第2話 純

 純が初めて引っ越したのは高校に進学する時で、寮に入るため必要最小限のものを投げ込むようにスーツケースとダンボールに詰めて家を出た。

それが1回目でトータルで何回引っ越しただろう。高校は三年間寮生活で、その次は所属したサッカーのチームの寮に入った。三年後に海外に移籍して国をまたいで引っ越して、最初はそこでも寮だった。

色々あって日本に帰国して入院し、選手としての復帰を断念したあと結婚して東京のそれなりの場所にマンションを買った。駅から近く、手狭だったが悪くなかった。

 今回の引っ越しは離婚が理由で、身から出たサビか自業自得、他にも言い方はあるかもしれないが、とにかく自分が全て悪かった。

退去前に最後の確認をしにマンションへ来た。

初めて買った家。まだリフォームして数年の一見小綺麗なマンションに漂う荒れた雰囲気。家族で住んでいた家を、離婚して全員が出て行く。

一人、マンションの中をめぐるとベッドや布団はそのままだった。チェストや家電は妻が…元妻の美咲が持って出て行き、ダイニングテーブルや椅子、ベビーベッドもまだあった。

壁には保育園で一人息子のハヤテが手形を押して作った『ママ大好き』と書かれた母の日の工作がかけてあった。花束に見立ててあり可愛らしい。その横にあったはずの『パパ大好き』は消えていた。美咲が捨てたのだろう。当たり前だった。

家の中をめぐり持って出なければならないものが無いか最後のチェックをした。先月まで美咲がここに息子と二人で住んでいた。純は半年前にこの家を出て伊藤の家に転がり込み、妻とは別居していた。

美咲がこのマンションを出ていってすぐに、ハヤテに必要なものを取りにきた。その後現況で引き取るという不動産会社に売った。今日必要なものがあれば回収して、部屋の鍵は不動産会社に渡す。立地のいい中古マンションは買った時より値上がりしていて損にはならなかった。

洗面所の引き出しを開けると、何も無いという予想に反してヘアアイロンが入っていた。ここでそれを使っていた時の美咲の様子を思い出し、少し苦しくなって引き出しを閉めた。

玄関の方から音がして、ビクッとした。軽いパタパタという足音がして、小さな影が廊下を駆けて行くのが見え、次に廊下を大きな男がのっそり歩いてきて立ち止まり、洗面所の出入り口はほとんど塞がれた。

今日、最後に部屋をチェックするのに息子と一緒に実家から車で1時間半ほどかけてここまで来ていた。マンションの駐車場はもう契約が切れていてとめられず、すぐ近くのコインパーキングに車をとめて、息子は車の中で友人の伊藤と待っていたはずだった。

「ハヤテがパパってずっと叫んでて、これ以上車で待ってたら通報される」洗面所の入り口で伊藤が言った。

リビングルームに行くと、ハヤテは家具がほとんど無くなった部屋を駆け回っていた。

壁の『ママ大好き』はそのままにした。剥がすことはできなかった。この『ママ大好き』は永遠にこの部屋の壁で、あの頃のままいてほしかった。時が経てばまた母の日は来るが、ハヤテにはもう母親はいない。

「持っていくものはあったか」伊藤が聞いた。

「無い。もう行ける」

伊藤がすぐそばを駆け抜けようとしたハヤテを片手ですくい上げるように捕まえた。

「行くぞ、ハヤテ」ハヤテは大きな太い腕に抱えられ、少しはしゃぎ過ぎて息を切らし、伊藤の肩に顎を乗せてこちらを見た。

「よだれが肩についてる」バッグからハンドタオルを出し、ハヤテの口元を拭ったが時すでに遅し、伊藤の肩にはシミがついていた。

「ごめん、汚れた」

「ん?乾くだろ」伊藤はそう言って、リビングルームからハヤテを抱えたまま出ていった。

 マンションの外に出ると気分が少し晴れた。エントランスの外の大通り沿いの歩道は休みの日らしく、カジュアルな服装の人たちが行き交い、平日の駅前のせわしない雰囲気は無かった。

ハヤテは伊藤に抱っこされ、二人だけで通じ合う楽しいことがあるようで、顔を見合わせてゲラゲラ笑っていた。道行く人が伊藤を見た。芸能人がいても無視するのが東京のお決まりだが、二メートル近くある名のしれたサッカー選手の伊藤を見るなと言う方が無理だろう。

「イトー」ハヤテが言った。二歳になったばかりのハヤテは平均的な子より言葉が遅く、まだあまり喋らなかった。それでも本人なりに語彙が増えて、ここ一ヶ月で『ジージ』『バーバ』『イトー』…ほかにも色々話すようになってきていた。

「伊藤って言えるようになったな。『伊藤大好き』って言ってみろ。ハヤテ」伊藤が言うと、ハヤテはまた笑いだし、笑いながら呼んだ。

「イトー!」口からはまたよだれが少し出て、伊藤の服を汚した。


 車に三人で乗ると伊藤は手早くチャイルドシートにハヤテを乗せてシートベルトをつけ、後部座席のハヤテの横に座った。

「モーモ」ハヤテが言った。後部座席を振り返って助手席にあったサメ柄のブランケットを渡す。

「伊藤、どこまで送ればいい?家?」今日、マンションを見に行くと伊藤に言ったら、オフなのに早起きしてその間ハヤテを見ていてくれた。

「このまま須山まで一緒に行くよ」

「須山ってお前…今日道混んでるからここから1時間半か2時間くらい時間かかるぞ。明日練習は?」

「ある。電車で帰る」今年は伊藤はこの時期に国際試合が無く、移籍の予定もなくキャンプまではスケジュールに余裕があるとは聞いていた。

「無理すんな。俺週明けにはマンションに戻るから」

「なあ今日うちに泊まってけ。ハヤテも俺といたいよな?」

伊藤が隣に座るハヤテに聞くと、わかっているのかいないのかハヤテは伊藤を見て、うなずいた。

マンションの最後のチェックが終わった後、ハヤテを連れて伊藤のマンションに行った。新しい仕事は来月からだった。


 吉野は推薦で決まっていた大学に進学し、そちらでもサッカーを続ける事になった。

関と伊藤は冬の大会の時にはすでに所属するクラブの内定が出ていた。関は関西のチーム、伊藤は九州のチームだった。純もその後、関東の強豪チームに決まった。

姉は、八重は看護師の国家試験に合格し、実家を出て実習の時から働いていた総合病院で働き始めた。

緒方先輩は大学サッカーでも主将をやり、結果をだしてその翌々年に大学を卒業し、名のしれた企業に就職したと吉野と会った時に聞いた。

関東にいる吉野とは定期的に会っていた。関と伊藤とは何回か試合で顔を合わせ、短く言葉を交わしたが二人とも元気にやっているようだった。

翌年、伊藤と関はA代表に招集された。二人とも出場機会は無かったが、背筋がゾクゾクとするような羨望と野心を感じた。

がむしゃらにプロリーグで戦った。高校の時のセンターバックではなく、左中盤か左サイドバックでの起用だった。チームでのレギュラーが定着したその年、チームはリーグ優勝を果たした。

3年目にレンタル移籍でイタリアのチームへ行くことになった。大きなチャンスで、何が何でもここを足がかりにと思い、その翌年に完全移籍した。

思い描いていた「サッカー選手」になれた瞬間だった。

A代表入りし事前キャンプと試合のために帰国した時に、姉に連絡をした。姉はその頃ERでの勤務で忙しく、仕事が終わった時にメッセージをくれて、170センチ以上ある八重が同じナースの小柄な同僚を膝にのせ、ふざけたポーズをとっている勤務後の写真が送られてきた。

命を守るために戦う現場で、姉もまた戦っていた。

かわいい、と思い待ち受けにした。


 純には好きな女の子が出来た。

高卒ルーキー時代に合コンに呼ばれて、そこで知り合った女の子だった。

看護学校に行っていると聞きいいなと思って、飲み会のテーブルの端っこで二人でずっと話した。

すごく積極的でそれが良かった。会って1時間後には二人で抜けてその子の家であっさりそういう関係になった。

終わってからもなんとなく離れたくなくてベッドで抱きついて「付き合って」と勢いで言い、「うん」とその子は笑いながら即答した。

それが美咲だった。

初めての彼女。純が大好きだとはっきり言い、事あるごとに連絡をくれ、少し時間があれば会いに来て、いつもとてもわかりやすかった。姉ほどではないが背が高く、はじけるように笑い、怒るときは徹底的に怒った。

看護学校の忙しい3年目に、海外に移籍して離れることになった時、美咲は小さな子のように泣きながら私も頑張ると言って、その冬言葉通り国家試験に合格した。

美咲は合格してすぐにイタリアまで会いに来て、二人で過ごした。あんな楽しかった事は無かった。


イタリアに行って3年目に試合中にケガをした。相手は一発レッドになり、純はすぐに病院に搬送された。

復帰まで半年以上と言われて落ち込み、その後に手術も控えていた。ケガをした翌々日、病院に美咲が来た。

「何してんだよ」

「会いに来た」

「会いに来たじゃねえだろ。仕事は?クビになったらどうすんだよ」

「また探す。手術は?」美咲は言った。

「明日」不安で押しつぶされそうだった。悪意のあるラフプレーで負った大怪我。やった方はなんとも思っていないだろう。殺してそいつの脚と交換出来るならためらわず殺したかった。

「終わって目が覚めるまでいるね」そう言って美咲は点滴をしていない方の手を握った。

怪我をしてからの1年間は試練だった。

術後のリハビリ期間中にイタリアで交通事故に遭い、足と肋骨を骨折し、また手術。そのためにリハビリが進まず、その後帰国してリハビリを再開したものの、復帰は断念した。

もう今までのように走り、ボールを追いかけるのは無理だった。

美咲はずっとそばにいて、支えてくれた。

引退を発表した日にもそばにいた。色々な人が連絡をくれたが、そばにいてくれたのは美咲だけだった。


足を引きずりながら、古巣のチームにスタッフとして戻った。リハビリを続けコーチのライセンスを取り、2年でユースのコーチに就任する事が出来た。

結婚をして、みんなに祝福され、結婚二年目に子どもが生まれた。男の子で『颯』と名付けた。

そしてある日不意に、何もかもが崩れ始めた。


こどもが生まれる少し前から息苦しさを感じ、家にいるのが苦痛になった。

あまりにも多くの変化が数年間で起きて、朝起きて今自分がどこで何をしているのか混乱して思い出せない時もあり、妻の顔を見てもとっさに名前が出てこない時もあった。

ベビーベッドに寝ているこどもをみて、オムツを替えて、ミルクを飲ませ、風呂に入れ、寝かしつけ、抱っこして目を合わせ、笑いかけてくる息子に笑顔を返してもなんだか現実味が薄かった。


誰にも相談できず、どうしていいかわからなかった。

妻は産後はしばらくはほとんど実家で暮らしていて、半年後には仕事復帰した。

それからまた家族一緒に暮らし始めたが、生活のリズムも合わず、あまり会えなかった。

伊藤は純が古巣のチームに戻る前年に、九州から移籍して東京近郊のチームの所属になった。伊藤は移籍二年目にチームの本拠地へのアクセスも悪くない都内にマンションを買い、純は仕事が終わったあと、家に帰らず伊藤のマンションに寄ることが多くなった。

1年ほどギクシャクと暮らし、妻も実家にいることが多く、純も週の半分は伊藤の所に泊まって家に帰らなかった。

体の調子はよく、やっと怪我から回復したと感じていた。無我夢中でやっていた仕事も指導するのにやりがいを感じるようになってきていた。

ある日仕事から帰ってきた時、妻が言った。

「ねぇ、他に好きな人が出来た?」

その質問反芻しながら美咲を見て、こんな顔だっただろうかと思った。そしてスーツのジャケットを脱ぎながらもう一度質問の意味を考え、もう一度妻を見てもう好きではないし、なんの興味もないと思った。

「うん」そう答えた。


 最初いくつか小さなものが飛んできた。テーブルの上にあったティッシュボックス、子どものプラスチックのコップ、保育園の連絡帳とペン、次にダイニングテーブルのところにあった椅子が投げつけられた。避けたと思ったがデカい音と衝撃があり額が熱くなった。

息を切らしながら座り込んだ美咲の横を通り、財布と鍵を持って、ふらつきを感じながらマンションを出て駐車場まで行き車に乗った。

ミラーを見ると切れて血がかなりの量流れていた。

車内にあったウェットティッシュで拭い傷口を確認する。1センチに満たないほどだが額が切れていた。畳んだティッシュで傷を押さえ、最近髪が伸び指導中に使っていたヘッドバンドでティッシュを抑えて車を出した。

夜の9時だった。

しばらく運転しコインパーキングに止めて、ヘッドバンドを外し傷を確認するとまだ血が滴り落ちた。

仕方なくまた同じようにティッシュを畳んで傷に当てて、車を降りる。

歩いて少し坂道を上がり、マンションのエントランスに入った。渡されている鍵でエントランスを開けて、エレベーターで上へ向かう。 

五階に着き、エレベーターを降りて一番奥の部屋に向かった。鍵を開けて入ると玄関には靴があり、いるとわかった。

シャワーの音がするが構わず脱衣場の扉を開けて中にはいり、ヘッドバンドを外してもう一度洗面所のミラーで傷を確認した。

シャワーの音が止まり、風呂場の扉が開いてシャワーを浴びた全裸の伊藤が出てきた。

「お、純。今来た?」

「うん」額をティッシュで押さえながら答えた。着ていたワイシャツは血まみれだった。

「どうした、見せろ」伊藤が腰にタオルを巻き、額を抑えていた純の手を握ってティッシュも外し傷を見た。血がまだヌルっと滴ってくる感触があった。

「けっこう深そうだな。転倒した?打ったか?切れただけ?」

「打ったと思う。美咲が椅子投げて当たった」傷口から血が流れる感覚で吐き気がした。

「いつ?おい、純。こっち見ろ。俺の目を見て」

「さっき」目を合わせた。

「傷小さいけど、一応医者行くぞ」伊藤はその場でタクシーを呼び、病院に連れて行かれ、転んで角で頭を打った事にして診て貰った。

脳には異常はなさそうで、傷は3針縫った。

「このすぐ下にも縫った跡があるね」医師が麻酔を打った後に言った。

「15歳で試合の時に切れて…」

「ああ、松田さんサッカー選手ですよね」

「元です。もう引退しました」

「お仕事柄、怪我は慣れてると思うけど、来て正解。痛み止めいります?」

「ハイ」

その後手際よく縫ってもらい、抜糸は1週間後と言われて処置室から出た。

「大丈夫か」伊藤が純の顎を触り、額を見た。

「まだ麻酔効いてるから平気」

伊藤の家までタクシーで帰った。

部屋に入り、洗面所で手を洗い、傷口を覆っているテープは交換していいと言われたが、頭は明日の朝洗うことにして手早くシャワーを浴び、歯も磨いた。

次第に痛みが出てきて薬を飲む。

「伊藤」ソファに座って試合の録画を見ていた伊藤を呼んだ。

「もう寝る?」純がうなずくと、伊藤はテレビを消しソファから立ち上がって寝室へ向かった。

その日から家には帰らなかった。

美咲には『伊藤の家に居候する』とメッセージを送って、翌日美咲が仕事に行っている時間帯に車で荷物を取りに行った



 別居して半年が経った頃、急に美咲が伊藤のマンションに来た。

伊藤は昨日の試合が遅くまだ寝ていて、居間には純一人だった。純はインターホンに映るハヤテを抱いた美咲の姿にただならぬ雰囲気を感じ、エントランスの解錠ボタンを押した。玄関を開けて廊下で待っていると、美咲がハヤテを抱いたまま廊下をまっすぐこちらへ向かってきて、片手に持った折りたたまれた紙を無言で渡してきた。広げると記入済みの離婚届だった。二人とも無言だった。『純!』部屋の中から伊藤の声と重い足音がし、伊藤も玄関から廊下に出てきた。。

元妻はサメ柄のブランケットを握ったハヤテを、玄関からマンションの共用廊下に出てきた上半身裸の伊藤に押し付けるように渡した。ハヤテは伊藤の腕の中でママを見ていた。

「あげる」そう言って美咲は一度も誰とも目を合わさずに去っていった。

純が美咲を追いかけようとした時「パパ!」とハヤテが呼んだ。別居して半年ほど会っていなかった。初めてはっきりとパパと呼ばれ思わず振り返ると、裸の伊藤に抱っこされたハヤテが少し戸惑ったような顔で純を見て手を伸ばしてきた。伊藤からハヤテを受け取った時、エレベーターのドアが閉まる音がした。

ハヤテを抱えながら見た離婚届には、『夫が親権を行う子』の欄に乱れた字で『颯』と書いてあった。

「危ないから一人で開けちゃ駄目だ」伊藤が部屋に戻り鍵を閉めて言った。

 

 純はケガでサッカー選手を引退してから、日本の元いたチームでユースのコーチをしていた。

だが別居後に美咲が何度も職場に来たり、チームのスポンサーの本社まで行って『夫が浮気している』と騒いだので微妙な立場になった。上司からは美咲に嫌がらせをやめさせるように繰り返し言われたが、無理だった。

妻の親からの連絡も半年間ひっきりなしで夜も何度も目がさめて、インターホンを誰か来たような気がして見に行ったり、スマホに着信があったと思って確認した。一度、夜中に美咲が来たから逃げなければと思ってマンションの駐車場まで行き、寝ぼけて出ていったのに気がついた伊藤が慌てて追いかけて来た。下着姿で裸足で駐車場にいる自分に呆然とした。そんな日々が続き、一度試合中に倒れて選手たちにも迷惑をかけた。辞めるしかないと思いチームに辞職を申し出てすぐに、美咲の方から離婚届を持ってやってきた。その頃にはもう何もかも全て台無しになっていて、今更どうにもならなかった。



 実家のある須山市は都心から電車で1時間半ほどの山にほど近い海沿いの街だ。大きな商業施設もちらほらあり、街の目抜き通りはかなり栄えていた。

美咲が離婚届を渡しに来てすぐに実家に連絡し、夜にハヤテを連れて行くと、親はこうなることが予想できていたのか孫可愛さかあっさりとハヤテを預かってくれた。

実家にも元妻は何度も来て、親戚ぐるみで工務店をやっている実家の両親にも親戚にも大迷惑をかけた。事務所は商店街にあるのでそこで騒げば商店街中の物笑いの種だった。誰にとっても離婚は朗報だった。

ハヤテを見てよそ者が来たと騒いだのは飼っていた犬くらいで、ハヤテは半年ぶりに会う母、ハヤテから見たらおばあちゃん、にすぐにべったり抱きついた。居間に行くと夜の9時過ぎにもかかわらず、親戚がみんな集まって久々にハヤテが来るのを待ちかねていた。

親に預けすぐに家を出て、役所の時間外受け付け窓口で離婚届を提出した。

窓口の人が「お預かりします」と言った時、ホッとし、同時に自分のせいだと思い、もうほんの数週間早く美咲が諦めてくれていたらコーチの仕事をやめずに済んだかもしれないというやるせなさまでもが襲ってきて、押し流されそうになった。

車に戻り伊藤にメッセージで『離婚届出した』と送った。すぐに着信が来た。

「これで終わり?」

「離婚成立。ハヤテはうちで育てる」

「よかった。今ハヤテは?」

「実家。さっき一度帰ったら親戚が全員集まって俺たちを待ち構えてた」

「何時頃に戻って来る?ハヤテに必要なものあったら言えよ。買ってくる」

「あのさ、ハヤテは実家にしばらく預けようと思ってる。俺は明日の朝早くに東京に戻る。長い間世話になって、ほんと…ごめん」

別居してから半年間、ずっと伊藤の家にいた。美咲とハヤテの住むマンションからは電車で一時間ほどの距離で別居してすぐの頃には何回も夜中に美咲が来て、手に負えず伊藤が2回警察を呼んだ。美咲だけで伊藤の家に来た事もあり、警察が家にハヤテが置き去りではとマンションに急行したが、ハヤテは美咲が実家に預けていて無事だった。

「家にハヤテと住めばいい」伊藤が言った。

「ありがとう。でも俺こっちで新しい仕事も決まったから、予定通り退職したら一回地元に戻る。ハヤテが小学生くらいまでは地元の方がいいかもな」

東京での人間関係はこの半年で徹底的にズタズタになり、もう伊藤くらいしか安心して話せる相手はいなかった。美咲の浮気相手探しは共通の全知り合いに及び、苦労した時期を支え、子どもを産んですぐの妻を純が裏切ったと全ての友人や知り合いが知ることとなった。

離婚届を出し終えて実家に帰ると、ハヤテはもう寝ていた。そのまま実家にハヤテを預けて伊藤のマンションに戻り2週間後、チームを去り実家に帰った。

微妙な雰囲気の中で辞めていくのを心から惜しんでくれている人は誰もおらず、ただ負け犬が去っていくのを憐れみをもって、見送っていた。




 

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