第31話 草薙の兄

 岩手県内のいくつかの球場で一回戦が行われる。

 遠園シニアは盛岡の球場で十二時四十五分から試合だ。

 滝岡シニアは第一シードなので明日が初戦だ。


 盛岡の真新しい球場の前に集合した。鮮やかな緑の人工芝。マウンドと、塁の周りだけ土で、ダイヤモンドのラインは赤っぽい人工土だ。


 一軍として草薙と共に集合しなければならない。草薙の友樹の顔を見ない様子には、先輩の威厳などまるでなかった。ただの傷ついた少女。その姿がさらに友樹を追いつめる。


 新藤の、二人の様子に気づいた上での無言がありがたくて、友樹は涙が出そうだった。


「おーい香梨」


 私服の男性二人が、こちらに駆けよってくる。


「おっ! 来てくれたか!」


 浅見コーチが彼らを見て嬉しそうにした。監督まで顔を綻ばせた。

 友樹以外は彼らを知っているようで頭を下げている。友樹も慌てて頭を下げた。


「OBの草薙梨太りたと楠木仁志ひとしだ。二人とも高校一年生。香梨と大志の兄でもあるんだよ」


 友樹の目にはだいぶ大人に映った。二人とも新藤と一つしか変わらないのに、さらに遠い存在に見える。


 友樹は草薙の兄と紹介された梨太をまじまじと見てしまった。草薙よりは丸みのある切長の目。すっきりした輪郭がそっくりだった。

 両親は野球を反対しているというが、兄はどうなのだろう。


 梨太に草薙のこと、あるいは草薙の両親のことを聞きたいというのは身勝手な思いだ。肩入れどころではない、友樹の一方的な気持ちの押しつけだ。

 きっと俺はおかしくなったと友樹は思っている。


 仁志が皆の顔を見渡し、見覚えのない友樹に気づいたようで、ぱっと笑顔になった。


「もしかして井原くんか?」


「はい」


 皆の視線がこちらに向くのは、普段なら恥ずかしい程度で済むが、今はきつかった。


「大志から聞いてる。一年なのに一軍みたいなもんだって。大志をよろしくな」


「はい」


 いつもより歯切れの悪い友樹に何人かの上級生が不思議そうにしたが、初対面のOBが気づくはずもなく、にこにこしている。梨太もこちらを見てくる。梨太に感じる必要のない罪悪感でそっと目をそらした。


 試合前に皆でお弁当を食べる。一軍も二軍も一緒だ。梨太仁志バッテリーから高校の話を聞く楽しい時間になった。


「やっぱり甲子園を目指してますか?」


「当たり前でしょ」


 梨太が言いきり、


「目指すぜー」


 仁志が大志と似た口調で答えた。


 甲子園かと、友樹はまだまだ先は長いと思った。

 草薙を怒らせてしまったことさえ、いつか振り返れば些細なことになってしまうのだろうか。


「梨太はお父さんもお兄さんも甲子園に行ってる」


 仁志のその言葉に、全員が身を乗りだす勢いになった。


「二人とも一回戦負けだけどな」


「それでも凄いですよ」


「俺も香梨も、もっといい結果になればいいんだけどな」


「あー、そっか。女子は決勝だけか」


 女子硬式野球の夏の大会は、決勝戦のみ甲子園球場で行われる。

 テレビであまり放送しないが、友樹は数回ネットで見たことがある。草薙と出会う前のことだ。特別に関心があったわけではなく、野球を知ろうとするなら女子硬式野球の知識もあったほうがいいと思っただけのことだ。

 女子の大会のことをよく知らない人もいて、へーという声がいくつも響いた。


「甲子園に行くだけで父と兄超えだからな」


 梨太はあまりに明るく、簡単に言う。本気で言っているのか分からないくらいに。


 それならなぜ、草薙の両親が草薙の野球を反対するのか、友樹は懲りずにさらに気になりだした。


 草薙は兄とも友樹とも離れたブルーシートの端で弁当を食べていた。


 試合前のシートノックでも、やはり草薙との会話はなかった。

 友樹は一回戦はベンチだ。

 四回で草薙が代走としてベンチから出て行くと、友樹は息をついた。


「おい、どうしたんだよ」


「喧嘩か?」


 福山と檜に聞かれたが、この二人に話していいのかも分からない。


「いえ」


 ありがたいことに、二人はそれ以上追及してこなかった。


 盗塁して二塁に出た草薙をベンチから見ていると気が楽だ。画面を通してあんなに見て、画面越しではなくなって本当に話して、本当に一緒に練習できると喜んだのに、ぶち壊したのは自分。


 犠牲フライで二塁からホームを狙った草薙がアウトになった。三塁で止まっておけばいい場面だった。

 まさか俺のせいではないだろうなと、身勝手なことを再び考える。


「どんまい!」


「次行けよ」


 ベンチに戻り、檜と福山に声をかけられた草薙の表情は少し持ち直した。

 草薙に自分も声をかけたいという衝動が湧き上がったが、耐えた。

 ごめんなさいと、胸の内側で言葉だけが巡る。


 試合は快勝した。遠園シニアには次がある。

 試合が終わると、直後の喜多方シニアと秋田鹿角シニアの試合を見て帰ることになっている。


「俺たちはそろそろ帰るね」


 梨太が左手を振って帰る。仁志も大きく手を振る。遠園シニア全員で深く頭を下げた。


 皆でバックネット裏に行くと、草薙が身を強張らせたのが分かりやすかった。

 姫宮がいる。滝岡シニア皆ではなく、個人で来ているようだった。


「香梨ちゃん、おつかれさま」


 姫宮が薄寒い笑顔で草薙に手を振る。

 草薙は無視した。


「ちょっと無茶な走塁だったんじゃないの?」


 姫宮の挑発にも草薙は無言を貫く。


「てめえ、そんなことを言いに来たのか?」


「さっさと帰れよ」


 前と同じように福山と檜が姫宮から草薙を守ろうとする。


 おかしいのは自分だけではないと友樹は気がついてぞっとした。草薙が野球をすることを悪く言う姫宮だって、一方的で身勝手だ。草薙の両親に至っては娘に取る態度ではない態度だ。


 自分を含めて誰もがおかしいのなら、自分だけ遠慮したくないのだ。おかしいと分かっていても、止められない。


 友樹はバックネット裏から球場の内部に戻った。階段を必死に降りると駅まで走りだす。OB二人は徒歩で来ていた。球場から駅までは見晴らしがよく人通りが少ない一本道だ。遠くに二人がいる。それほど急いでいないようで、この距離なら大丈夫かもしれない。


「草薙さん! 草薙さん!」


友樹の声が届き、梨太と仁志が足を止めて振り返った。

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