エピローグ

契約

 都倉はその後、樫井夫妻殺害事件の犯人だと出頭した。


 動機は個人的怨恨――――表向きには、だが。


 柊にマスコミの目が向かないよう、彼はあらゆるものからの矢面に立つつもりに違いない。


 柊は激情が収まってしばらくしたあと、やはり自分に非があるのではと思い悩んでいた。都倉の告白が事実なのか、本当は自分を守るために嘘をついているんじゃないかとまで言い始める始末だった。


 柊も植木鉢事件以降、都倉が違法に狙撃銃を所持していたことを知りながら隠すよう彼に指示していた。おそらく彼女は正直に警察に話すだろう。


 忍は心細くなっている柊にかけるべき言葉も見つからず、そのまま二人は離れ離れになってしまった。




 都倉と柊に付き添っていた忍と蒼樹も警察署でしばし足止めされたが、想像よりも早く解放される。そんな時「おーい」と署内で聞き慣れた男の声が聞こえてきた。


「二人とも、お勤めご苦労様」


 知的そうなメガネの男が二人の元に歩み寄る。刑期を終えたヤクザじゃないんだぞと忍は内心毒づくが、それよりもこの場にいない彼女のことが気がかりだった。


「柊は? もう帰った?」

「それは楽観視しすぎだろ。流石に彼女はまだまだかかるから、お出迎えしないで今日はまっすぐ帰るんだな。

 彼女の叔父が手配した代理人が来ることになってるから、ま、心配すんな」


「叔父ともう連絡取れたのかよ。こういう時だけスピーディーだよな警察は」

「いや、薬銃の俺に言われても……捜一の管轄だし…………」



 荒川に聞くところ、スモーキードッグとの一件はそもそも最初からなかったことにされたようだった。


 警察に「自称未解決事件の真犯人に頼まれて女子高生を拉致した挙句ボコられました」などと被害届を出せるはずもなく。これ以上の面倒には首をつっこまない、と判断したのだろう。都倉も、柊のことを思いあの一件のことは話していない。


 あそこで拾った拳銃と銃弾は、事前に連絡した荒川に「なんとかしてくれ」と言って押し付けておいた。


 赫保かくほは今頃慌てているだろうかとあまり期待せずに聞いてみるものの、都倉が個人的怨恨と主張している以上知らぬ存ぜぬで通すのではと予想通りの答えが返ってきた。都倉もまた赫保の名前をヘタに出せば、樫井夫妻の娘であり赫碧症者である柊の立場が危うくなるのは重々承知しているだろう。


「お前今回周辺人物食い物にしすぎだろ」

「余裕ができたから今度焼肉にでも連れてってやるよ。

 お前もあんま人の名前使って好き勝手するなよな。名誉毀損罪で告訴するぞ」


 何食わぬ顔で柊に忍の情報を売り、忍に柊の情報を売り、ついでに蒼樹にも情報を売り、今回の件で一番得をしたのは荒川に違いない。


 したたかな男ではあるが、案外忍はそこが気に入っていた。


 中学生の頃の話とはいえ、前科持ちの赫碧症者かくへきしょうしゃだと知っていても区別なく接する彼のことが嫌いではなかった。


 逆に大損したのは蒼樹かもしれない。せっかくの一大スクープのチャンスを忍に止められてしまったからだ。慌てて帰国して嗅ぎ回り、荒川に袖の下を送ったというのに最早全ては水の泡である。


 もし彼女経由で事件が露呈していたら、柊のことがスキャンダラスに報道されるのは火を見るより明らかだった。そこらへんは知り合いだろうが容赦しない女だと忍は身に染みるほどに理解している。


 ただ都倉が犯人だと確定さえすれば、イヴに現われた「赫眼かくがんの少年」はただの見間違いか物騒なサンタクロースとして扱われるだろう。「ヘタしたらお前が殺人犯として冤罪を被っていた可能性もあったんだから、このくらいの大損は安いもんだと思え」と忍は不満げな蒼樹を黙らせた。

 倉庫で伸びていたスモーキードッグの構成員らを見て、蒼樹も忍相手には分が悪いと悟ったのか、渋々といった顔でボイスレコーダーのデータと赫眼していた柊の写真を削除した。


 二人が揃って荒川から背を向けると、去り際に「ああそうそう」ととってつけたように後ろから声をかけられる。



「機会があればでいいんだけど。晦さんに『ダックワーズおいしかったよ』って伝えておいて」




 


 

●五月三十日(木曜)


 近くのカフェで忍は蒼樹と会っていた。取材で近日海外へ向かうになったので、荒川抜きの二人でコーヒーを飲みながら簡単な送別会をしていた。

 事件のほとぼりが冷めるまで日本を離れるのだろうと忍は思ったが、それは言わぬが花である。



「ねえねえ。結局伊泉寺いせんじくんは今はどうなの? まだ無理なの? どっちが本当?」

「今夜事務所の裏口の鍵こっそり開けとくから遊びにおいでよ」

「誘ってくれて光栄なんだけど、あの若奥様が『泥棒猫やめてくださーーーーい‼』ってうるさそうだからやめとくわ」

「ああ、うん。そうだね……」

「そうだった。あの娘、事務所を出てったのね」



 先に荒川が言った通り、柊の叔父にも連絡が入った。


 自分が直々に指名した姪っ子の護衛が今頃になって自分の姉を殺したと主張し始めたのだ。代理人に連れられた柊は事務所に帰ることもままならず、すぐにマンションへ連れ戻されてしまった。


 ちなみに銃を隠すよう指示した件は都倉の自供と食い違うとのことで、結局何のお咎めもなかったらしい。


 ついでに二人が結婚したことも露呈し、代理人から忍宛に一通の封筒が届いた。


 まずはドシンプルに「離婚しろ」と記された文書。


 そして彼女に渡した事務所の合鍵。


 ただ、封筒には柊が書いた離婚届は同封されていなかった。


 彼女のマンションは売却することになるそうで、柊があそこを離れる前に忍は自宅に残っていた彼女の私物を全て宅配で送った。


 あれ以来彼女とは一度も会っていない。




 柊について考えているうちにボーッとしていたようで、蒼樹が「伊泉寺いせんじくん、伊泉寺くん」と忍に再三呼びかけていた。


「な~んかあの場では誤魔化された気がしてきたんだけど。あの人の自白以外に柊ちゃんの無罪を証明するもの、なくない?」


 あの場では何も言わずに忍の指示に従った蒼樹だが、未だにボイスレコーダーを消されたことを根に持ってるようで、手にしたマドラーを顔の横で左右に揺らした。忍は「あれか」と答える。


「あいつ。ガラスとかモノが割れる音に敏感なんだよ、今でも。あの事件のことを思い出すから。真に迫ると言うか……酷い怯え方をしてた」


 都倉が真夜中に無断侵入した時。ダイニングで皿を割ってしまった時。特に柊の態度がおかしいのは昔の事件のためだろうと忍は内心気づいていた。

 トラウマを植え付けた張本人である蒼樹が目を泳がせながら手持ち無沙汰にマドラーをかき混ぜる。


「けど、伊泉寺くんだって言ってたじゃない。赫眼かくがんで記憶を改竄することもあるんだって。わたしが窓割った後、すぐリビングに降りて赫眼したかもでしょ?

 わたしがお邪魔した時までは本当の記憶、それ以降はウソの記憶。それならガラスのトラウマがあっても矛盾はないでしょ?」


 忍は陶器のコーヒーカップをスプーンでキンキンと音を鳴らす。


「お邪魔した後ってことは、お前が侵入した後すぐ下に降りて実行したってことか。ならお前、どのくらい二階で物漁りしてた?」

「そりゃ全部の部屋よ。トイレも含めて隠しものがないか隅々とね」

「柊も言ってたけどお前、子ども部屋まで行ってたらしいな……」


 当時中学生とはいえ蒼樹の節操のなさに忍は呆れるも、「まあともかく」と続きを口にする。


「結構二階には長く留まってたんだよな。それで、両親を殺してお前が下に降りるまでの間、赫眼したまま死体の前でただボーっと過ごすと思うか? もっと部屋の中で暴れてるか、ナイフを持って二階にいたお前をめざとく探してたかもしれないぞ」


 蒼樹は「そんな怖い事言わないでよ」とでも言いたいのか露骨に眉を顰めた。


「要するに、赫碧症者の犯行にしては『行儀が良すぎる』んだよ。俺の時はもうちょっと辺り一面散々になってた『らしい』から」


 忍はパンケーキの上のに形よくホイップされたクリームにシロップを垂らした後、ぐちゃぐちゃとフォークでかき混ぜた。

 その様を見て、蒼樹が「まあ柊ちゃん犯人説はここで手打ちにしとくとして」と話を一旦区切る。



「伊泉寺くん、あの人が自白するように上手く誘導してたでしょ」



 本格的に「あの人」――都倉の話に入った途端、忍はそれまで手をつけていなかったパンケーキやコーヒーを飲み食いし始めた。


「本当はあの人でも柊ちゃんでもない第三者が真犯人で、それを知らずにあの子のことを犯人だと早合点して証拠隠滅したり、ウソの自白をしたかもしれないじゃない」


 そこまで言って「あ、第三者ってわたしのことじゃないからね」と蒼樹こと元「赫眼の少年」が慌てて訂正する。


「そうかもな。あいつ、柊バカだから。やりそうではある」

「警察連れてく前に一応確認してあげても良かったんじゃない?」

「知ったこっちゃない。あいつのせいで、色々面倒な目に、遭った」


 咀嚼音を立てながら話す同席者に対し蒼樹は「喋るか食べるかどっちかにしてよ」と行儀の悪さを表情だけで訴るが、本人はスルーする。


「いいんだよ。警察じゃない俺が自白に誘導したところで、罪に問われる、わけじゃなし。あとは警察の仕事で。あいつが冤罪、だったとしても……」


 一度言葉を止め、忍はぬるくなったコーヒーを一息で飲むことでパンケーキを無理矢理胃の中へ流し込み、空になったカップをテーブルの上にコトリと置いた。


「それは警察や検察の責任で。どんな結果になろうが俺の責任じゃない」

「伊泉寺くん、冷たいこと言うのね」

「あいにくドラマに出てくる名探偵と違って、こっちは血も涙もないからね」


 いつかの彼女のセリフを引用しながら自嘲する忍に、蒼樹は薄く苦笑した。


 パンケーキを完食した忍がナフキンで口元を拭ってぞんざいに丸めたそれを皿の上に放ると、彼の目線は蒼樹へと移る。


「そう言えば蒼樹、ずっと聞きたかったんだが……」


 マドラーでかき混ぜられているコーヒーに視線を落としつつ、蒼樹が「ん?」と返事をする。


「お前。有島さんのこと、本当はどう思ってた。お人好しだって、内心嘲笑ってたか」


 あの時は状況が状況だけに深く追及できなかったが、忍はずっと気がかりで仕方がなかった。有島の好意がコケにされていたのなら、彼としては許すわけにはいかない。


 蒼樹がコーヒーを一口啜ってから答える。


「正直『クソチョロいなこの女』とは思ってたよ。同類相憐れむってやつ?」

「そうか。やっぱ有島さんが赫碧症なの知ってたんだな」

「赫眼対碧眼でキャットファイトしたからね。それで三年前の今頃再会したんだけど」

「三年前の今頃? 事務所出てったあと、お前に会いに行ったのか?」


 忍は有島のその後の消息を思いもよらない場面で知り、しかも蒼樹に会いに行っていたことに驚き、つい語尾が上がってしまった。



「『今事務所に行ったら面白いものが見られるから行ってこい』って教えられた」


「………………」



 妙なタイミングで来たなと当時忍は思っていた。それがまさか有島の差し金だったとは。


「今思うと完全にハメられたわね。まんまとあの人の思い通りにさせられちゃった。

 まあ、縮めた寿命分の借りぐらいは返してやるのもやぶさかでもなかったから」


 言って蒼樹は既にフレッシュが混ざりきっているコーヒーをマドラーで手慰みにかき混ぜる。なんとなくだが、その様がどこか物悲しげに映った。



「もう元に戻りそうにないのね」


「寂しいか」


「違う。このコーヒーのこと。賞味期限でも切れてたのかしら、このフレッシュ。

 やっぱブラックで飲めば良かった」



 蒼樹はなんてことないように愚痴をこぼした。ただ、そのなんてことないような言い方で、忍は蒼樹に対するわだかまりが解けた気がした。

 少なくとも彼の抱える喪失感を共有できるのは彼女しかいない。今ならそう確信できる。


 湿っぽい流れを変えるべく、忍はいかにも深刻そうにバカでかいため息をつく。


「二十一にして早くもバツイチか……」

「落ち込まないの。今の時代離婚歴があるなんて珍しくともなんともないんだから」

「離婚歴が男の勲章になるって話本当?」

「ンなわけないでしょ」




 出国前に時間を作っておいてくれと蒼樹に約束させ、送別会は適当にお開きとなる。

 特に予定はなかったが、このまま帰るのも名残惜しくなり忍は一人あてもなく街を徘徊することにした。



 ビルから植木鉢が落ちそうになった場所。

 開店時間前のラーメン店。

 タワーマンションが立ち並ぶ駅前に足を運びそうになったが、すぐに引き返す。

 そして、あの河川敷にもう一度訪れた。



 そうこうしていると時刻はもう五時を過ぎた頃。まだ早いが外食でもしようかとファミレスが目に入る。

 が、忍はやや空腹を覚えつつも店の前を通り過ぎた。何か引っかかりを感じて、どうしても食べる気になれなかったからだ。

 もう誰が待っているわけでも、迎えてくれる人がいるわけでもない、彼の自宅兼事務所に直行するだけだった。


 マスコミや世間はと言うと、期待していたような新事実でなかったことに露骨にがっかりしているらしい。犯人として自首した人物が普通の人間、しかも個人的怨恨と赫碧症かくへきしょう絡みではなかったと判明したからだ。


 一方、都倉は赫碧症の有力者の身代わりで出頭したとの陰謀説まで飛び交っている。


 どちらにせよ、「犯人が赫碧症だったら面白かったのにな」という集団心理である。


 そう思うのも無理はない。自分たちの危険性を十分すぎるほどに頭では理解している。「赫碧症だから仕方ない」と正当化するつもりもない。


 取り返しのつかない過去を持ちながら、あまつさえ同じ立場の人間をこれまで何人も追い込む手助けをしてきた。そんな彼が世間に抗弁する資格など、どこにもありはしない。


 それに碧眼へきがんをもう何度使ったことだろう。自分もいずれ有島や有島の友人のように憔悴しきった末に死んでしまうのだろうかと、遠くないであろう未来に彼は思いを馳せる。


 あのラーメン店の家族のような温かな居場所を求めるには相応しくなく、これからも自分一人で生きていくだけだと諦めるしかない。忍は改めてそう思った。

 しかし同時に、とある男性の言葉を思い出していた。

 



 ――今日だけは、自分が赫碧症として生まれたことを感謝しないと。

 





 そんな柄でもない感傷と自己憐憫に浸りながら事務所にたどり着くと、扉の前で立ち尽くしている人影が忍の目に映る。


 「外出中」のプレートを出したのだからまた出直してくれば良いのに。それかさっき到着したばかりなのだろうか。


 だが忍には待ち人が誰なのかなんとなくアタリがついていた。




 上品さを醸し出す落ち着いた茶色のブレザー――スカートから伸びる黒タイツ――顔は小さく、肩は華奢。やや明るめの長い髪――――。




 こんな庶民染みた事務所の前に佇むには不釣り合いな、彼の伴侶だった。



「良かった。そろそろ来る頃じゃないかと思った。ずっと待ってたよ」


 彼女は後ろから目的の人物に、思いもよらない言葉をかけられたことに驚いてくるっと振り向く。透けるような髪がふわっと広がった。


「中に入って」


 穏やかな口調で、レディーをエスコートするかのように彼が扉を押さえ、彼女を事務所の中へ迎え入れる。

 



 電気も付けていない、外の明かりだけが差し込む暗い部屋の中。

 いつかのように柊が来客用のソファに座っていた。


「あの、覚えてますか? 所長が有島さんと交わした契約書を見せてくれるって……」


 忍はデスクの引き出しから封筒に入っていた一枚の文書を持ってテーブルの上に広げる。

 ただしそれは、柊が言っていた契約書のことではない。



 一部記入があり、一部記入がない――――「離婚届」。



 既に忍の分の記入と押印は済ませてあった。あとは妻側、つまり柊と、証人二人の署名と押印だけで完成する。


「ここに記入して。証人は蒼樹と荒川に頼むから。そしたら、ここにはもう二度と来るな」


 忍は急に態度を豹変させ、有無を言わさぬようにデスクペンを柊の手元へ乱暴に叩きつけた。そんな彼の剣幕に気圧されて、彼女も大人しく従ってゆっくりとペンを握る。



 本来出会ってはいけなかった二人。本来そばにいてはいけなかった二人。

 紙切れで始まった関係は、紙切れで終わらせなければならない。


 氏名、生年月日、住所、本籍、――――届出人。


 その全てを、柊は一画一画刻みつけるようにペンを走らせていた。


 いつかのように印鑑ケースから中身を取り出し、テーブルに用意されている捺印マットと朱肉を手元に寄せる。

 朱肉に印鑑の面をポンポンと軽くつけ、押印をしようと――

 しようとするのだが、押印する手がピタリと止まった。



 いつまでも柊がそうして固まっているので、業を煮やした忍が強引に離婚届を引ったくってしまう。


「……押印はなくてもいいから」


 もう用は済んだと忍が腰を上げようとしたその瞬間、「所長」と柊に呼び止められる。


「所長、手を広げてもらえますか」


 意図は分からなかったが、忍は一度着席し言う通りに彼女に手を広げた。

 柊は忍の左手に手を添え、印鑑でぎゅっと押印する。


 忍から見て正向きに、「晦」と書かれた朱い文字か掌についていた。


 柊が、はにかんで笑んでみせた。


 その顔が、二人でラーメン店に行った時に見た植木鉢の少年の――平穏と安息と、家族のぬくもりで守られていた笑顔と不意に重なってしまう。



「柊、あんまり困らせないでくれよ。叔父さんのところへ戻れ。お前の唯一の身内だろ。お前をここにいさせるわけにはいかないんだよ」


 忍の忠言に、柊は目をぎゅっと閉じて顔を左右にふるふるして自分の意思を示す。


「俺が何したか、何してきたか知ってるだろ。だから、お前の家族にはなれないんだよ。駄目なんだよ……」


 彼は再度嘆願する。潤み声を抑えることもままならぬまま。柊が瞼を開けると、今にもこぼれそうなほどに涙を貯めていた。彼女の潤んでいる瞳に忍の視線はあっけなくも吸い寄せられる。




「ここが私の家です。あなただけが今の私の家族です。何年も遠くで暮らしている人より、あなたが私の家族です。もうあなたしかいません。


 ――――だから私、もう一度、所長の家族になるための本当の契約がしたいです」



 

 真剣で、懇願するようで、途切れ途切れで、懸命な告白。

 どう返せばいいのか。そんなの分かりきっている。


 帰れ。


 それだけで良かった。


 


「……窓…………」


「窓が、どうかしましたか」


「窓、柊に綺麗にしてもらわないと。また、忘れるから…………」




 どうしてか結婚を承諾した日のことを思い出して、あのセリフが頭をよぎり、気づいたらこんなことを口走ってしまった。



「忘れてること、もう一つありますよ」



 悪戯に笑む柊が、人差し指を口元で立てる。

 





「名前。


 ここにいる間は気安い名前で呼ぶの、ダメなんでしょ?」

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