下北沢バッファロー

大塚

第一話

 鹿野かの素直すなおには三分以内にやらなければならないことがあった。──心を決めるべきことが、あった。


(三分……!?)


 我に返ると倒れそうになる。三分。あまりにも短い。ここ最近は所謂カップラーメンの待ち時間だって三分以上だったりすることも少なくない。今日の休憩中に食べたきつねうどんは五分待ちだった。四分半の時点で我慢できずに食べた。麺は固かった。

 鹿野素直はである。舞台演劇の演出を担当する演出家の助手という職業で生計を立てている。説明するまでもないほど読んで字の如く、である。鹿野の上司は不田房ふたふさ栄治えいじという男性演出家で、ただの上司と称するには些か距離が近い。相棒と呼んでも間違いではないような関係をふたりは築いていた。もちろん、世の中の演出家と演出助手が皆こういった距離感というわけではない。他所は他所、うちはうち、だと鹿野は思っている。


 それはともかく。


 不田房が演出を担当する舞台の助手として、鹿野は劇場入りしていた。客席は150ほどの小さな劇場で、一週間だけ行われる細やかな公演。見どころとしては、──という点だろうか。不田房は、大学時代の後輩だという俳優に誘われて今回の公演に関わることになった。不田房を誘った俳優が今回の公演の主催で主演、戯曲は既に逝去している有名作家の作品だ。

 公演が始まって、今日で三日目。折り返しの日の演出を、不田房は任されていた。稽古期間はあまり長くなかった。無理もない。今回の公演には不田房以外に六人の演出家がいる。不田房ひとりに割ける時間はそう長くない。稽古場では、鹿野も演出助手として尽力した。与えられた本番は一日だけ。失敗するわけにはいかない。「あの日替わり公演、不田房栄治の日だけ良くなかったね」なんて感想を──SNSに書かせるわけには、絶対にいかない。


 だが。


(あ、もう二分しかない!)


 鹿野素直の背中を冷たい汗が伝う。息苦しい。今日の公演はマチネとソワレ、昼と夜の二回。どちらの演出も不田房の担当だ。マチネ、昼公演を無事に終えてきつねうどんを食べながら休憩していた鹿野に、不田房が唐突に声をかけたのだ。


「鹿野……昼公演マチネどうだった?」

「どうとは?」

「俺さ、なんかこう……もうちょっとやれたんじゃないかと思って」


 言っている意味が良く分からなかった。不田房と鹿野は、鹿野が大学生の頃に講師と生徒として知り合った仲である。指導者とその生徒が今、演出家と演出助手として一緒に仕事をしている。この業界では珍しいケースではない──と鹿野は思っている。

 不田房の言っていることが良く分からないのは、今に始まったことではない。演出家・不田房栄治の通訳担当として、演出助手・鹿野素直がいるといっても過言ではない。不田房は本当に思い付きで喋る。


「アンケート」


 とスマートフォンを片手に鹿野は応じた。

 最近の劇場では紙のアンケートに直接感想を書いてもらうのではなく、チラシと一緒にQRコードの書かれたアンケート用紙を渡してデジタルで感想をもらうのが主流となりつつある。昼公演の感想は、公演関係者が確認できるメールボックスに着々と舞い込んでいた。


「見た感じ悪くないですよ。あ、また来た。みんな感想書くの早いなぁ」

「悪くなかったじゃ駄目なんだよな〜」


 不田房がもにょもにょと呟く。この人にはこういうところがある、と鹿野は思う。常に飄然とした態度。他人の視線や評価など気にしていないような風情でありながら、その実誰よりも負けず嫌いで気が強い。


「俺の演出がいちばん良かった──つってもらわないと」

「今更どうしろと。あと……二時間もしたらソワレ開場っすよ」


 空になったきつねうどんの器をゴミ箱に放り込みながら、眉を下げて鹿野は言う。演出はもう決まってる。今更路線変更をした日には、出演者全員から文句を言われるだろう。もちろん──自ら望んで毎日違う演出家の指示に振り回されるという無茶な公演に参加している出演者たちなのだから、多少のイレギュラーには対応してくれるだろうけれど。


「バッファロー」


 不田房が言った。

 鹿野は絶句した。


「……何を訳の分からないことを言ってるんですか!?」


 腹の底から、鹿野は叫んだ。幸いにも休憩時間中の劇場ロビーには鹿野と不田房、それに舞台監督である宍戸ししどクサリ──宍戸もまた、不田房、鹿野とは頻繁に仕事をする仲であり、不田房が演出を担当する今日という日のためだけに劇場を訪れていた──しかおらず、不田房の脈絡のない発言に卒倒する者を出さずに済んだ。鹿野自身は卒倒しそうだった。


「この戯曲ホン、さあ……ラストしめやかに暗転して終わるじゃん」

「はあ、まあ、そうですね」


 書き込みだらけの台本を手に不田房が語りかけてくる。休憩時間だけ劇場ロビーに置かれるコーヒーメーカーからコーヒーを汲んだ宍戸が、端正な顔に楽しげな表情を浮かべて近付いてくる。


「みんなそうでしょ? 俺以外の六人も」

「それは……いやだって、戯曲ホンに書いてあるじゃないすか! 暗転、幕、って!」

「でも、


 愚かでは、と思った。不田房栄治とは10年の付き合いだ。信頼もある。だが、それでも思ってしまった。少しでも観客の心に自身の演出の爪痕を残すために、バッファローを──しかも群れで走らせよう、だなんて──


「え、いいんじゃない」

「は!?」


 頭の上から声が降ってくる。宍戸だった。紙コップの中のコーヒーを飲み終えた舞台監督宍戸クサリが「用意できるよ、バッファロー」と続けた。

 正気の沙汰ではない。


「えー!? ほんとに、宍戸さん!?」

「ああ。新宿の稽古場に置いてある。先月の現場にバッファローが出てくるシーンがあって……頭と毛皮があればいいか?」

「ツノも欲しいかも!」

「よし分かった。取ってくる」


 そういうことになってしまった。


 下北沢にある劇場から新宿の稽古場に電車で移動した宍戸クサリは、稽古場の主に頼み込んで軽トラックを出してもらい、大量のバッファローの衣装を持って戻ってきた。中に人間が入って、動かせるようになっている。リアルなバッファローの着ぐるみだ。

 宍戸が外しているあいだに、不田房と鹿野は出演者たちに演出の追加について説明した。意外とあっさり受け入れられた。誰かひとりでも拒んでくれればと思ったのだが、むしろ歓迎されてしまった。


「すごい、ちゃんとツノついてる!」

「このいちばんでかいのの中には俺が入る。不田房はこっち」

「オッケー! じゃ、ちっちゃいのは鹿野ね」

「私もですかぁ!?」


 拒否権はなかった。バッファローの群れを作れるほどに裏方の人数は多くない。だが、身長180センチ超えの男性ふたり、不田房と宍戸がバッファローの中に入ればそれなりに大きく見える。160センチほどしか上背のない鹿野も、群れを作るために必要だと言われてしまえばもう逃げることはできなかった。


「ステージ上の箱馬とか、テーブルとか椅子とか、全部跳ねちゃっていいから!」


 今回の公演の主催兼主演である俳優が、にこやかに言い放った。


(あと一分……!!)


 先陣を切るのは不田房だ。何せ本日の公演の演出家。『バッファローの大群が突き進み始める』タイミングは、彼に委ねられている。二番目が鹿野。そして間髪を入れずに宍戸が──バッファローたちが舞台上を突き進む。


(三十秒)


「行くよ〜、鹿野。宍戸さん」

「はい……」

「元気出せ鹿野! 音響さんにも音上げお願いしてあるからな」


 普段はクールな宍戸が、妙に浮かれた声を上げているのもなんだかアレだった。この場で、バッファローになりたくないと思っているのはどうやら自分だけらしい──


「……いざ!!」


 舞台上、暗転直前。

 音響担当スタッフが、劇場いっぱいに賑やかな音を響かせるのが分かる。

 不田房が──いや、身長180センチ、立派なツノを煌めかせたバッファローが舞台上に飛び出す。

 歯を食いしばる。覚悟をする。


 バッファローに、なるしかなかった。


 おしまい。

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