絶句する。気が狂い己の子が分からなくなった母や、落ちた残飯の取り合いとなった浮浪者に殴られた記憶はあれ、誰かに撫でられた記憶は、手を伸ばしても到底届かぬ程の遠い彼方へと消えていた。しかし己の頭部に感じる優しい感触はどこか懐かしいものがあり、本来ならば己の急所に触れているその手をすぐにでも振り払うところであったが、俺はされるがままとなってしまった。その様子を微笑ましそうに見ていた男は「その外套は君にあげるよ」と告げる。俺はその言葉が到底信じられず、男の醜い真意を読み取ろうと彼の瞳を覗き込んだが、見つけることが出来たのは平静な水面のような穏やかなものばかりであり、俺は気まずさを感じて視線を落した。俺の頭部から手を離し、俺の体には大きすぎる外套の紐を結び始めながら、彼は申し訳なさそうに言った。


「すまないね。本当は温かい食べ物も用意していたのだけれど、ここにも子供がいると思っていなかったから、向こうの方にいた子供達に全て渡してしまったんだ。ひもじいだろうけれど、今日はこれで我慢して欲しい」


 紐がキュッと結ばれた。俺は丁寧で繊細な結び目を放心した様に見下ろしながら、この外套が掛けられた当初から体温くらいの温かさを持っていたことを思い出す。これは彼が己の防寒のためについ先程まで着ていた物だと、俺は直ちに理解した。本来、誰かに渡すつもりがなかったものだということも同時に察する。俺はますますこの男が理解出来なくなった。自らを生きながらえさせる物品の譲渡を日々望みながらも、実際こうして呆気なく欲しがっていた物を得ると、どう反応を返せばいいのか分からなくなる。しかしいずれにせよ、これはもう俺の物だ。俺は彼の気が変わり、やはり返すように言われたとしても決して強奪されぬよう、寒さに痙攣する手で外套を握りしめながら、ぼそぼそと「ありがとうございます」と小さく呟いた。氷のように冷たい大気に晒され続けた喉が発する声は非常に聞き取りにくいものであったが、男は俺の言葉を聞き逃すことなく微笑みを返した。


「うん。どういたしまして」


 そして彼はもう一度だけ俺の頭を撫でるとその場を去った。明らかに上等な外套を簡単に他者に贈ってみせ、しかし俺からは何かの対価をせびることはなく、名乗りもせずに「今度は食べ物を持ってくるね」と一言だけ言い残して消えたのだ。寒そうに体を擦りながら遠ざかって行く背中を、俺は訳も分からず、ただそうせねばならぬという確信をもって凝視し続けた。その足から伸びる影は眼中にもなく、俺はジッとその背中だけを追ったのだ。それは彼が通りを折れて完全に姿が見えなくなるまで中断されることはなかった。

 これが俺とホルスト卿との出会いであった。

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