うるう世界のラクリマ

いちりか

第1話

透明人間とピルグリム1


 最初の記憶は黎明の中。

 遠くの空がゆっくりと照らされて、

 赤紫の綺麗なグラデーションに

 意味もなく涙が溢れたのを覚えている。


 世界の美しさを暴力的に見せつけられて、

 柄にもなく心が揺さぶられたのか。


 もしくは。

 ぽっかりと空いた記憶が。

 まるで、生まれたての赤子みたいに、

 僕を著しく不安にさせたせいだろう。


/


 走る、走る、走る。

 ひたすらに街中をかける。疲れたら少し歩いて、また走る。

 視界のすみで街路樹が何本も通り過ぎていく。

 走る、走る、走る。

 得体の知れない焦燥を振り払うように、

 正体不明の不安から逃げるように。

 人工的に等間隔に植えられた木々は、やがて乱雑に原生するものへと代わる。街灯の数は減り、辺りは少しずつ暗がりが増えていく中、それでも足は止まらない。

 道は緩く登り坂になっていく。道沿いは高そうな一軒家がぽつぽつと並んでいて、富裕層の匂いがする。一瞬、家の中の団らんを想像して、心がざわついた。

 走る、走る、走る、走る。

 住宅街を抜け、バス停を越え、大きなUカーブを通り過ぎたところで、僕はようやくペースを落とした。まばらに車が止まっている駐車場を横目に、息を整えながら歩く。人気はない。心臓の音と、一人分の足音だけが耳に響く。


 ――歩くこと数分、視界が大きく開けた。


 ここは山の合間に造成された公園。その展望広場からは街の夜景が一望できる。普段は観光地としてにぎわっているこの場所だが、珍しく誰もいない。しんとした空気が身体に染み込んでいく。大きく息を吸うと、夏の残滓が鼻についた。ぬるい風が一度だけ吹く。広場の一角、並んだベンチの端っこに、僕は腰を下ろした。


 時刻は二十時を少し回ったところ。見下ろす街の景色は、夜はまだまだこれからといったように、爛々と営みの輝きに満ちている。

僕は、ここに一人座っている。


 ふと、背後に人の気配。

 唐突に湧き出たかのような、最初からそこに存在したような、矛盾した気配だった。僕は驚いて後ろを見る。少女だ。ゆっくりと、静かに僕の隣に座った。

「やあ」

 友人に挨拶するような軽さだった。

 僕の方は見ずに、遠く景色を眺めている。

 けれど、僕の身体はこの人からの視線を感じ続けていた。

 その違和感に戸惑って、少しの沈黙が流れる。

「いい夜だね。宮藤倖助」

 僕の名前だ。記憶を辿るも、知らない横顔だった。

 黒のセーラー服。半袖から伸びる華奢な腕は、精気を感じさせないほど白い。同じく色素の薄い髪が腰まで伸びている。眼鏡をかけたその奥には、得体の知れない赤い瞳。

 少女は独り舞台を演じる名俳優のように、厳かに口を開いた。

「君はこれから多くの困難に出会うし、数多の災難に見舞われる。君の人生は大衆の目に晒され、余興の一つとして消化される。過去も未来も、君の心情すらもエンタメに過ぎず、見る者に様々な感傷を与えるだろう」

 言い終えて、赤目が僕をじっとりと捉えた。この人が現れてから、まとわりつくように感じる視線そのものだった。

 それは、根源的な支配者の目。

「だけどね、君はこの物語の主人公なんだ。世界は君を中心に構築される。君の選択がシナリオを変え、君の行動が良し悪しを作るんだ」

この人の言っていることは何一つわからない。

 僕に向けて話しているのかさえ曖昧だ。

 けれど。

「悲観せず、達観せず、諦観せずに、君のしたいこと、成すべきことを見据えるといい。ハッピーエンドは私が保証しよう」

 その人は立ち上がって、数歩前へ。宙に浮くような足取りだった。言いたいことは終わりらしい。

 ハッピーエンド。

 その言葉が、軽く緩く心を包み込む。

 そうだ、確かにあの時僕は——ハッピーエンドを望んでいた。

 今は無くなってしまった記憶に、少しだけ触れられたような気がした。

 少女の、存在感の大きい小さな背中を見つめる。

「ああそうだ」

こちらを向いて、少女はニヒルに笑った。

「妹をよろしく頼むよ。どうやら私は嫌われているらしくてね。唯一の肉親なんだが、まあ仕方ない」

 その姿が闇に溶ける。風景と同化するように、朧気に揺らめいて、透けていく。

「じゃあね。ここがはじまりだ」

 最後まで名乗らずに、その人は消えてしまった。

 優しい視線だけを残して。



/


 電話が鳴る。

 取り出して画面を見ると、所長の文字。

「お疲れ様です」

「はいおつかれ。今から来てくれない?」

「わかりました」

「ありがとう。頼んだよ」

 交わす言葉は短く、通話が切れる。

 腰を上げ、二度屈伸をして走り出した。


/



 僕は、過去2年分の記憶を喪失している。

 気が付いたら、山の中に一人でポツンと座っていたらしい。偶然通りかかったという怪しい人に助けられ、流されるままに警察へ。身元を調べてもらうも、どうやら戸籍そのものがないらしい。

 そんなことあるかと思った。2年より以前の記憶はある。名前も生年月日も住所も、親の名前も顔も確かに覚えている。けれども、僕が記憶している情報は、この世界のどこにも存在しなかった。ちなみに実家だった場所には、知らない家族が幸せを作っていた。

 僕は僕がわからない。

 わからないのに、世界すらも「お前は誰だ」と言ってくるので、当時、それはそれは大変だった。


 ——そんな僕を助けてくれたのが、伊原冬華という女性だ。

 冬華さんは一言で言うと、「変わった人」だった。

 世間ではちょっと名のしれた小説家で、なおかつなんでも屋を営んでいる。他人の人生の悲喜交交に首を突っ込んでは面白がって引っ掻き回す、という悪癖があるらしい。大抵はその他人にとっていい方向に回るので、結果的に感謝されるというおまけつき。

 山で僕を見つけたときも、「私の直感はやっぱりすごい」とか言っていた。たまたま登山に出向いたら遭難して、僕と出会ったらしい。

 僕が引き取られたのも、面白そうだから、と言っていた。

 直接聞いたことはないけれど、大半の人が避けて通りそうな僕の境遇を知って、手元に置きたいなんて酔狂な人はそうそういない。

 恩人である冬華さんに、僕は頭が上がらないのである。

 なので、こうしてときおり冬華さんのなんでも屋に呼び出されては、小間使いみたいなことをしている。



 山を降りてしばらく歩き、見慣れた街中へと戻る。アーケード街を超え、眠らない夜の歓楽街に入る。酔ったサラリーマンの団体。知人とすれ違って盛り上がる女。いかつい顔をして肩で風切る男。派手なスーツと髪型のホスト。さっきまで遠くから見ていたその景色の中に入ると、活気に飲まれそうになる。首をすぼめて、足早に過ぎようとした。

 と、

「ああ、あ、あの……」

 雑踏の中に消えてゆく、誰かを呼び止める声が聞こえた。往来をゆく人は誰も振り返らない。僕の体は一歩逡巡したけれど、触らぬ神に祟りなし、余計なことには関わらないよう、僕も振り向かず歩き出そうとして、

「あの!」

 二度目の声は大きく響いた。

 周囲の人間が声の主へと振り向く。

 流れに釣られて、今度は僕もそちらへ振り向いてしまった。


 ——そこには、今にも泣きだしそうな笑顔を浮かべた少女が立っていた。


 年季の入ったコート。隙間から除く露出度の高い肌。素足。フードで覆われた小さな頭。

 家出か、ホームレスか。

 少女は肩で息をしながら——僕を、まっすぐ見つめていた。

 視線が交わる。

 また赤い瞳だ。

 少女が駆け寄ってくる。

 目尻に涙を浮かべ、にへら、と柔和な笑みで見上げてくる。

「やっとお会いできました。ゆうしゃさま」

 そして、素っ頓狂なことをのたまった。

「え」

 一歩、後退る。

「ええと、人違いでは?」

「違わないです。間違えるはずありませんから」

 少女はこちらの言葉に耳を貸さず、そのまま抱きついてきた。

「会いたかった……!ほんとうに、ゆうしゃさまだ……!」

「わ、ちょっと……」

 くさい。

 汗と皮脂と埃と排気ガスが混ざって腐敗して乾いたような匂いがする。

 少女の肩を掴んで引き離す。鼻水の残滓が尾を引いた。

 電波的……というやつだろうか。勇者とはまぁ、随分古いタイプだ。前世の絆とか言い出さないよな。しかもホームレス。やっかいごとにはあまり関わりたくない。特に、今は冬華さんに呼び出されているので、余計な時間をかけたくなかった。

 少女を掴んだ手を離して、コートの端を数度払ってあげる。

「僕はその人じゃないけど、会えるといいね」

 少女は寂しそうな顔をして僕を見上げる。僕の胸くらいの身長だった。

「ごめんね、急いでるから」

 じゃ、と右手を挙げてその場を立ち去る。

 何か言っているようだが、もう振り返ることはしなかった。


/


 雑多な人混みをすり抜けて、中心地から少し外れたところに建つ雑居ビルに足を運ぶ。

 目的は3階。窓のない廊下を奥まで進み、『伊原事務所』と書かれた、瀟洒なドアを開く。


 事務所は三部屋に分かれている。

 入り口すぐの部屋はこじんまりとした正方形で、向かって奥に窓があり、その手前に所長——伊原冬華のデスクがある。

 部屋の中央には、接待用のソファと机。左手の壁には冬華の私物が入っている本棚。右手の壁には書類棚があり、手前側に隣の部屋がつながっている。


「早かったね。いきなりで悪いが、座ってくれ」

 冬華さんが手でソファの隣を示す。

 少し息を整えて、促されるまま腰を下ろした。対面には、痩躯で長髪の、目だけがギョロギョロと大きい女性が座っている。白衣を纏っており、医療関係もしくは研究者の、ワーカーホリックといった印象を受けた。

「こちら今回の依頼人で大崎浅葱さん」

「はじめまして、宮藤です」

 まだ事態の飲み込めていない状態で、軽く会釈をする。大崎さんと呼ばれた女性は、返事の代わりに二度まばたきをした。

「今回の依頼内容は家出人の捜索だ。対象は大崎さんのお子さん、大崎ひらぎさんだよ。宮藤くん、確かパンダ学園の生徒だよね?」

「そうです」

 パンダ学園……というのは通称で、正式な名称は万朶学園という。僕が今年から通っている高校だ。昔はお嬢様学校として有名だったららしい。 数年前に共学となったものの、まだ女子生徒の割合は多く、姉妹制度など古い慣習の名残もあったりする。

「どうやら、大崎さんの娘さんはパンダの生徒らしいんだ」

 そう言って、冬華さんは机に並べられた写真を指差した。確かに、万朶の制服を着ている少女の姿が映し出されている。見慣れた校門で、親子仲良く撮影された写真もあった。淡く青みがかった黒髪と、芯の強そうな目が印象的な普通の女子高生。

「家出人の捜索……ですか」

 同じ学校の生徒である僕が、今回適任というわけか。しかし、家出なら警察の領分だ。既に届け出は済ませて、心配だから色々あたっている、とかだろうか。

「ああ。だが、ことはそう簡単ではなくってね」

 冬華さんはちらりと大崎さんを見る。

「ここからは私が話そう」

 大崎さんが僕を見る。昆虫のような、人間味のない視線だ。写真の大崎ひらぎとは、あまり似ていない。

「私の娘は奇特な体質を持っていてね、人の記憶に残り難いんだ」

 はて。

 それは、目立つタイプではない、おとなしい性格の子がよく言われる言葉ではないだろうか。これといった個性もなく他人との関わりが希薄な人間は、印象が薄いため記憶に残り難い、というよくある話だ。写真を見た感じ整った顔立ちをしているし、モテそうではあるが。

「君のイメージしていることはわかるよ。そうだな、試しに十秒程席を外してみてくれないか」

「はあ」

 言われた通りに立ち上がり、隣の部屋へ向かう。

 隣室は簡単な居住スペースとなっており、仮眠用のベッドや、流しなんかがある。奥には、シャワー室やトイレもあった。適当に時間を数えて、二人の元へ戻った。

「宮藤くん、こちらの方は?」

「大崎さんですよね、今回の依頼人の」

「じゃあ……この少女は覚えてる?」

 机の上に並べられた写真。特定の少女が共通して写っており、自宅で寛いでいるものや、渋い顔でクレープを食べているものなどが数枚ある。

 写真の顔に見覚えはない。

「…………わかりません」

「こういうことだよ」

 大崎さんの目が見開かれている。興味深い、といった風な、対象を観察する目だ。

「どういうことですか」

 腑に落ちない、というより、何がなんだかわからない。こういうことと言われても、何を証明されたのか。

「宮藤くん、"もう一度"言うね。今回我々に探してほしいと依頼されているのは、この写真の、大崎ひらぎさんだよ」

 ……なるほど?

「少し、考える時間をください」

「構わないよ」

 冬華さんのもう一度、という言葉。先程も、この大崎ひらぎという人物について説明を受けたということか。まさか。僕は今初めてその名前を聞いた。

 なにか、不愉快な、不安な気持ちになる。何故席を外したんだ。依頼の詳細を聞いている途中だったはずだ。誰かを捜索する依頼。誰だったか。写真を見る。おそらくこの少女だ。聞いているはず、だが。

 

 この、思い出せない、という感覚とは異なる違和感。ぽっかり穴が空いたようなこの感覚を、僕は知っている。

 ——おそらく、僕はこの写真の少女についての記憶を、喪失している。

 写真を一枚、手に取る。

「僕がこの人の話を聞いたのは、どれくらい前ですか」

「ついさっき。数分前だね」

「……そうですか」

 側にいる二人の顔を見る。冬華さんが笑いを堪えている。大崎さんは、じっと僕を見ていた。

「君は、思考の回転が早いね。普通はもう少し混乱するよ」

 大崎さんが口を開く。

「私の娘、大崎ひらぎは他者の記憶に干渉するタイプの異能力者だ。最近その力が強くなってきているみたいでね。ものの数秒でこの通りさ」

「……それは、どうやって探したらいいんでしょうか。」

 記憶に残らないというのなら、探そうとしても、名前や容姿なんかがまるっきり抜け落ちてしまうことになる。誰を探していたのかわからなくなってしまっては、人探しもままならない。

「そこで、だ。君にはね、この薬を飲んでもらう」

 そう言って、大崎さんはポケットから怪しげな錠剤を取り出し、こちらに手渡してきた。手のひらにそれを乗せて、まじまじと見つめる。IDFP1996と記載されたPTPシートに二つ分。気分がよくなるお薬だよ、といわれたら、問答無用でお断りするだろう。

「それはね、記憶保持剤という。覚えておきたい情報やイメージなんかを想起しながら服用すると、およそ四十八時間ほどそれについて忘れなくなる、という便利な薬だ」

「……合法ですか?」

「いや?」

 大崎さんの目が、そんなわけないだろうと言っている。不安になって、冬華さんを見た。

「私もさっき飲んだけどね、そうだなぁ、やけに耳残りする曲とかって有るじゃない? 特定のフレーズが頭に残って延々と流れるアレ。あんな感じだよ」

 平気平気、と冬華さんは笑っている。不安は全く拭えない。

「……ええと、副作用はありますか?」

「まあ、効果そのものが副作用とも言える。自然と薬が抜けるまでは、忘れたくても忘れられない状態が続くからね。それと軽度の頭痛と、あとはまぁ、夢見も悪くなるかな」

 ……あまり、飲みたいものではない。冬華さんは変わった人だから、不快感がどれ程のものか参考にはならないし、四十八時間という長い間不調が続くことを考えると、手の上の薬が毒薬に見えてくる。

「改めて。今回の依頼、お願いしたいな、宮藤くん」

 冬華さんの笑顔が刺さる。イジメっ子の目だった。

「……わかりました。冬華さんにはお世話になっているので」

「よしきた。じゃあ私もできることをしよう。大崎さん、この写真お借りしても?」

「構わないよ」

 冬華さんは写真をまとめて、数枚こちらに手渡してくる。

「改めて、よろしく頼むよ」

 大崎さんが座りながらだが、深く頭を下げた。

「私は見ての通り仕事の虫でね。あまりあの子の人生に関与してこなかった。そのツケが回ってきたんだ。こんなときばかり都合のいい話だが、母親として、もう少し寄り添ってやればと後悔しているよ」

 今日初めて見る、大崎さんの暖かい眼。

 僕の両親も、もしかしたらそんな気持ちなのかなと、記憶の中にしかいない顔を思い浮かべる。この世界には存在しない人達を。

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