21 皇后ヴィットリーア
扉の中に入ると、まがい物の魔女のマナの気配が一層強くなって、キアラは思わず顔を顰めた。
隣を立つレオナルドは表情には出さないものの、微かに顔を強張らせている。
そのマナは皇后から発せられていて、彼女の全身から黒い煙のような禍々しいオーラがゆらゆらと湧き出ていた。それに気付いているのは、魔力の高いキアラとレオナルドのみだ。
「そなたが噂の伯爵令嬢か。見るからに尻軽そうだな」
形式的な挨拶が終わると、皇后が皇帝よりも早く口火を切った。
彼女は彫刻のように端正な顔立ちで、雪のように白い肌に血のような真紅の髪。意思の強そうな、深緑の切れ長の瞳が酷く印象的だった。
第二皇子の母親だが、とても成人した息子がいるような年齢には見えなかった。
(異様だわ……)
キアラが感じた初対面の印象は、違和感と不穏だった。皇后は誰が見ても美しいと答えるだろうが、どこか人工的で歪な雰囲気を帯びていたのだ。
この気味の悪い不和を、彼女は知っている。
(皇后陛下の美貌の正体は……偽りの魔女のマナね)
文献で、魔女は年を取らないと読んだことがある。それは不気味さや嫌悪感を煽るための誇張だと思っていたが、闇のマナはそういった作用もあるのだろう。
(魔女のマナを持たない者が魔女の儀式をするには、膨大な生贄が必要だと聞くわ。あの美しさを保つのに、一体なにを犠牲にしているのかしら……)
おぞましい文献の内容を思い浮かべると、ぞくりと粟立った。
「皇太子と婚約をした令嬢ですから、自然と噂が広まるのでしょう」
皇后の侮蔑の言葉に、最初にレオナルドが噛み付く。婚約者のことを尻軽などと俗的に表現されて、無性に腹が立ったのだ。
だが、皇后はそんな擁護も嘲笑う。
「ヴィッツィオ公爵令息と婚約をしていたのに、皇太子に求婚されて乗り換えたのだろう? なんと打算的な
「彼女の婚約解消と私との婚約成立に、帝国法上でなんの問題もありませんよ、
「それは書類上であろう? 世間はどう見るかのう?」皇后は意地悪そうにくすりと笑う。「北部の英雄とまで謳われる皇太子が色恋に狂うなど……
「恋愛スキャンダルは、たしかに
「問題は数ではない。事の大きさだ」
血の繋がっていない
その隣で、皇帝が呆れたようにため息をついていた。
キアラはレオナルドから今日は黙って微笑んでいればいいと言われていた。面倒事は全て自分が引き受ける、と。
皇族には皇族の
婚約者だけに任せっきりで、守られることしかできない自分ではもうないのだ。
「たしかに」キアラは皇后の圧に負けないように声を張り上げる。「たしかに陛下のおっしゃる通りに、今は世間からはそのように見られる可能性がございます」
「ほう?」
皇后は義理の息子の婚約者を、初めて興味深く見る。
「ですが、書類の上ではなんの問題もございません。それは疚しいことなど皆無というこです。ですので、世間の根も葉もない噂は、ただの雑音に過ぎませんわ。嵐の一夜のような、一瞬の」
「だが噂というものは、げに恐ろしきものよ。たった一言から始まって国が傾くこともある」
「そのような些末なこと、握り潰せば良いのです。皇后陛下は得意なのではありませんか? ぜひご教授いただきたいですわ」
「……言いよるのぉ、娘」
皇后の瞳が鋭くぎらついた。
「キアラ・リグリーアですわ、皇后陛下。私は娘でも、皇太子妃になる娘です。帝国の頭脳の中心である殿下ならば、地方の取るに足らない男爵令嬢の名さえも記憶していましょうに。お戯れを」
皇后は微かに口元に弧を描く。これは少なからず手応えがあったと感じた。
過去にダミアーノから聞いたことがあった。皇后陛下は野心を持つ人間を好む、と。
なので少々強引ではあるが、多少無礼を働いても問題ないだろうと読んでいた。
むしろ、皇后の性格ならここでビクビクと小動物のように怯えていたら、吊し上げの格好の餌食となっていたはずだ。
「キアラ嬢の家門は伯爵家で皇族と縁続きになるに相応しい家柄です。それに、未来の皇后として申し分のない能力の持ち主です」
「たしか事業を営んでいるようだな」ずっと黙っていた皇帝アントーニオが口を開く。「業績も素晴らしいと聞いておる」
「無駄な小麦を買い漁って大損とな」と、皇后が横槍を入れる。どうやらキアラのことは細部まで調査済みのようだ。
レオナルドは義母の挑発など無視をして、
「彼女はまだ若い令嬢なのに、商才が素晴らしい。私たちは帝国の経済についてよく議論をしています。彼女の鋭い見解は、傾聴に値しますよ」
「皇太子と対等に意見交換ができる令嬢はさぞかし貴重であろう。――だが、婚約の前に父に一言でも相談してくれても良かったのではないのか? お前は帝国の皇太子なのだぞ」
「陛下の言う通りぞ。たとえ小さき事柄でも、臣下である皇太子が皇帝の意思に反するなど言語道断。謀反だと言われても仕方がないぞ」と、皇后はちゃっかりとレオナルドを牽制する。
「それは……」
ずっと硬い表情のレオナルドが、ほんの少しだけ照れ笑いをした。
「彼女を愛するばかり、私の感情が暴走してしまいました。若さ故の過ち……どうぞ寛大な御心でお許しくださいませ」
彼の想定外の言葉に、キアラの顔が上気した。
仮の婚約だと知られないように愛し合う演技をする手はずではあったが、こうも直接的に言われると殿方に免疫のない彼女は面食らってしまう。みるみる鼓動が強くなった。
生暖かい、少しの沈黙。
皇帝も皇后も目を見開いて硬直している。
ややあって、
「はっはっはっ」
皇帝が豪快に笑った。
「まさかお前の口からそのような言葉が出るとはな。――よかろう。リグリーア伯爵令嬢の、家柄も才覚も問題なし。婚姻に向けて準備を進めなさい」
「ありがとうございます、父上」
レオナルドは頭を下げてから今度はおもむろに皇后のほうに向いて、
「これからキアラ嬢が皇太子妃に相応しいと証明してみせます。きっと歴代最高の皇后になるでしょう」
次の瞬間、バキリと音を立てて皇后の持つ扇が真っ二つに割れた。
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