第四話 嘘つき

「まさか、そんなはずはありませんわ!」


 警官がそう言った時であった。一人の女が民衆の中から恐れを知らぬように声を張り上げながら躍り出る。成人してからまだ数年しか経っていないと見える若い女だ。彼女は瞳から涙を一筋零しながら、高らかに叫んだ。


「私はかつて様々な事情が重なり、孤児院で暮らしておりました。幼い頃、両親を事故で失ったのです。母と父の温もりを失い、泣き暮らしていた私を見て、慈善活動の一環で孤児院を訪れていたホルスト卿は私を抱き上げて慰めてくださいました。両親の死を受け入れられずに酷く暴れる私に引っ掛かれて傷つきながらも、少しも構わず抱きしめてくださった卿のお姿は、大人になった今でもよく覚えております。そのようなお優しい方が、そんな酷いことをなさるはずがありませんわ!」


 すると驚いたことに、銃を持つ大男にも臆さずに立ち向かった女性を応援するように、周りからも次々と警官を否定する野次が飛び始めた。


「そうだそうだ!」

「ふざけたことを言うな!」

「どうせ、その悪事とやらもでっち上げに決まっている!」


 そしてまた別の人間が民衆の前へと足を踏み出す。杖を突いた男はゆっくりと警官の前へと進み、彼をギロリと睨みつけた。


「この私も卿に救われた一人である。数年前、足に大怪我を負い、仕事を失った私は貧しい暮らしを強いられることとなった。妻も既に病で亡くなり頼れる者もおらず、三人の子供も幼かった。貯金も尽き、もはやこれまでかと思っていた——そんな苦境に追い込まれた私を見かねて救ってくださったのが、視察のため町へ出向いていたホルスト卿だったのだ。卿は私に生活資金を工面してくださった上に、大怪我を負った私でも働くことが出来る職場を紹介してくださった。あぁ、本当に素晴らしい御仁だ。故に、ホルスト卿への愚弄は許さぬ」


 その男が警官に語ると民衆達は喝采した。先程までは警官の言うことを素直に信じていた者でさえこの雰囲気に飲まれて、今や意見を翻し、警官の言葉を否定して杖を突いた男に賛同する。俺はその様子を見てほとほと飽きれ果ててしまった。あぁ、実に愚かなことである。皆は一丸となって誰かに追随するのだ。それは確かに楽な道であろう。己の意見をしかと持つよりも流されて誰かに賛同する方がよほど幸福になれる。その在り方には嫌悪しか感じなかった。そして俺の考え方に寄らず、こうした集団思考の制御は想像よりも容易いものだ。必要なのはただ弁舌のみである。それ故に、警官は続きを言うのに躊躇うことはなかった。


「聖人君子を装う者が、裏では残虐非道な行いをしていたというのは歴史的に見ても珍しいことではあるまい。例えば、杖を突いたそこの御仁よ。貴殿に工面された資金が、他者から理不尽に奪われた財産だったらどうする?」

「貴様、何を言う!」


 彼は怒りに任せて杖を石畳に叩きつけるが、警官は常に冷静であった。


「ホルスト卿は己の持つ権力を利用して、民の血税を横領していたことが調査の結果判明した。成程、不当に得た資金をほんの少しばらまいてみせることで、民の支持を得るとは実に卑劣な男だ」

「——適当なことを言うなアッ!」


 警官の言い分に、ついに俺は大声を上げた。何を言われようとも笑みを崩すことがなかった俺の様子に、人々は驚愕し目を見張る。


「適当なこと? こちらにはこれがある」


 そこで警官は近くにいた彼の部下と思しき男から書類の束を受け取り、それを俺に投げつけた。その勢いに紙同士を結んでいた紐は呆気なく千切れ、辺りに何枚もの紙が撒き散らされる。風に吹かれて飛んでゆく紙の一枚を手に取り、俺はギョッと目を見開いた。


「これは!」

「調査をしたと言っただろう。——貴様がつけた帳簿だ。民が必死に汗水流して働き納めた税を奪った証拠であり、他にもあった数多の不正を裏付ける物でもある。そうそう、先程言及した麻薬取引の儲けの記載もあったな。随分と儲かったようではないか。その対価に得た豪勢な暮らしは、さぞや素晴らしいものだったことであろう」

「こ、こんなもの知るものか! これは私とは関係がない!」


 俺は焦ったようにそう怒鳴りつけ、手に持っていた紙を感情に任せて破り捨てた。しかし俺達を取り囲むように見守っていた子供の一人が、風に飛ばされた紙に興味を示して、その小さな手を伸ばそうとしたのを見つけてしまった。俺は「それに触るな!」と声を荒げながらギロリと子供を睨みつける。俺の尋常でない様子を真っ向から受ける羽目になった少年は「ヒッ」と小さく悲鳴を上げて、慌てて手を引っ込めた。俺の態度を目撃した民衆達は狼狽え始める。

 誰が正しいのか。正しいのは俺の言い分か、それとも警官の言い分か。その場にいた誰もが判断に迫られる中、民衆の中から一人の男の咆哮が響いた。


「お前のせいだったのかッ!」


 彼は密集する人々を押しのけて、血走った目で俺を凝視した。


「俺の親友が麻薬に手を染めて、最後は正気を失ったまま死んだ! 俺はあいつを兄弟のように慕っていたのに、お前のせいであいつは死んじまったのか! 返せよ、俺の親友を返してくれよ!」

「ち、違う、私は関係ないッ」

「善人の皮を被った異常者め!」


 俺の前へと飛び出してきた彼は、俺の乗る車に乗り込もうと手を伸ばすが、その彼を止めたのは初めに声を上げた孤児院出身だというあの女であった。彼女は両手を広げてその男の行く手を阻もうとする。


「そこをどけ!」

「やめてください! ホルスト卿に酷いことをしないで!」


 非力な女の身だというのに暴れる男に果敢に立ち向かった女に対し、警官は感嘆するどころか冷え切った視線を送った。


「勇敢なる御婦人よ。これを見てもまだ卿を庇えるのかな」


 そして彼は自らの足元に置いてあった鞄からガチャリと何かを取り出し、それを女の下へ放り投げる。女は自らの足元に落ちたそれを見てヒュッと鋭く息を呑んだ。誰もが絶句し、しかし次の瞬間、あちこちから絶叫が上がった。

 それは赤黒い血が錆のようにこびりついた鋸であった。

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