短編小説 目差し症候群
阿賀沢 周子
第1話
肌寒い5月の夕暮れ、札幌の西のはずれにある星川駅に電車が入る音が響いた。貴子は二階待合室の奥のベンチに座り腕時計をみる。高井と滝口が、今の電車に乗っているはずと立ち上がり改札に目をやった
二人は、貴子の前の職場の同僚で、ともに9歳年上の姉貴分だ。札幌の中央区のその職場でパートをしていた貴子は、5年前に転職し正社員として働き始めた。離れても二人とは付き合いが続いている。
一口で言えば、自分の審美眼を信じるばかりに、あけすけな物言いをして周りに煙たがれるのが高井。いつも話の中心が一人息子と夫の話ばかりなのが滝口だった。同い年の高井と滝口の性格は正反対だが、不思議と仲が良い。その二人に、どういうわけで、口数が少なく世辞が嫌いで、とっつきにくいと言われている自分が誘われるようになったのか、今もって貴子にはわからない。
三人でいるのは居心地が良い。年が離れている分気を使わなくて良い面があり、貴子にとっては、同年代と付き合うよりストレスが少ない。経験の違いで、話の幅が限りなく広がるのも面白かった。
滝口は昨年度末で早期退職をして今は無職だ。高井も、昨年健康を害して今は働いていない。
二、三か月に一回くらい、何かと理由をつけて三人で会食をしている。今年に入って、滝口の誕生日祝い、桃の節句と続いて、今回は貴子が幹事役で、観桜会だ。
貴子は『ひらや』という星川でも評判の小料理屋に予約を取った。
二人は他の乗客に追い越されながら、ゆっくりと階段を上がってきた。腕を組み顔を寄せてお喋りをしている。高井が改札を通過するときにお喋りがやみ、貴子に気づいて手を振った。
「貴ちゃん、お久し振り」
高井は貴子の両手を取って、上から下まで見廻しながら言った。高井は会うたびにふくよかさが増して、頬はピカピカで張りがある。健康を害してからタバコを止め、酒を控えているせいだ、と本人は言っていた。
滝口は高井に回していた腕でバッグを胸に抱え、笑顔で「元気だった?」と言ってきた。小柄だが、夫とウォーキングや、パークゴルフをするだけあって、全身が引き締まっている。予約した店まで少し歩くと説明すると「前に使った『トン亭』でもよかったのに」ややしまり屋の滝口がいう。
「そうですね。どうしようかと思ったのですけど、和食もいいかなと思って。お刺身がおいしい店ですよ」
『トン亭』はとんかつ屋で、滝口が棲む隣町の繁華街にあった。昨年の暮れ滝口が幹事の時、知人が勤めていて安くなるからと忘年会をしたところだ。
滝口は思い出したように言う。
「そういえば、カツが嫌いだっけ。ほとんど食べなかったよね」
「あの時はお腹がすいていなくて」
駅前の通りを、海側へ向って三人並んで歩く。
海岸までは3㎞ほどの距離で、星川地区にはカラスとカモメが雑居している。海に向かって平地が続き標高は低い。駅側を振り返ると、線路の向こうは切り立った崖で、その奥も起伏が続き手稲山や春香山に連なっている。山々から流れて来る川にはいくつかの滝がある。夏の涼場であり、子どもたちの遊び場になっていた。
「滝口さん、私は和食派だから刺し身のおいしい店がいいわ。私がまだ呑める口だった時に行った琴川の『ふるさと』も良かったよね。八角や石持の刺身と日本酒がおいしかった。今回はグルメの貴ちゃんお勧めの店だっていうから楽しみにしてきたのよ」
高井は滝口と再び腕を組み、貴子にむかって話しながら歩いている。西のほんのり赤い空を指さし、感心したように声をあげる。
「ここでは夕日が山に沈むのが見えるのね。我が家の夕日はお隣のマンションに沈むのよ」
「駅の反対側の坂を上ると、夕日が海に沈むのも見られますよ」
海は歩いていける距離にあるが、札幌市には海がない。海浜は小樽市に属している。小樽が終わるのは石狩漁港の辺りでそこからの浜辺は石狩市だ。星川は山、滝、海と自然の豊かな土地柄で、子育て世代に人気の住宅街だ。
忘年会のときのことを思い出す。
貴子は『トン亭』を目指して駅横の小路を歩いていた。店の看板を発見した途端、豚肉料理を食べることができなくなった。
貴子は、好き嫌いはない方だ。看板の豚の絵に、目が描かれてあったのが原因だった。
「信じられない……」
食べる動物にかわいい目。美味しいからどうぞ食べて、と動物がくりくりした目で客に訴える絵。
店に入ると、すでに小上がりで高井と滝口は待っていた。『黒豚極上カツを頼んでおいたけど』と高井が言った。貴子は笑顔で頷いたが、サラダと玉子スープを追加した。トンカツは食べられそうにない。
いつのころからか、食べようとする生き物の写真や絵がそばあり、その生き物と目が合うと、胃が縮んで食欲ががくんと無くなってしまう。
潮の匂いがかすかにし始めると、屋根の軒先に白いイルミネーションが飾られている建物が見えてきた。縄のれんが下がっていて、玄関脇に『ひらや』と書かれたジョッキ型の看板があった。
建物の両脇に植えられた満開のチシマザクラの、薄暮と看板の灯りで作られたグラデーションが目に温かい。
貴子を先頭に店へはいると奥の小上がりへ案内された。
席に落ち着き、互いの近況を話しているうちに、刺身の盛り合わせともずく酢、雲丹と蛸と大根のサラダが運ばれてきた。
「嬉しいわ。貴ちゃん、乾杯しましょう。音頭をとって」
高井に急かされて貴子は座り直す。
「はい。では、三人の健康と幸せを祈って、乾杯」
滝口が続ける。
「今日も楽しく飲み、おしゃべりしつくしましょう」
三人は互いにグラスを合わせ、箸を取った。
高井は、ノンアルコールビールを一口だけ飲み、食べることに専念し始めたが、突然顔を挙げて言った。
「今思い出したけど、貴ちゃん、知り合った頃に三人で行った『清寿司』では鯛と平目、食べられなかったわよね。今、口にしたんじゃない?」
『清寿司』は札幌駅北口にある活魚料理が売りの寿司屋だった。
「活き造りが駄目っていう人、結構いるけどそうだったの?」
滝口が訊ねる。あの時は、寿司屋のレジの壁にぱっちり目の鯛と平目が着物を着て舞っている絵が貼ってあったのだ。
「活き造りは、かなり苦手です」
長い付き合いだから、話せばわかってもらえるだろうかと考える。
女将が、海老のから揚げと、豚串を運んできた。真っ先に高井が頬張る。
「この海老ぷりぷり。おいしいわ。ところで、海老は大丈夫なの」
「高井さん、私、本当は何でも食べられるの」
滝口が貴子のグラスにビールを注ぐ。
「私には、だいぶ前から魚や肉を食べる時、生きている時の姿を目にすると受け入れられないという症状があるの。自分ではどうしようもできない・・・聞いたこともない新種の病気のよう」
貴子は、先日観た某局のニュース番組の話をして聞かせた。道内のニュースを流す時間帯に、地方のグルメを紹介するコーナーがあった。
「今日は〇〇のご当地グルメ、羊のカレーです」
呼び出された当地のレポーターが、料理方法やら、地元のどこで食べられるかを紹介する。その後、羊が育てられている農場を紹介した。
「この広ーい牧草地で伸び伸び運動するので、身が引き締まって美味しいんですね」
画面がスタジオに切り替わるとレポーターの前にカレーが用意されている。
「嬉しいことに私たちも味見ができるんですよ」
その画面の左下に小さな別の画面が現れて、牧草を食べている何頭もの羊を映した。
「おいしいです。羊臭くありませんね」
小さな羊がズームアップされて、カメラに興味を示した羊が近づき、濡れた黒目とひくひくする鼻が超アップになった。
「私にはああいう編集をする人間の気持ちが、理解できない」
「そういうことなんだ。だから、いきなり食欲が失せることがあったのね」
高井は盛んに頷き、滝口は目をまん丸くして貴子を見て『理解できない』と呟き頭を横に振っていた。
「わかるような気がする」
高井がヨーロッパ旅行をしたときに、レストランで漫画みたいな動物を描いたり、飾ったりしているのを見た記憶がないと言い始めた。
「生き物と肉の呼び方が違うのもいい。英語でpigとpork、cowとbeef。日本も昔は分けていたのかしら。ほら、家畜の部分の呼び方って独特じゃない。さがり、はつ、あれってどこからきているの?」
昔は生類憐みの令のせいで、花の名前を付けていた時代があったとは聞いたことがある。欧米とは肉食の歴史が違うから文化も違う。でも自分にとっての問題は、生き物の『目差し』なのだ。見開いて星のある目は生きていることを表現しているのだから。
滝口が豚串を食べ、串を丁寧に並べながら話す。
「そういわれて私も思い出した。あの魚のつかみ取り、あれどう思う? 私はつかみ取りは嫌いでないよ。紙のならね」と言って一人で大笑いしている。
「私、あれも駄目なんです。子供が、生きた鮭を抱いて『嬉しいです。焼いて食べます』とかいうの。頂きますの挨拶もろくに教えられていないで」
言いつつ子供には罪はないと立ち返り、言い過ぎたと反省する。
「狭くて浅いところに離された鮭が逃げるのを、追いかけて苦しめて。ああいう場面をどうして報道するのかしら。見たくない人もいるのに」
貴子は少し興奮し多弁になったのを自覚して息を整えた。ビールを空け御代わりを頼んで辺りに目をやる。高井はノンアルコールビールを自酌している。滝口はいつの間にかハイボールに替えていた。
カウンター席に中年の男女が一組座って、店主と談笑していた。
「貴ちゃん、私もほぼ賛成よ。世の中のいろんなけじめがなくなってきたなと感じることが多い。でもね、見て見ぬ振りができないと痩せちゃうよ」
高井は、話をダイエットの難しさへ持っていった。タバコを吸うのを止めたせいで太るのなら、タバコには良い面もあると宣伝するべきだと、持論を展開する。貴子は、穏やかな言葉のやり取りに慰められ、だいぶ気が楽になっていた。
高井がまた手酌をしようと手を伸ばした。貴子がかわりにビール瓶をとろうとした時、女将手作りの和紙の箸入れが小指に引っ掛かり裏返る。裏に、ピースをしている海老の可愛い絵が丁寧に描いてあるのが目に入った。それもウインクをして、貴子を見つめていた。
短編小説 目差し症候群 阿賀沢 周子 @asoh
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