第九話 衆愚
四
ホルスト卿と俺の出会いは何年も前まで遡る。その頃の俺は既に莫大な厭悪の念を身の内に渦巻かせ、理不尽な世界への唾棄と民衆への憎悪だけを己が己たる支えとしているような、誠に碌でもない餓鬼であった。
俺の母は娼婦であった。人はその職業を男に媚びて股を開くだけの卑しいものと呼んだが、如何なる職業であれ、聡明さを兼ね備えずして上へ上り詰めることは出来ぬというのが道理である。高級娼婦であった俺の母もまたそれに外れぬ学識の高い女であり、母に指を差し売女と罵った庶民よりも、よほど博識で教養を身に着けていた。そんな母に育てられた俺もまた生まれた頃より勉学を欠かさなかったため、同世代の者達と比べればそれなりに優秀に育ったと思う。父はいなかったが、母との暮らしは幸福に満ちていた。それが崩れ落ちていったのは、母がある男を客に取ったのがきっかけであった。その男はまともな地位とまともな顔つきをした、一見まともそうに見えるだけの異常者であった。母と交わる際、彼は無断で母に薬を使用したのである。使われたそれは当時急に出回り始めた悪質な麻薬であり、母はその時から麻薬中毒者と成り果てた。そして最後は己を失い、廃人となり死んだ。親を失った俺は紆余曲折を経て住処を追い出され、人が道端に捨てた残飯で食い繋ぐ浮浪児へと落ちぶれたのである。
煌びやかに栄えているのは幾つかの都市部のみであった。一歩細い道へと足を踏み入れれば、そこにはその日暮らしの貧しい者達が暮らす薄汚い世界が広がっている。そこでは暴力も強盗も全てが合法だ。明日をも知れぬ者達で構成された社会では弱肉強食が自明の理として確立しており、そこには俺のように行き場を失い、家を持たぬ浮浪児も大勢ひしめいている。弱者である子供は身を寄せ合って集団を作り、協力し合うことを生き延びる手立てとするのがそこでの常識だ。しかし俺は異質にも誰とも群れず、一人で生活することを選んだのである。その理由は単純に俺が集団というものをとにかく嫌っていたからに尽きる。集団の中に身を置くということは、実体の無い「大衆」という概念に己を埋没させる憎き行動であると、その頃にはもう理解していたのだ。
初めに集団というものについて考え始めたのは、まだ俺が母と暮らしていた頃のことであった。果たして母を愚弄した者の全員が初めから娼婦を侮蔑していたのかと、ある日の俺はふと疑問に思ったのである。例えば母を罵った人間を捕らえ、人知を超えた力によってその者の記憶を抹消し、改めて母と対面させてみたとしよう。その時、その者は記憶を消される前と同じように母を侮辱するのだろうか。俺はどうしてもそうは思えなかった。つまり社会的に娼婦を毛嫌いする風潮があるから、その者も母を侮辱しようとしたに過ぎないと俺は考えたのである。それは単に敬愛する母を擁護したい俺の希望的観測だったのかもしれない。しかし数多の人間で構成された集合の中で主流となった意見が、あたかも己が抱いた信念だと勘違いしてしまうことに思い至ったのは、間違いなくこの時であった。そして、この考えは俺が行き場を失った後に更なる暴走を遂げたのである。
路地裏で体力を温存するためにジッとしている浮浪児も、時には食べ物を探しに、あるいは落ちた残飯や金になる物を拾いに栄えた町にこっそりと足を運ぶことがある。そして、そこで力尽きて倒れることも多々ある。ある日、町で倒れた幼い浮浪児の横を大勢の人間が通り過ぎた。例えばそれは、少し奮発したのか家族の人数より多くのパンを抱えてパン屋から出てきたどこかの父親であった。倒れている子供と同じ位の年の子供を育てるどこかの母親であった。妻の誕生日だと豪勢な花束を持って歩くどこかの老紳士であった。夫と旅行に行くからと新しい服を買って服屋から出てきたどこかの老婦人であった。恋人に渡すための指輪を大切そうに抱えたどこかの男であった。毛並みの良い犬を散歩させるどこかの女であった。倒れた子供を救えるだけの財力と余力がある者ばかりが子供のそばを通り、そしてそのまま見向きもせずに去っていった。誰一人としてその子供に救いの手を差し伸べようとしなかったのだ。パンの一欠けらさえ彼等は投げ捨てて行かず子供を見捨てた。名も知らぬ子供はそのまま死んで、巡回に来た警官が迷惑そうにどこかへ捨てに行った。
それを遠くから見ていた俺は、言葉では言い表せぬ程の絶望の心地を覚えたのである。その時の俺はその子供の横を通った大勢の人間とは異なり、己の明日すら危うい身であった。仮に、その時の俺に余裕があったのならば、間違いなくその子供に声を掛けたであろう。きっと俺はどこからか水の一杯でも汲んできて、子供に差し出したはずだ。しかし、そのような行動をした者は現実には一人としていなかった。それ故、俺は己とそう年の変わらない一人の子供が死んでゆく様子をジッと目に焼き付けることしか出来なかった。
本当に大勢の人間が通り過ぎたのだ。それにも関わらず、その誰もがその子供に救いの手を差し伸べることはなかった。それどころか、ほんの少し足を止めることすらしなかったのだ。しかし、本当にその全ての者が幼い子供が死にゆく様を平気で無視できる非常な人間であったのか。その疑問に対して俺は明確な答えを持っていた。それは「否」である。例えば余分なパンを抱えた人間の前に、今にも死にそうな程に衰弱した子供が倒れていたとしよう。そしてその二人以外、周りには誰もいないと仮定する。つまり、その子供を助けることが出来る者は己しかいないと思わせる状況を作り出すということである。その場合、余分なパンを子供に差し出す人間もいるのではないかと、俺は思うのだ。つまり此度の件では皆が見て見ぬふりをしているから自分もそうしようという集団心理が働いて誰も子供を助けようとしなかっただけで、個々の人間の本質とはそこまで不良なものではないと俺は考えた。しかし、この結論は決して人間という生物の本質を称えるものではなかった。むしろ、俺にとってそれは全くの真逆の印象を与えたのである。
辿り着くべき結論に至れる思考力を持っているというのに、嬉々としてそれを放棄し、集団に埋没することを選び、思考を停止させる彼等を、俺は軽蔑し蔑んだ。それ故、俺は彼等を衆愚と呼んだ。
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