ホロウ・シカエルボク氏の「手遅れの手前」を読んで

 まず、この文章が批評であるかどうかについて、わたし自身は「これは批評ではない」と感じるものです。そして、ここで対象として挙げられているホロウ・シカエルボクという作家について、「この人物は詩人である」と思うものです。


 以下に置いた文章は、先日投稿させていただいた、「リリー氏の『Cheer』」を読んで」と同じく、現代詩フォーラムというウェブサイトに寄せたわたし自身のコメントを読みやすく、改定したものになります。ただし、インデントの徹底、段落の追加、微細な修正などは行っています。さあ、この詩人について、読者の方々はどんな感慨を抱かれるものでしょうか……?


ホロウ・シカエルボク「手遅れの手前」

https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=382633&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D5216


 ***


 色々と読ませていただいている段階なのですが、まず、この著者の執筆であるGoo blog(*1)に書かれていた「実を言うと、僕が詩を書き始めたのは、二十代の前半に狂ったように書いていた小説のようなものが書けなくなったからだった。」という述懐を、再考してみるものです。


 当初、ホロウ・シカエルボクさんの書かれた詩は、「言葉が引っ張る詩」であり、現在のホロウ・シカエルボクさんの詩は、「詩が引っ張る言葉」である、と感じています。てんで的外れであったら、ご容赦・ご指摘くださいね。わたしの乏しい感受性が、ホロウ・シカエルボクさんの表現に迎合しようと(そういうのは、ダサい姿勢であると自覚はしております)四苦八苦した結果出て来た言葉なのです。


 まず、「歩いて5分程度」が「延命措置にはおあつらえ向きの時間」という叙述について──わたしは何を思ったんだろう? 何を?


 すみません、忘れてしまいました。……これは、現代の生活様式を精確に皮肉った言葉でもあり、詩におけるカウンターとしての機能を有していると感じます。こうした目を引く表現から(詩にロマンを求める人は、逆に注目しないかもしれませんが)、引っ張られるように後の言葉が綴られていきます。


 ただ、詩とは「言ってやったぜえ」で終わるものであってはいけないように思うのです。詩人が第一に悩むのが「どう書き始めるか」であり、第二に悩むのが「どう終わらせるか」ということです。……「内容」など、詩の「持続」に比べれば、蹴飛ばしても良いようなものなのです。


 さて、この詩にもいつもの「ホロウ・シカエルボク調」が現れていると思います。


 ですが、読者にあっては、それで終わらせないでほしい気もしているのです。本当に少しずつの変遷/変化が、ホロウ・シカエルボクさんの詩歴にも現れている、と。……かつて中原中也を批評した大岡著作の著作にあって、中原中也の晩年の作である「冬の長門峡」は、この詩人(中原中也)における大成/晩熟を示している、といった言葉があったように記憶しています。「30歳で死んだのだから、これは若者の表現だ」という読み方にたいして、カウンターを示したわけです。


 ホロウ・シカエルボクさんの詩を俯瞰的に見るにあたって、「僕が詩を書き始めたのは、二十代の前半に狂ったように書いていた小説のようなものが書けなくなったからだった」という言葉は重要であろうと思えます。「詩は小説の後なのか、先なのか」ということも踏まえて、ホロウ・シカエルボクさんの詩を読まなくてはいけないのです。


 ……そこで、わたしは単に「はあ」とため息をつきますが、あるいは、ここにおいてホロウさんは、「詩に染まって」しまったのでは? といった問題も現れてきます。例えば、室生犀星などは詩から小説に入っていった人ですが、ここで「ホロウ・シカエルボク」という人物を理解するにあたって、氏は「小説から詩に入っていったのか?」と考えることは、きわめて重要な考察であり、読書/読解の本質を示している考え方だと言えます。


 ホロウ・シカエルボクさんの詩における、散在していながらも透徹している音韻性、絵画的な描写、それがどのように作者自身の「作風」に合致し得たのか、マッチしたのか……ということ。それを顧みなくてはいけないのです。


 とりとめもない感想になりましたが、例えば作中における「ゲンズブールの女だったころのジェーン・バ―キンみたいだった」といった言葉に、わたしはくすっとなるのですよね。


 ……ゲンズブールというと、わたしはセルジュ(上に書かれている「ゲンズブール」とは、フランスのポピュラー・ミュージックの音楽家であったセルジュ・ゲンズブールのことを示しています)の実の娘であったシャルロット・ゲンズブールとの間の、近親相関的な愛情を描いた映画「シャルロット・フォー・エヴァー」を想起します。


 実は、この映画、機会がなくてまだ観てはいないのですが……。読者としては、こうしたガジェットから連想して「この詩はエロティックだ」という感慨をもっても良いのですよね。


 これ以上の解釈のヒントはここには示しませんが(なぜと言って、芸術作品を「解題」されることほど、その読者や鑑賞者を退屈・幻滅させることはないからです)、ここに、詩を読み解くのではなく、「詩作者」自身(そのもの)を理解するための「よすが」というものが現れているような気がします。


 実は、この詩の解釈がどういった内容のものであるのか、といったことはどうでも良いのです。インターネットの初期から、社会からはぐれて詩を求め、詩作品を投稿、あるいは解題してきた人たちは大勢いました。改めて感じるのは、この「長調から始まって短調で終わる」あるいは「短調から始まって長調で終わる」といった、精細至極にして微妙な「ニュアンスの変化」です。


 わたしはどちらとも言い、どちらとも言わないのですが、この詩において時々現れる「感慨」のようなものが、「作者を突き刺す刃」になるのではないか? と感じます。「読者を突き刺す刃」ではなく。


 この詩の結論は「猫は、自分がまだ生きていると信じているみたいにビー玉のような目を見開いていた」という表現になるのですが、そうしたことを吹っ切る「言明」が、それ以前に現れている。そうしたことを、わたしはこの詩人における一種の「未来予知」のようなものとして感じるのです。もちろん、そうしたことは「タイムシート」に則って制作する現代の創作家(クリエイター)において、しかるべき創作態度であるとは考えています。


 ただ、「はてさて、この詩人を舐めるなよ」ということは感じ。そのことを読み切ることについては、わたしはまだまだこの詩人の著作を十分に読み切れてはおらず……ということを報告しなくてはいけません。「まあ、待ってよ、わたしの書く批評をね」、ということは思っています。


 以上、全然作品の批評になっていませんが、今日はこれにて。


 ***


 現代詩フォーラムに投稿したコメントは以上です(改定は加えております)。


 さて、わたしは読者の方たちにたいして、何を思ってほしいのでしょうか? わたし自身は、あまり突飛な考えを提示したいとは思っておらず、ただ「現代詩フォーラム」というコミュニケーションの場において、「こうした表現/対話も現れてきた」「詩人も現れてきた」といったことを提示したいのみである、と思っております。


 ホロウ・シカエルボク氏は、現代詩フォーラムにおいては2007年から詩作品を投稿しており、今現在における現代詩フォーラムにあっては、古参にも近い立ち位置を持っていると、わたし自身は思っています。また、ユーチューバー(*2)としても活動されているなど、多彩な活動を行っている方です。……ですが、未だこの詩人が「どこから来て、どこへ行くのか」ということは、わたしにとっても謎のままです。いつか、長い批評も書きたいと作者に伝えてはいるのですが、それがいつのことになるのか……


 この記事(カクヨムにおける記事)について。──まず、上に挙げたリンクを参照していただかなくては、「この作品はどんな作品であるのか」どころか「この作者がどんな作者であるのか」といったことも分からないと思います。まずは、皆さんの好奇心あるいは善意をもって、この詩「手遅れの手前」を読まれますことを。文字通り、「手遅れ」になる前に。……その前に、まずはホロウ・シカエルボク氏が、現代詩フォーラムにおいて作品を公開している、そのURL(*3)を張っておきます。


 ──これは、一次投稿を経ての追記ですが、わたし自身はこの詩にたいして「生物」としての感覚を強く感じます。それは、身体性・肉体性・性の本質などを追求した、戦後の文学とは明確に異なった感覚です。エロティックな感覚(それは、読者それぞれの方が、それぞれに読み取ってください)を越えて、最後には「猫」という「自然の存在」(しかも、それは文明によってあらかじめ破壊された存在である)によって終わる、そのことを注視 していただきたいものと、感じるのです。


 それでは、今回も稚拙な「感想」のみにて。


 さらに追記です。


 これはほんとうに蛇足なのですが、この詩には「延命措置」という言葉が二度出てきます(*4)。そのことを、わたしはこの詩人における「思いの表現(意思表明)」であるとは見ず、音楽における対位法的な技巧がふと現れたもの、と捉えます。実は、この詩人と対話するなかで、「(僕は)言葉を使って絵を描いているんですよ」という言葉をいただいたのですが(わたし自身に直接返されたものではなく、作品のコメント欄において、ホロウ・シカエルボク氏が綴った言葉です)、上でも少し触れた通り、氏の詩においては音楽性と絵画性とがミックスされ、詩的な表現を使えば、ブラック・ホールに吸い込まれる物質や、中性子星が誕生する過程で、それまで物質としてあったときの感覚・特徴がすべて破壊されて融合する、そうしたダイナミズムを感じるのです。


 また、この詩においては「絆創膏」という言葉が、実に八度も現れてきます。これは、ホロウ・シカエルボク氏の感性と理性の目を通して取捨選択された言葉に違いないのですが、ここで安易な解釈にすがると、これはアニメ作家の庵野秀明がその作品中で何度も提示した「自分にとっては何かが壊れ、欠けていることが普通である」(例として、包帯姿の綾波レイの描写が挙げられます)という、「生への執着」のようなものも感じられるのです──すなわち、これは「性的」ではなく「生的」な表現である、と。……ここにエロティシズムを感じることは逃げであり、詩の本題から逸れることでもあるように思います。


 ほんとうに、蛇足ですね。これ以上は言いますまい。「読者にとっての読むことの楽しみ」を奪わないためにも、ここで口を噤みます。


(*1) 不定形な文字が空を這う路地裏」(https://blog.goo.ne.jp/horoushikaeruboku)


(*2) ホロウ・シカエルボク(https://www.youtube.com/@hoga9)


(*3) ホロウ・シカエルボク(https://po-m.com/forum/myframe.php?hid=5216)


(*4) 賢明な読み手は、この言葉が一種スキャンダラスなものであることを、読み取るべきでしょう。

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