第35話 ダブルスチール

 友樹は何度も大きなリードを取って帰塁するのを繰り返した。


 鎌田の目つきから余裕が少しずつ削れていくのをじっくりと見ていた。

 ベースの地を這う友樹とマウンドに猛々しく立つ鎌田の戦い。


 仕留めるようなけん制球に、ひらりと帰塁する。そしてまた大きなリードをする。


 鎌田にアピールするための離塁だとバレてはいけない。

 友樹が二塁を本当に狙っていると思わせなければならない。獲物を狙う猫のような隠密なリードを心掛ける。


 鎌田の隙を探る視線を送る。けん制が再び飛んでくる。今度はヘッドスライディングなしで足で帰塁した。

 鎌田を見るふりをして三塁まで視線を飛ばす。


 草薙は殆どリードをしていない。岡野が打つのだから盗塁は狙っていないとアピールしている。本当はダブルスチールのことで意識を尖らせているが、そうではなくて岡野を信じているというふりをしている。


 鎌田は早く岡野に一球目を投じたい。リードをして引っかき回す友樹に心底苛立ったようで、乱暴なまでのけん制が放たれた。友樹は間一髪戻る。


 友樹が束の間、大人しくなった途端に、打席の岡野へと鎌田が投球する。一三五キロを叩きつける。


 友樹は走る。


 岡野の空振りは大きく、キャッチャーの視界を一瞬塞いだ。


 キャッチャーが二塁へ送球し、友樹は必死にスライディングしたが、ぎりぎりでアウト。


 束の間、鎌田が最高の笑みを見せた。しかし、すぐにその顔は曇る。


 草薙がホーム目掛けて――友樹がアウトになるより前に――スタートしていた。セカンドからの送球を受け取るキャッチャーが、逸さないように前に体重をかけた。

 草薙はキャッチャーの尻の後ろに手をついて滑りこむ。


「セーフ!」


 主審のコールに鎌田は言葉にならない叫びをあげ、グラブをマウンドに叩きつけた。


 アウトになった友樹と生還した草薙が共にベンチに帰る。友樹は草薙を見上げた。同点のプレッシャーを背負いながら果敢に還ってきた人だ。長い髪を結ぶヘアゴムが少し緩んでいるのは戦いの証だ。


 友樹と草薙はハイタッチした。これは許しなのだろうか。


 友樹にはそれだけで十分だった。


 七回裏。


 四番鎌田が目に涙を溜め、吼えるように叫ぶ。鎌田は球数制限のためもう投げられない。この打席が彼の今試合最後の舞台だ。


 対する遠園は三番手の沢。左の軟投派。

 代走の友樹はライトになった。草薙はセカンドに。ライトから草薙の背を見る。守備位置に立つ彼女がいつもより大きく見える。


 二遊間となった草薙と新藤が何か話している。草薙に与えた言葉を気にしていた新藤の胸のつかえは取れただろうか。


 沢の一球目、緩いカーブを鎌田が豪快に空振りした。

 完全にホームランを狙っている。二度目を狙うとはなんて奴だ。二球目、三球目は振らせたかったが鎌田は振らなかった。

 マウンドに内野の皆で集まる。


「俺は大丈夫! 稲葉の敵は取る!」


 沢は元気だ。気圧されていない。


「だけど、多分強い打球が来るから皆気をつけろよ!」


 野手に励まされるどころか、心配する沢に新藤を始めとして微笑む。頷き、マウンドからそれぞれの場所へ散る。


 四球目は外角低めに大きく外れた、思いきり遅いカーブ。見事な見せ球だ。


 勝負の第五球、沢はインハイに全力のストレートを投げた。

 インハイに全力ストレートは鎌田が今までやってきたこと。沢は意趣返しをするのだ。


 沢の心が分かったらしく、鎌田は怒りを見せるかのような荒々しくも鋭いスイングをした。打球が前へ。鎌田の口角が上がった。


 草薙が跳ぶ。

 体を伸ばした美しい跳躍。

 しっかりと捕球した草薙が審判にグラブを掲げた。


 友樹の頭の中の、何度も再生した動画の中の草薙は、たった一回の今に塗りかえられた。

 美しい。


 鎌田が一塁へ向かう途中で泣き崩れて立てなくなっている。


 八回表。


「後は任せろ」


 新藤が交代したピッチャー相手にツーベースを放った。


 八回裏。


 ライトフライをキャッチした友樹は、勝利したのだとグラブを掲げた。

 青空の下、鎌田はボロボロ泣きじゃくり、先輩たちになだめられている。彼は未来のエースだ。今はまだ勝つべきときではなかっただけ。


 友樹は鎌田と戦っているとき、野球の芯に触れている気がした。

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