第16話 怒り
自分に敵意が向かい、自分にだけ剣先を向けられるのであれば考えることは、どうやって自分の身からそれを遠ざけるか。
しかし突如として、カロムの考えることは変わった。
どうすれば彼女から剣を遠ざけるか、である。一瞬で思考を変えることが出来る訳もなく、距離も近ければジェラルトの詰めるスピードも速い。
(よけ、きれない……っ)
これまで一度も鳴らなかった音が部屋に響く。大きくも騒がしくもない。ただの布が切り裂ける音。そして滴り、床に雫が落ちる音である。
「カッ……!」
ルチアーノは喉がへばりついたように言葉を詰まらせた。
突然、彼女の視点は低くなる。また、襟首の後ろを強く掴まれたが、それは一瞬の出来事だった。次に強く後ろに引かれた。放り出されたように。
後ろによたりと揺れながら、尻もちをつくように床に倒れ込んだ。
彼女の首回りを囲むように巻かれていた腕はいつの間にか、なくなっていた。
「……さすが、出来損ないの国の男だな」
「カッ、カロッ……!」
少し離れた場所でデリーが少し高く上ずる声をあげる。
ルチアーノの前には同じく姿勢を低くしたカロムがいた。彼の背中が小刻みに震えている。
しかしその姿は異様で、片手で剣を持ち、その矛先を床に突き立てて、もう片方は胴体の前方を抱えているようである。
不格好にしゃがむ足の間から、床に滴る雫の音は何か、ルチアーノは理解し、顔を青ざめた。
呼吸が疲れなどとは違う乱れ方をしている。
カロムの下腹部辺りから血が一滴、また一滴と零れていた。本能と反射で腹部を腕で抑え、止血を試みた。ヒュッとカロムの口から弱った息があがる。
「女を身を挺して守ったところで、自分の肉に刃が食い込めば意味もない。無様に這い蹲るしか出来ない」
ジェラルトの振った剣が、カロムの下腹部の皮膚と、少しの肉を左から右へと真っ直ぐ横に斬りつけた。
ジェラルトの持つ剣の銀部分も赤く濡れていた。
もとはルチアーノの腹部から胸辺りを狙っていたが、それをカロムが阻むように彼女の身体を横に押し、後ろへと放ったのだ。
「終いだな」
呼吸をすることで精一杯なカロムに、ジェラルトに何かを返せる気力はもうない。
「はー、はぁ、」
冷や汗と運動による汗が、加速するように吹き上がる。痛みは感じない。熱く、熱をもったようでジンジンと麻痺をしている。
奥深くまで貫いた訳ではなく、軽く腹部の皮膚が裂けた程度である。出血量は多くないが、カロムの服の袖を真っ赤に染めた。
ジェラルトは、またカロムに矛先を向けた。ゆっくりと、獲物を確実に捉えるように、剣を振り下ろす場所を的確に決めた。
「カロムっ!」
「カロム君!」
部屋にはデリーとルチアーノがカロムの名前を呼ぶ声が響く。二人とも顔を青くし、唇を震わせ、絞り出すような声であった。
カロムには二人の声が揺れるように聞こえていた。少しだけ焦り始めているのかもしれない。そんなことを考えられる思考は持ち合わせているようであった。
ジェラルトは首横から斜め下にカロムを斬ろうと、上へと剣を振り上げた。
カロムは僅かに細めた目で、その様子、姿勢を確認した。
キィィインと、高い金物がぶつかる音が鳴り響く。
「……意味のないことばかりを。時間の無駄、ということが分からないのか!」
「はっ、は、むだ、でも、死ぬよりは、マシでしょう」
カロムはやっと自身の握る剣を振った。ジェラルトを突き刺すためではなく、あくまで一時、ジェラルトからの剣を避けるために剣を合わせた。
キッ、キィッと剣同士が擦れ合い、火花が散る。鳥肌をたたせる高い音を刻んだ。傷のせいで力も籠められなければ、受け身などやったことのないカロムの剣は、既にジェラルトの剣に押し潰されそうだった。
「結果はっ、変わらんぞっ」
頭上に剣を横に上げたことで、上から落ちてくるジェラルトの剣と十字の形で交差する。カロムは上へと押し上げ、ジェラルトはカロムの身を裂こうと下へ押し下げる。
ギリギリ、と擦れ合いながらも、ジェラルトの剣先が、カロムの身体へと近付いてくる。
「一気に裂ければ、痛みも一瞬だというのに」
ジェラルトは吐き捨てるように言う。
「ころ、された、こともない、ひとに、痛みが一瞬か、どうかなんて、分からないでしょうっ」
腕に全身の力を込めながら、カロムは青紫に変色した唇で弱々しい声で返した。ジェラルトを見上げながら、無理をして笑う。
傷を負ってもなお、ジェラルトを挑発する口ぶりを止めることはない。
蔑むように見下ろされながらも、何処か誇らしげなカロム。ジェラルトは、口を結び数秒カロムを見てから、重そうに唇を開いた。
「……わかる、俺ならば。……一瞬のことだった……」
ポツリと低音で一言告げるジェラルトの面持ちは一気に暗くなる。それは怒りなどではない、何かを思い出し恨んでいるような、懐かしいような顔であった。
カロムはその言葉を聞き逃すことはなかった。
「ヘリヴラムの血、であればっ、わかるという、のですか?」
そんな深刻そうな表情を見せたジェラルトに対して、またもや挑発的な態度を示した。
カロム自身が一番分かっている。ヘリヴラムの血にそんなものが分かるはずないということを。彼はその血の保持者の一人であるのだから。
これはジェラルトの怒りを奮い立たせる行動でしかなかった。
「ヘリヴラムか。何でも知り得る血であったならば、俺がそれを持ったことに価値はあったのだろうな。……血は必要だったが、身は要らなかった。それだけのことか」
意味を含むことを言い切れば、カロムに圧し掛かる剣の圧は増した。
「私が、いなければっ、お前なんかにも、こんな時間をかけることはなかったというのに!」
カロムに対する怒りではなかった。怒りの矛先は、まるでジェラルト本人に向いているようであった。
「……何故、何故……っ! 私が、生まれ、なければっ……! 血を分けなければっ」
ジェラルトはこの場にいる三人ではなく、自身を責めたてる言葉を発しながら、その怒りのまま、腕に力を入れていく。
ルチアーノは座り込んだまま、ある言葉を思い出した。
それは一人の女の言葉であった。
──『二人の子が同じ腹の中にいた訳ではないのであれば、平等の遺伝子が渡るかもしれませんね』
冷静で無気力そうな闇を持った茶色い瞳を微かに揺らしながら、確かに王妃エリザベスの食事係の女はそう言っていた。
(……同じ、腹……)
引っ掛かりを覚えたルチアーノは、チラリとその言葉を彼女から引き出した、目の前の死に際に立っている男を見た。
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