予感
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第1話 純
「純、起きてる?」姉はいつもそう言って純の布団にもぐりこんで来た。
小さな頃は今よりもっと家業の工務店が忙しく、朝起きると親はすでに母屋に行っていて、祖父母や職人さんたちの朝食の支度や何かをしていた。
商店街に面した事務所の裏に離れはあり、そこから広い裏庭を挟んで重機置き場があった。重機置き場の先は公道で、さらにその先の公道の向こう側に母屋はあった。昔は一続きの土地だったが、道路を通す時に分断された、と聞いていた。
姉と純は、起きて身支度をしてランドセルを持って道路を渡って母屋に朝食を食べに行き、夜も二人で風呂上がりにパジャマで道路を渡って離れまで戻り、寝た。その当時、母屋には祖父母だけが住んでいて、父と母は離れに住んでいたはずだが、一緒に過ごした記憶はほとんど無かった。
両親や祖父母、父の三人の姉とその夫やいとこたち、出入りしている職人さん、あふれるほど人がいる工務店の生活の中で、姉には純しかいなかった。
抱きついて来た時の柔らかい髪の感触、グスと涙をこらえる音、密着する体は冬には暖かく、夏には少し暑く汗ばんでいた。小学生の頃、多いときには毎日のように姉はやってきて純と一緒に寝た。背も高く普段は頼りがいのある姉が頼ってくるのが純は嫌ではなかった。
姉は中2でその時に付き合っていた中3の男の子とヤってからは、ベッドにもぐりこんでくる代わりに部屋の窓から出ていった。
その頃から姉と母の関係は目に見えて悪化して顔を合わせればケンカをし、ケンカをするとすぐに家を出て行った。泊めてくれる男の子には困らなかった。親はあまり姉には興味が無く、そんな様子でも相変わらず離れにはほとんど来なかった。
三学年上の姉と純は成長するにつれ、次第に住む世界が離れていった。
それでも時たま、姉は部屋をのぞき「純、起きてる?」と聞いた。「うん」と答えるとベッドに入ってきて最近あったことを話しはじめ、いつも気がつくと朝で姉はいなかった。
純が生まれ育ったのは海沿いの坂が多く風の強い街だった。
友達に誘われて小学二年生からサッカーを始めた。練習場まで行く時に最初はボールを入れたリュックを背負い、途中までこいで力尽きると山の上の方にあるグラウンドまで自転車を押して通った。次第に足の力がつき、その年の冬には一気に自転車でグラウンドまでこいで行けるようになった。
サッカークラブの下部組織だったそのクラブに小学六年生まで所属して、中一からは地元の公立中学校のサッカー部に入った。
県大会上位常連のそれなりに強い学校だったが、一年生の夏休み明けにはレギュラーになる事ができた。上下関係の厳しいヤンキーだらけの田舎の学校での抜擢は純にはかなりの試練だった。
生意気だと呼び出され、ボコボコにされた。顔にもアザができ、あまり顔を合わせない親にも食事時にバレて「喧嘩した」と言って誤魔化した。その時高校一年だった姉もその場にいて、何か言いたげにそのアザを見ていたが何も言わなかった。
その翌々日には、パタリと先輩から絡まれたり呼び出されることが無くなった。
理由はすぐにわかった。
「松田の姉ちゃんって松田八重?姉ちゃんの彼氏が怒ってて松田ボコした三年生がシメられるって噂本当?」部室で二年生の先輩から嬉しそうに言われた。中学では三年のガラが悪く、二年と一年はそうでもなかった。
「やっちゃん何かした?」その日の夜、姉は珍しく遊びに行かず離れでテレビを見ていて、相変わらず両親は母屋だった。
姉は純を見て、ニヤとしてソファに寝転がって伸びをした。長い手がニュッとソファーから伸びてソファーの前に座っていた純の首に巻き付き、猫のようにスリっと純の頭に頬ずりした。その時、姉の八重の身長は170センチを超えていて、まだ純は155センチあるかないかだった。
「また何かあったら言いなよ」子供の頃から変わらない低くハスキーな声で姉は言った。
中学では三年生の時に全国大会に出場し、初戦で負けたが初出場に地元はわき、サッカー部はスポーツ推薦で高校に進学したメンバーが何人も出た。純もいくつか話しがきてその中から東京の私立高校に決めた。純以外のメンバーは県内の高校に進学が決まった。
姉は大方の予想に反し、中三の頃には落ち着いて高校に進学した。それなりの進学校だったが大学受験はせず地元の看護の専門学校へ進学した。純は高校進学で寮生活になり、離れには姉が残った。
寮では月1の帰省日があった。
よっぽどのことがない限り帰省日の週末は姉が純を金曜日の夜に高校の寮まで迎えに来て、日曜にまた寮まで送ってくれていた。おそらくそれが親が出した新車購入の条件だった。
高1の6月、急に試合が入り帰省予定が潰れた週末に、うっかり純は姉に伝えそびれた。迎えに来た姉は純が待ち合わせの場所に来ないのにしびれを切らして寮に現れた。
「純にやっちゃんが迎えに来たって言ってもらえる?」
その日姉はたまたま玄関にいた三年の先輩をパシリにして呼びに行かせた上に、一年生は風呂に入っていると言われ、受付で待つのに飽きて寮の中をうろついた。
姉は風呂場まで来た。1ダースの裸の男子高生が、風呂の入り口にいる長い髪でショートパンツにゆるいタンクトップを着た女の子を見つめた。いつも通りの口調で姉は聞いた。
「純、今日って須山に帰んないの」
「やっちゃん!!ダメダメダメダメ!出てって!」純は慌ててつかっていた風呂から飛び出して、脱衣場でパンツをひっつかみ、もう片方の手で姉の手をつかんで、フルチンずぶ濡れで脱衣場から廊下に飛び出して、廊下でパンツを履いた。
「明日1年は試合だから急に帰るの無しになった。言い忘れててごめん」
「次からはちゃんと言いな。体拭いてきて」純は脱衣場に戻り体を拭いて、慌てて飛び出して濡らしてしまった床も拭いた。
出てくるともう廊下に姉の姿はなく、廊下の先の食堂の方から何やらにぎやかな声が聞こえてきた。のぞくと姉が三年の先輩たちに囲まれて無表情で缶ジュースを飲んでいた。
「失礼します!」談話室の入り口で声をかけてから部屋に入った。一年は談話室に入る時は挨拶が必要だった。
姉は手に缶を持って立ち上がり、純の肩に手をまわした。その頃、姉と純の身長はほとんど同じで顔も似ていた。露出の多い服装で長い髪をしているのが姉で、日焼けして坊主頭なのが弟だった。
「外まで送って」
「わかった。…失礼しました!」談話室から姉に肩を組まれたまま出た。姉とベタベタくっついて歩くのは気まずかったが、先輩との上下関係と同じように姉と純にも絶対的な上下関係があり、手を振り払う選択肢はなかった。
寮の外に出て、学校の外周までくっついたまま歩いた。
「純がいなくなってさみしい」姉はぽつりと言った。先月は帰省日に帰れたが4月はケガをして帰れず、今月も無理だった。
「俺もやっちゃんに会えなくてさみしい。彼氏は?」
「ケンカした時にバカって言われてムカついて別れた」
「ぶん殴った?」姉は笑いながら首を横に振った。姉弟ゲンカをしてもお互い絶対に手を出す事は無かった。
「来月は帰るから待ってて」
「わかった。サッカー頑張ってね」姉が純に抱きついてかぎ慣れたシャンプーのいい匂いがし、優しい声にホッとした。家に帰ることは出来なかったが純にとって姉の存在こそが『家』だった。
「やっちゃんも学校頑張れ」
7月の1週目が帰省日だった。高校1年の夏、チームはインターハイ出場を逃して三年は意気消沈してはいたが、まだ冬があった。
「松田は今日は地元帰るの」練習が終わり、純が校庭でブラシをひいていると三年の先輩から聞かれた。
「はい。帰ります」
「迎えはお姉さん?」
「そうッス。もう寮に入るなって言いました。すいません」
「今日、松田のお姉さんとちょっと話してもいい?」
「大丈夫ッス、けど…よく見たらやっちゃんは…姉ちゃんは俺と顔そっくりなんで嫌になると思いますけど…」
声をかけてきた緒方先輩は三年でセンターフォワードで9番だった。サッカーの雑誌にも載り都の選抜にも出た。
かっこいいと女子なら全員が言うような外見で、みんなと同じ制服を着ていても緒方先輩だと少し遠くからでもわかった。
海沿いの街からやってきた、ヤンキー丸だしの姉のどこが気に入ったのか見当もつかなかった。確かに先月姉が寮に乱入して来た時に談話室で姉の横に座って話しかけていた三年生の中に緒方先輩もいた。緒方先輩はモメるのが嫌で学校内で彼女は作らない、お嬢様学校と合コンして遊んでいる、という噂だった
当時強制坊主の一年生だった自分たちには合コンなんて夢のまた夢の話で、中学から彼女のいるヤツくらいしか女の子と縁が無かった。
緒方先輩に姉は学校の外周のモミジバフウの大木があるところで金曜日の七時には待っている、と言うと校舎の時計をチラと見て「サンキュー」と言って去って行った。
「やっちゃんを売ったな」同じ一年生でゴールキーパーの伊藤がブラシを引きながら横に来て、ニヤッとして言った。
先月、伊藤を連れて帰省した。寮生は月1は実家に帰ることが出来たが、伊藤の実家は新幹線の距離だった。
ゴールキーパーはある程度の体格が必要で元々人材不足だ。全中の東京対新潟代表戦で中2で正ゴールキーパーをしていた伊藤に将来性を見た監督が、半年がかりで新潟に通い、口説き落とした。長期の休みにしか帰れず、5月の帰省日に純が伊藤にうちに来いと誘った。
やっちゃんは伊藤を『いいヤツ』と認めた。
純と伊藤はやっちゃんの女の子の友達5人と一緒に、春の夜の海に遊びに行った。
姉の友達が出してくれた8人乗りのワゴン車にぎゅうぎゅうに乗り込んで、伊藤は一番でかいという理由で助手席に座り、姉と純は後部座席にもう一人の女の子と乗った。
移動中も車で音楽をかけ、みんなで歌っていて楽しそうだった。
海に着き、砂浜まで降りた。
伊藤はバカでかい靴を両手に持ち、波打ち際で足を水に浸していた。
「日本海とは違うか」
「わかんねー、俺は山の方に住んでるから海はそんなに行かない。純も俺の家に夏休みに来いよ」
二人で話していた後ろから姉が現れて、純の腹のあたりに腕をまわし抱きついてきた。
「純の背、伸びたね」耳元で聞こえた女の子にしてはハスキーな声は少し寂しげだった。姉はいつも自分よりはるかに大きく、超えられない存在だったが、まもなく追い越すだろう。
「やっちゃんも伊藤の家に一緒に遊びに行く?」
「うん」いい加減に答える時の言い方で姉は言った。
無軌道な遊びは日が昇るまで続いた。
練習後、モミジバフウの木の待ち合わせ場所まで伊藤と行くと、車のすぐ横に先輩と姉がいた。
近づくのに気が引けたが、伊藤が先に歩いていった。
「先輩お疲れ様です。やっちゃん、久しぶり」姉に話しかけていた先輩に伊藤は横から割り込んだ。
「伊藤じゃん。私からなんて呼んで欲しいか決まった?」
「裕太って呼び捨てでいいっす」
「オッケー。純、二人は後部座席?」
「うん。やっちゃんトランク開けて。先輩お疲れ様です」どさくさまぎれに先輩に挨拶をして、トランクに伊藤と二人分の荷物を入れ、後部座席に乗り込んだ。
「『先輩』も一緒に須山に行く?」運転席に座った姉が窓を開けて先輩に向かって聞いた。
「軽いって思うかもしれないけど、本気で連絡が欲しい。俺からも連絡していい?」先輩は真剣なように見えた。後部座席にいる自分たちは目に入らないようだった。
「純と裕太、ちょっと下向いてて」純はあーあ、と思いながら下を向いた。ドアが開き姉は車から降りた。しばらくして、じゃあねという姉の声が聞こえ、車のドアが閉まりエンジンがかかった。ウインカーの音がして、車が走り出した。
「もう顔上げていいよ」
「車から降りて何したんだよ」
「可愛いからキスしただけ。あの子絶対遊んでるから私はパス」姉はさらっと言って、音楽をかけた。
その次の週末の日曜は午後の練習が休みで寮の食堂も昼と夜は閉まっていたので、みんなそれぞれ出かけて行った。
月曜日に先輩と寮の廊下ですれ違った。
姉からは前の晩、珍しく寮に電話がかかってきて『緒方くんが須山まで来たから会った』と言われた。
詳しくは言わなかったが、姉の口ぶりからするとヤッたんだろうと思い、気に入らなかった。目を合わせずに「ウス」と言って緒方先輩の前を通り過ぎようとした。
先輩のデカい手が出しぬけにガッチリと純の腕を握り、そのまま引き寄せられて、顔をまじまじと見られた。少し熱を帯びた先輩の目線が眉や目のあたりから頬を通り、唇の上でさまようのを感じた。
ほんの30センチの距離で見る緒方先輩の顔は作り物のように彫りが深く、日焼けした肌はつやがあり、奥行きのある骨格で少し奥まった目は肉食の動物の目をしていた。
「へぇ、やっぱり松田と八重って似てるな」
姉を八重、と呼び捨てにされた事にもカチンと来た。やっちゃんか八重ちゃんと呼ばれていて、八重と呼び捨てにする人間はいなかった。
「うちの姉ちゃん声デカいでしょ。俺の部屋まで毎回筒抜けなんで、うるせーから声抑えろって言っていいっすよ。『イッちゃってもいい?』って先輩も聞かれました?」
先輩の顔から表情が消えた。
「『ねぇもっと奥じゃなきゃ嫌』」わざと目をじっと見つめながら少しかすれた甘えた声を出して姉のモノマネをした。
姉に手を出しておきながら馴れ馴れしく話しかけてくるのが気に入らなかった。
緒方先輩は尊敬される先輩で人柄も悪くなかった。これだけの大所帯のサッカー部でスター選手なのに一年生にわざわざ話しかけてくれる、出来た男だった。味方から敵意を向けられる事などいままでは無かっただろう。
「すいません。手痛いから離してもらっていいっすか。俺は『痛く噛んで』って気分じゃないんで」
先輩は純の手を離さなかった。逆に握る力は強くなり、そのまま引きずられ廊下の先の人のいないリネン室まで連れて行かれた。まずい状況だった。
「態度が悪いな。謝れ」リネン室の棚に挟まれた狭い空間で腕をつかまれたまま、先輩とふたりきりだった。
小学四年生までサッカーと並行してやっていた柔道の技をかけて逃げる選択肢は無い。そんな事をしたらもうサッカー部にいられなくなる。
でも謝るのも嫌だった。
「こっちの女の子に飽きて田舎のヤンキー女をつまみ食いっすか」
「遊びのつもりはない」自分は選ぶ方だと思っている傲慢な所が気に入らなかった。
「やっちゃんは好きな男とすぐにはヤんないんで、先輩のことは遊びです。やっちゃんから連絡来ないでしょ?」純の手を締め付ける力が強くなった。
「アッ」思わず声が出た。腕はもう我慢できないくらい痛く、気分が悪くなって吐きそうだった。
手が離れた。一瞬痛みが消えたあと血がめぐり、グッと腕の痛みが増した。
「忘れろ」先輩が言った。
「忘れます」痛む片腕を押さえながらそう答えると、先輩は残念な生き物を見る目で純を見たあと、リネン室を出ていった。
「痛ってぇ」一人言ってしゃがみ込む。アイロンのきいたシーツ類のニオイが急に鼻をついた。
「純?」リネン室のドアが少し開いて、ドアの上の方から見慣れた顔がのぞいた。下を見て純がいるのを見つけるとリネン室に入り、ドアを閉め、狭い棚と棚の間の空間に伊藤もしゃがんだ。
「さっき関が部屋に来て、純が緒方先輩にリネン室に連れて行かれたっていうからさ。何してんだよ」
「なんでもねぇ。俺が緒方先輩怒らせただけ」
「腕見せろ。うわ、これアザになるぞ」
「やっちゃんに仕返ししてもらうからいい」小さい頃から純が生意気だと絡まれると、姉が全部やり返してくれた。
「俺に出来ることあるか」
「ある。緒方先輩ぶっ飛ばせ」
「無理だろ」伊藤は笑った。
その後は部屋で伊藤が食堂から持ってきた氷でアイシングをしてくれた。腕は伊藤の予告通りあざになり、見た全員に何があったか聞かれたが、ごまかしはせず言えないと言って答えなかった。
体格差と立場の差がある上に無抵抗だったのに、一方的に暴力を振るわれ、先輩と関係を持った姉が心配だった。世の中にいくらでも女の子はいて、誰でも選べるのに珍しいからという理由で姉に手を出してほしくは無かった。
伊藤は先輩との一件以降、寮ではできるだけ一緒にいてくれた。
「やっちゃんと俺が付き合ってるって事にしたら、緒方先輩を断れるんじゃねーかな」伊藤が言った。
「確かに。でもそれだと伊藤が緒方先輩と気まずくなる」
「キーパーだから大丈夫。練習も基本別だから」1年生ゴールキーパーの伊藤とスタメンでフォワードの先輩は一緒に練習する頻度は低かった。
「でも寮で会う」
「俺のほうが強い。柔道なめんな」
伊藤も元々柔道もやっていて、本人談では黒帯の何段とかでかなり強く、小学生の時に県大会まで行き、地元にいた中3まではサッカーと二刀流で道場に通っていたと言っていた。4年生で辞めた純よりははるかに強いことは確かだった。
先輩の方が背は高かったが、本気を出せば伊藤もそれなりにやりそうだった。
「俺だって柔道やってた。でも先輩に手出したら終わるだろ」
「先輩はお前に手を出した。俺は絶対に許さない」
その日、学校の公衆電話からテレフォンカードで姉の携帯電話にかけた。
「はい」
「やっちゃん?純。時間ないから一方的にしゃべる。緒方先輩に会うのをやめてほしい。伊藤と付き合ってることにしといて」
「…いいけどなんで?」
「危ないから。後でまた電話する」
「純は大丈夫?」
そう言われた瞬間腕が痛んだ。
「大丈夫。夏休みに会おう。迎えよろしく」
「うん。じゃあね」
受話器を置いた。
数日が経った。
その日は練習がキツかった。途中、前が見えないほどの土砂降りになって避難した。すぐに雨は上がり、ゴールキーパーの伊藤と1年生ディフェンス三組で一軍の相手役になった。
一軍を止められるわけもなく、スピードも当たりも足元もはるかに及ばなかったが、最後まで食らいつき、伊藤はファインセーブを連発して泥まみれで気迫にあふれ鬼のようだった。
疲れ切った。ボールを洗ってスパイクも外の水道で泥を流し、顔も頭も外の水道についているホースでざっと洗った。
「気持ちいい」思わず声が出る。泥を洗い流し、ハーフパンツの前ポケットにすね当てを入れ、Tシャツを脱いで絞った。
後ろから歩いて来た伊藤が頭の上に手を置いてきて、土の匂いと、汗の匂いがした。
「今日の俺、凄くない?」そう言いたくなる気持ちがわかるくらいの出来だった。
「凄い。抱かれてもいい。ケツ貸すぞ」
「あと15センチ伸びねえかな」伊藤はその時180センチをこえた所だった。
「まだ伸びてるだろ」
「うん。でもU-16に中3で俺よりデカいやつがいる。負けたくねー」
伊藤は中3からユースの日本代表に招集されていた。
「俺も身長欲しい。毎日10時には寝よう。寝ないと伸びないらしい」
「オーケー。あーあ、早く俺ら世代でまた試合出てぇな。俺がキーパーで純がセンターバック、吉野は右サイドバック…関は、どこだと思う?左のミッドフィールダーやらされてるけど、フォワードやりてえって言ってたもんな。
関は頭いいし突破力もある、おまけに体力鬼だろ。
疲れてようが爆速で上がって、やばい時もなんでお前ここにいんの?って所まで戻ってる。あいつチームでっつーか関東の高校サッカーで一番足速いんじゃね?後ろからみてると冗談みたいなスピード」関は1年生にも関わらず、もう準レギュラーで、一軍の試合にも一度出た。
「関って陸上部からサッカーと掛け持ちしないかって声かかってたらしい。でもボールがないと走る気がしないからって断ったって」
「関らしい」伊藤が上を向いてハッと笑った。
もうあたりには部員はいなかった。木曜日の七時少し前、空はもう暗くなり、数時間前に土砂降りが降ってからずっとおさまらない強風が背中を押した。二人は寮の入り口で靴下を脱いでそこにある雑巾で足をぬぐい、玄関の片隅に濡れたスパイクを干して、寮に入った。
夜に姉が来た。
寮の受付から呼び出されて行くと、看護学校の帰りにそのまま来たようで、化粧は無し、ジーンズにTシャツで長い髪はポニーテールにしていた。
「外で話そう」純が言った。
平日の寮への来客は学校からいい顔はされない。今は本当なら宿題をやる時間だった。家庭でトラブルがあり、姉はその話をしにきたと寮の管理人には言った。
「何かあった?」姉が言った。
学校の外周まで出て止めてあった姉の車のそばに来た。
「やっちゃんとヤッただろって緒方先輩からかったら、コレ」
半袖の腕から見えるアザは数日で色味が増し元の大きさより広がって見えた。姉は腕の派手なアザを指でそっとなでた。
「先生に言った?」暗がりで、自分と同じ大きくてやけに黒い目がこちらを見ていた。
「忘れるって先輩と約束した。やっちゃんは危ないからもう緒方先輩と会わないで。伊藤と付き合ってるって事にして欲しい」
「裕太はそれでいいの?」
「伊藤がそうしろって言った」
姉は何か考えているようだったが、何も言わなかった。少しひんやりした姉の手が純の前腕を触り、汗ばんだ肌を確かめるようにゆっくりさすった。
「純!そろそろ戻れ!」伊藤が車のところまで走ってやって来た。そろそろ夜の自由時間、もとい宿題を大急ぎでやっつける時間が終わりそうだった。
「やっちゃんまたね」姉は純の言葉に曖昧にうなずき、駆けつけてきた伊藤を見た。
「純は俺が絶対守る」走ってきたせいで少し息を切らしながら伊藤がきっぱりと言い、そのヒーロー然とした言い方がおかしくて純と八重は笑った。
車が去り、伊藤と二人ダッシュで戻った。
次の日の夜には伊藤が『松田の姉のやっちゃん』と付き合っている、というのはサッカー部の全員に知れ渡った。
伊藤から告白して、八重がいいと言ってくれたという事になっていた。
「松田の姉ちゃんは緒方先輩より伊藤を選んだってことか」学食で昼食を食べながら同じ1年生でサッカー部の関が聞いた。
「緒方先輩とは一回会っただけって言ってた。伊藤はうちに泊まりに来てるし、姉ちゃんの友達とも仲良くなったもんな」
「うん」伊藤がカレーを食べながら言った。
「緒方先輩は松田の姉ちゃんに本気じゃねえの」
「誰から聞いたんだよ」
「本人が言ってた。シュート練習で並んでる時に遠藤先輩が合コンに誘ったら、今は好きな子がいるからいいって」
「先輩はやっちゃんの好みじゃない。東京にはいくらでも女の子いるんだからそっち行けばいいだろ。俺はやっちゃんが結婚するなら伊藤の方がいい」伊藤はカレーをもぐもぐと食べていたがピタッと動きが止まってこっちを見た。
「やっちゃんと結婚したら伊藤と俺は兄弟?お兄ちゃんって呼んだ方がいい?」隣に座っていた伊藤を横目で見て言うと、首筋まで真っ赤になった。
「純は気が早い、伊藤は照れすぎ」吉野が言った。
2週間後に短い夏休みが始まり、寮生たちは散り散りにそれぞれの故郷へ帰って行き、戻るのは1週間後だった。
伊藤は最初の三日間は純の実家に遊びに来ることになって、姉が迎えに来た車に乗って一緒に須山まで来た。
帰りの車で二人とも爆睡し目が覚めると車はコンビニの駐車場で、もう県境を越えていた。
「おはよ。お茶飲む?」コンビニから姉が戻ってきた。後部座席を振り返ると、裕太は車の窓にもたれ腕組みしてぐっすりと寝ていた。
「先輩からやっちゃんに連絡は?」
「コレ」姉は携帯を操作してから渡した。
『また会いたい』『伊藤との話は信じてない』『大切にするからチャンスを』…先輩が水着の姉とくっついて二人が笑っている自撮り写真が添付されていた。せっかく須山まで来たならと姉が海に連れて行ったのだろう。純はメールを削除した。
「私が裕太とヤッてハメ撮り送る?」思わず口から飲んでいたお茶が飛び出しそうになった。後部座席の伊藤は熟睡して何も聞いてはいなかった。
「そこまではいい。メールは無視して」
「わかった」
姉は機嫌良くニコッとして、助手席の純の坊主頭をなでコンビニの駐車場から車を出した。
冬の全国大会は都大会の決勝まで行き、負けた。関は出場し、得点に絡んだが、2対1で惜しくも敗れた。
三年は残っていたメンバーもこれで引退だった。学校に戻ってから三年生から後輩に挨拶があり、後を任せるという挨拶と、その後はそれぞれ後輩と話したり握手して、中には抱きついて泣いているものもいた。
伊藤は三年の正ゴールキーパーの先輩から、来年度は二年のゴールキーパーではなくお前が正ゴールキーパーになる、それは監督もコーチも二年の先輩も織り込み済みで、お前が背番号1番と言われていた。
純は二年の先輩たちと話し、監督の考えもあるが、能力的にはおそらく関は次からはレギュラー確定で、純と吉野も準レギュラーになるから気合い入れてけとはっぱをかけられた。
二年生を追い越して、レギュラーをとると思うと少しプレッシャーを感じたが嬉しかった。
関はフォワードを狙っていて、緒方先輩たち三年のフォワード経験者の歓談の輪に入りに行った。
三年生の先輩たちは携帯電話で写真を撮ったり、現役最後の1日の終わりを惜しんでいた。
1年生は携帯電話は持てなかった。
「松田!こっち来い」緒方先輩が純を呼んだ。「なんで俺…」小声で言いながら側に行く。あの腕をつかまれた一件以降、伊藤が姉と付き合っている事にして月1の帰省日は伊藤と須山に帰省していた。先輩はあれっきり姉の話はせず、絡んでも来なかった。
「お疲れ様でした。今までありがとうございました」
「一緒に撮ろうぜ。吉野、撮って」そばで話していた1年の吉野に携帯を渡し、先輩は純と肩を組んだ。
「松田も俺の肩に腕置け。笑えよ」
「ウス」部の集合写真のようにお互いの肩に腕をまわした。
吉野が撮って携帯を先輩に渡した。
「松田、腕のこと悪かった」
「いや、俺が悪かったんで、すいませんでした」
「お前と関と伊藤なら国立行ける。頑張れ」
「ハイ」
先輩は純を見て穏やかな顔をしていて、その顔を見ていると暴力を受けたことや今まで感じていた反感は何かのマボロシだったような気がした。
「緒方先輩、俺は?」吉野が不本意だと言わんばかりに横から割り込んで聞いて、先輩は笑った。
「吉野も頑張れ!観に行くからな」
集まりがあった後、先輩が玄関へ降りる階段の方へ行くのを見た気がした。確信はなく、それでも何か胸騒ぎがし、門限まで時間があるのを廊下の時計で確認し、玄関から出た。
もしかして、と思った。
校門を出ると少し前を緒方先輩が歩いていた。気が付かれないように距離をとり、さっき先輩が曲がった角からその先の路地をのぞくと見覚えのある車が街灯のあるモミジバフウの下に止まっていた。
車の運転席から姉が降りて歩道側に近寄ると、ガードレールの向こう側にいる姉を先輩は抱きしめた。姉はジーンズにパーカーを着て髪はまとめていた。学校か病院での実習か、何かの後にわざわざ来たのだろう。抱きしめられ、緒方先輩の背中に腕をまわして「どうしたのー?」と姉が言っている声が小さく聞こえた。先輩は姉に抱きついて泣いているのかもしれなかった。
緒方先輩にはサッカー部にこれだけたくさんの仲間がいて、学校中の人気者でほかにもたくさんの人が応援してくれて、今日は得点も決め、このあとは大学でもサッカーを続けることを決めていて、そんな先輩が高校サッカー最後の日に会いたいのはサッカーになんの興味もないやっちゃんだ、と思うと不思議な気がした。
気が付かれる前に道を戻った。
さっき肩を組んで写真を撮ったのはきっと姉に送るためだろう。
早足で戻っていたが、気がついたらダッシュして寮まで戻っていた。
姉と先輩はいつからまた連絡を取り合っていたのだろう。二人が好き合っているならこれが正しいという気もした。でもすごく嫌な気分だった。
部屋に戻った。二段ベッドが部屋の両サイドにある4人部屋で、伊藤と純が下段、関と吉野が上段だった。
「来年から二人部屋だろ。お前と一緒の部屋がいい」伊藤が話しかけてきた。純は仰向けに寝転がりなんとなく億劫で返事が出来なかった。
「伊藤ふられた?俺も純と一緒でもいいな。俺と住まねえ?」伊藤のベッドの上段から関が言った。
関の言葉も無視し、さっき見たものの事を考えた。
「どうした」伊藤が自分のベッドから出て、純のベッドに無理やり入り仰向けの純に横から抱きついて、純の坊主頭のニオイを嗅いだ。
「頭嗅ぐな、変態」関がヤジを飛ばしたが伊藤は無視した。
「心配事か」
「まあな。レギュラー争い始まるだろ。関はもうレギュラーで伊藤も背番号一番もらう。俺も早くレギュラー確定したい」
「焦るな」伊藤が言って、ベッドの足元の毛布を引っ張り純と自分の体にかけた。伊藤は予告通りこの数ヶ月でかなり身長が伸び、体も一回り大きくなった。もう緒方先輩よりも大きかった。純も伸びて、姉より5センチは大きかった。
「変態。毛布に隠れて何してんだよ。純逃げろ」関がまたヤジった。
部屋に吉野が入って来て、純のベッドに伊藤がいるのを見て伊藤の尻に一発蹴りを入れた。
「純と姉ちゃん間違えるなよ」
「痛!」伊藤は振り返って吉野をにらんだが吉野は気にせず二段ベッドの上に上がって行った。
純は次第に悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなった。先輩はもう暴力を振るうようには見えず、引退した先輩と姉が何かしていようが自分には関係無かった。姉の方がきっと一枚上手だ。緒方先輩も大学で忙しくなれば姉をかまっている暇は無くなるだろう。ふと、純のろくでもないイタズラ心がうずいた。
「俺やっちゃんがヤッてる時のモノマネ出来る。やっちゃん声がデケえからいつも丸聞こえ。中学ではバカ受けだった」
「やれ」関が言った。
「伊藤がかわいそうだろ。プライバシーの侵害」吉野が言った。まだ伊藤と姉は付き合っている事になっていた。
「緒方先輩が引退したから言うけど、伊藤とやっちゃんは付き合ってない。伊藤がやっちゃんかばうためにそういうふりしてくれてただけ」
「は?俺たちも騙したのかよ」
「緒方先輩ああ見えて怖えんだよ。俺に一回暴力ふるったし、やっちゃんにもしつこく連絡してきたから、伊藤がかばってくれた。バレたら伊藤がシメられるからみんなにも言わなかった」
「なんだ、伊藤も彼女なしか」吉野が言った。
関がこちらを見ていた。緒方先輩に腕をつかまれリネン室に純が引きずられて行くのを伊藤に教えたのは関だった。関は手の大あざが緒方先輩にやられたのに気がついていただろうが言わなかった。
「やれよ。モノマネ」二段ベッドの上から関が言った。
「やべぇ、俺普通に勃ったから抜いてくる」関がやや前かがみで上着を手に持って前を隠し、二段ベッドから降りて部屋を出て行った。
二段ベッドの上にいるはずの吉野はシーンとして音沙汰がなかった。
「吉野、俺のモノマネの感想は?」
「黙れ。今精神統一してるとこ…伊藤は平気なのかよ」
「俺は平気。童貞はさっさと抜いて手洗って帰って来い」
「うるせぇ!」吉野も上着を持って二段ベッドの上から降りて出て行った。
部屋は伊藤と純だけになった。
「伊藤、当たってる。嘘つき野郎」
あの頃、自分たちの『高校サッカー最後の日』ははるか彼方にあり緒方先輩の涙も他人事だった。
純たちの高校サッカー最後の日は国立競技場で、痛いほど寒い風の強い日だった。
名ばかりの強豪校で、大昔に一度だけベスト・フォーに入った事のある私立高校のクセの強い面々は、奇跡とともに勝ち上がり、決勝戦の舞台に立っていた。
三年生になったゴールキーパーの伊藤、センターバックの純、関はトップ下で10番を着ていた。吉野は2年まで右の中盤だったがレギュラーメンバーの交代で右のサイドバックに固定になった。
純はキャプテンで背番号は5番だった。
伊藤はその時190センチ台後半、純も182センチまで伸びて、入学した頃の大きな目と口ばかりが目立つ坊主の痩せた少年は消えていた。伊藤は相変わらず坊主だったが、純や他の同学年は髪を伸ばしていた。
試合前に蛍光イエローのキャプテンマークを腕にはめながら、腕に馴染んだこのキャプテンマークをつけるのも今日で最後だと純は思った。
「おい、今日際どいフリーキックあったらお前来い」吉野に関が声をかけた。
「純じゃねえの」西野が言った。
「今日は吉野のほうが調子いいだろ。純、いいよな。コーナーも吉野に蹴らせて純は上がって来い。ヘディング期待してる。カウンター食らったら俺が絶対に戻る。何が何でも点取るぞ」
「監督は?」
「話した。いいか!全員死ぬ気で走れ!」ロッカールームでの関の声掛けに部員たちの気合いの入った返事が聞こえた。関の目は闘争心でたぎっていた。今日の相手は何回も優勝経験のある強豪校で得点力も守備もよく、ここまでの試合も盤石と言って良かった。
巨人に挑むのだった。
「純、いつものやらなくていいのか」後ろから伊藤が純に声をかけた。
振り返って伊藤のいつもとかわらない顔を見る。
「これ言うの最後だな。左の低め」純は伊藤の耳元で小さな声で言い、離れた。
決勝戦は何もかも、全てが夢のようだった。東京の高校が決勝まで進みチケットも例年にない売れ行きだった。
関は徹底的にマークされ、思ったように動けず、それでも前半から何回もゴール前まで運び、倒されては監督が「ファール!」と叫んだ。
関の献身的な活躍により、フリーキックもコーナーも獲得した。吉野が蹴って純も上がったが得点には繋がらなかった。
伊藤は落ち着いて度重なるピンチも切り抜け、それでも一度決定的なシーンがあり、それはバーが阻んで、両チーム無失点のまま延長戦に突入した。
地獄の延長戦だった。
極端に低い気温、普段より長い前後半に加え、延長戦前半で体力はほぼ使い果たしたに等しかった。
関の存在がみんなを走らせていた。関はいつも冷静で表情に出さない。絶対に疲れ切っているはずなのに、関は試合開始と同じ様子で走り続け、顔も指示を出す声の調子もいつも通りだった。
吉野が延長前半と後半のエンドの交代の時に移動しながら「足、つるかも」と言った。
「交代したいか」伊藤が聞いた。
「出たい」吉野は不安そうな顔をして言った。
「ならこのまま行こう」純が言った。
「お前が倒れたら純がカバーする。思いっきりやれ」関がニヤとしながら言って走って自分のポジションに戻り、その背中を見て純も思わずニヤと笑った。まだ笑える余裕が自分にあるとは思わなかった。
吉野の足はつらず、両チーム無得点のままPK戦になった。
ここまで皆でたどり着きもうこの先は無かった。
チームのみんなで横1列に並んだ。相手が先攻だった。
「伊藤」
伊藤は純を見てうなずいた。そしてゴールの方へ歩いて行った。その背中は出会った頃より大きく広く、まるで壁のようだった。この三年間ずっとチームと純を守ってくれた壁は強固で頼もしく、振り返ればいつもそこにあった。
相手チームの1本目はあっさり決まり、伊藤は反応は出来たがセーブは出来なかった。
会場はどよめき、歓声は反響し内臓まで響いた。
次は純だった。ボールを置き、相手のゴールキーパーをチラと見た。ホイッスルが鳴りすぐにためらわず蹴った。
ボールはゴールの枠、左下に吸い込まれた。
大歓声の中、チームの列に戻り肩を組んだ伊藤がまたゴールの前に立った。
次は吉野だった。吉野は典型的努力型で練習熱心で、PKも対策をしてきていた。
吉野が蹴った瞬間に止められる、と純は思った。吉野の狙った右枠上にキーパーは迷わず飛び、ボールははじき出された。
吉野は一度膝をつき、それから戻ってきた。関が抱きとめ純が肩に手を回して支えた。伊藤がゴールに向かった。
決着は6本目でついた。
相手が決め、二年の選手のボールが枠に当たり、純の耳はその瞬間聞こえなくなった。隣の吉野が自分にしがみついたのを感じ、関が芝生に座ったのが目の端に見えた。
試合終了のホイッスルは聞こえなかった。
相手チームと握手をし、試合が終わった。
純は地面に倒れ込んだ選手たちを引き起こしながら「よく頑張った」と声をかけ、その後に泣いてグローブで顔を覆っていた伊藤の肩を抱いた。
「来てくれた人にお礼言わないと」純が言うと伊藤は「無理」と小さい声で言った。
伊藤が泣いたのを見たのは初めてだった。大男で試合ではいつも落ち着いていて、優秀なキーパーだった。あり得ないくらい出来た男で、伊藤が後ろにいる事がプレーの上だけでなく、精神的にもチームを支えていた。
「わかった。泣いてていい。行くぞ」純は伊藤を肩で泣かせたまま、関と関に抱きついて泣いていた吉野も連れて、他のメンバーもその後をついて行った。観客席の前まで行った。
「礼!」キャプテンとして号令をかける。
来てくれた人たちに頭を下げ、しばらくして顔を上げた。景色はまるで変わって見えた。真冬の寒いフィールドで口から出る息は白く、横の伊藤の頭の上からは湯気が立ち上っているのを見て、なんだかおかしな笑いたいような気持ちになった。腕のキャプテンマークを見る。この戦いはやっと終わった、と純は思った。
その日、寮に戻ってきたのは夕食の直前でメニューはみんなの好きな唐揚げだった。
食べている途中で、OBが差し入れを持ってやってきた。その中に緒方先輩の顔を見つけ、もしかしてと思い姉にメッセージを送る。すぐに短く『いるよ』と返って来た。
にぎやかな食堂から、すぐに戻りますと抜けて玄関へ行き、靴を履いて寮を出た。外は真っ暗で寒く、上着を来てこなかった事を後悔した。
ダウンジャケットを着た姉が道の向こうの角を曲がって来るのが見えた。今日もう走れないと思うほど走った足が少しもつれながらまた駆け出した。
姉も走って来て抱きついた。
「やっちゃん!」会うのは久しぶりだった。三年生の春に一度帰省するのに会ったきりで、こんなに長く会わなかった事が無かった。いつの間にか自分よりずっと小さくなっていた姉に、懐かしい髪の匂いに、大好きなその顔に、自分の方へ駆けてきた姿に胸が苦しくなった。
「純のことテレビで見てた」ハスキーな声が言った。姉は抱きついていた体を離し純の顔をみた。その目は少し潤み、純の目を見つめていた。
「やっちゃんも寮に来て」
姉は純の首に抱きつき暗がりの中、間近で純の顔を両手で挟んでもう一度見て笑顔になった。
「純だ」
お互いの体に手を回し、寮へ向かった。寮は女子禁制なので受付の前の椅子に姉を座らせて食堂へ戻る。
「伊藤、ちょっと」
OBと話していた伊藤を引っ張り、階段を降りて玄関まで連れて行った。
「やっちゃん!試合観てた?」
「テレビで見た。裕太泣いてたねー」伊藤は姉とハグして持ち上げた。2階からはにぎやかな声が聞こえてきた。
「ふたりとももう戻って」姉が言った。
「やっちゃんも行こう」伊藤はハグして持ち上げたまま姉を運ぼうとした。
「ダメ。外に止めた車で待ってるから連絡して」
「わかった。絶対待ってて」姉はこちらを見てうなずいてから寮の玄関を出て行った。
「なにかあった?」吉野が伊藤と二人で食堂に戻ってきた純に聞いた。
「うちの姉ちゃんが来ただけ。今外周に車とめて待ってるから後で行く」
緒方先輩が来て挨拶をした時に、自分を見る顔を見て姉も一緒に来たなと思った。二人が続いていたのかは知らなかった。
「会わせろ」関が横から言った。
「後で行くときに一緒に行こう。関と吉野の事はやっちゃんも知ってるから」
「やっちゃんに手出すなよ」伊藤が言った。
「関はやっちゃんの好みじゃない。やっちゃんが好きなタイプは吉野」
「俺?」
「『可愛くないと抱けない』」久しぶりに姉のモノマネをして、みんなとの歓談に戻った。
背格好がそっくりだった一年生の頃とは違い、姉のモノマネはもう似てはいなかった。次にキャプテンをするであろう2年生と話して、次こそ優勝をしろとけしかけた。素直にハイという顔を見てまぶしいと思う。
「松田先輩、握手してください」言われた通り手を握る。
「夏も冬も行けたら見に行く。頑張れ」
後輩は堰が切れたように泣き出した。彼が最後のPKを外した。
うつむいて前に傾いだ彼を抱きとめ、涙が止まるのを待つ。
今日が高校サッカー最後の日だった。もう全て、数時間前の試合ですら過去になっていた。
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