強炭酸癇癪玉
小狸
短編
母は、
ふとした拍子に、些細な言葉で、何気ない物事を、一見意味のない事象が。
母を、癇癪へと引き立てる。
例えば、食事で、私の苦手なグリーンピースの入ったサラダが出た。
私は、グリーンピースを極力食べないようにしながら、大皿からサラダを取り分けた。
そして、サラダが減ってゆくと、グリーンピースが偏る。
本当は気付かせぬように食べれば良かったのだが、私は本当にあの苦さとどうでも良い甘さが苦手だったのである。
その偏りに、母が、気付く。
すると、わざとらしく音を立てて食卓を立ち、サラダと、その時の主菜――何だったか覚えてはいない――の大皿を持って、キッチンのゴミ箱へと持ってゆく。
「食べないってことは! いらないってことだよね! ○○ちゃんは! 私の作ったサラダ! 食べないんだよね! ああ! もう嫌! 嫌! 嫌!」
と、矢継ぎ早に、それでいて早口で血走った眼をして、母は言う。
酷い時には、皿が割れることもあった。
周辺に持ち物を投げつけて、大声でわめいて、わんわん泣くのだ。
まるで子どものように――当時小学生の私から見ても、子どものようだった。
壊れている。
その漢字を初めて習った時、一番に頭を過ったのは、母の様子だった。
母は、壊れていた。
何とか父と祖母――母にとっては義母にあたる――が母を宥めた。
私達姉妹は、黙って一部始終を眺めていた。
令和の今ほど、大人の精神疾患に寛容でなかった時代である。
どちらかというと、祖母と父は、母の奇行を人から隠すようになった。
それに私は、母にとって娘だった。
少なくとも小学生の私にとっては、両親は世界みたいなものである。
そんな苛烈――というか理不尽な環境で育った私は、
特に自己肯定感は、人よりも相当低くなった。
機能不全家族――毒親、という言葉があるけれど、そういうものとは少し違うと、私は思う。
母だけが、あの家で壊れていた。
そして私には――常に不安があった。
恐れていた。
いつか自分も、ああなってしまうのではないか。
いつか自分も、癇癪を起こして、どうしようもなくなって、人に迷惑をかけてしまうのではないか。
そんな私が、生きていて良いのか。
そんな私が、幸せになって良いのか。
私にとって幸いだったのは、妹は母の影響を受けなかったということにある。
丁度私が思春期の頃が、母の癇癪の一番酷い時期だったのだ。結果的に、妹は、その余波を受けずに済んだ。それは、良かったと思う。
ただ、それはそれ、これはこれ、である。
私は、生涯このまま、得体の知れない不安と理不尽と不条理を抱えたまま、生きなければならないのか。
その疑問が確信に変わったのは、教育実習の時である。
私の教えていた科目は国語だった。
そして実習先の中学校が「道徳」に力を入れているということで、実習生四人で、一つのテーマを決め、それを授業で行うことになった。
教員を真剣に目指していた私としては、ありがたい話である。
ただ。
そのテーマ、というか扱った教材が、良くなかった。
家族。
最終的にテーマが「家族」に決まり、「道徳」の副読本を用いて授業を行った。グループワークやら、ホワイトボードやらを使って、色々工夫した。生徒達も、頑張って参加してくれた。
しかし、私は。
最後の結論、「家族とはかけがえのないものである」という言葉を、私は生徒の前で言うことができなかった。
家族。
私にとっての、家族。
壊れて、いびつで、曲がっていて。
私達家族は、母の囲いという意味しかなく。
母のための付属物としての私という価値しか見出だせず。
理不尽な現実と、不条理な正論をぶつけて来るだけの。
血の繋がっただけの、集団。
「あ――あれ」
言いたいのに、口から言葉が、出て来なかった。
家族を大切にしよう――そう言えば良いだけなのに。
私の脳裏には、癇癪を起こした時の母の顔ばかりがこんこんと湧き出て来る。
辛かった。
苦しかった。
しんどかった。
皆が母の味方をした。
仕方ないよと父と祖母は言った。
仕方ない?
私の人生は?
母の発狂でぐちゃぐちゃになった、私のこころは?
誰が保証してくれる?
誰が助けてくれる?
母がどんな癇癪を起こしてもそんな一言で済ましてしまう家族が、嫌だった。
物分かりの良い妹も、嫌だった。
誰にも言えなかった。
あの時。
私は、何度思っただろう。
何度心の中で、叫んだだろう。
あんなお母さん、死んじゃえばいいのに。
炭酸の蓋を思い切り開けた時のように、周りに感情の粒が飛び散った。
私は、自分の眼から、涙が
生徒は不思議そうに私を眺めていた。
その後、私は教室を走って出た。
クラス担当の先生には、体調が悪くなって――最近家族の調子が悪くて、連想してしまって、と嘘を吐いて、その日は早退した。
帰りのバスの中で、涙が止まらなかった。
授業に失敗した、家族のトラウマが消えなかった、努力が水泡に帰した、先生方からの評価が下がった――なんて、そんなことはもうどうでも良かった。
スマホで乗り換え情報を調べた。
一人暮らし先のアパートに着いたら、すぐに出発できるように。
涙をぬぐって、前を向いた。
母を殺そうと、私は思った。
(了)
強炭酸癇癪玉 小狸 @segen_gen
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