第六章:龍神と貞観
貞観は気づくと暗闇にいた。
いくら目を見開いても、真っ暗闇である。
一体自分が目を開いているのか、閉じているのか分からない不思議な感じがする。
自分の手足を動かしてみるも、なにやら重くてまともに動かない。
ようやく両手を腹の前で合わせてみると、なるほど、自分の両手は縄で縛られているらしかった。
なぜ自分の両手は縛られているのか。
誰が縛ったのか。
ここはどこで、今は何時だ。
すべてが分からない。
が、確かなことを拾い集めてゆくしかない。
貞観は、今一度、自分の状態を確かめた。
どうやら、自分は長い事気を失っていたようである。
寝転がっている地面の感触を探るに、そこは冷えた土の上であるらしかった。
こんな夏場に、こんなにひやりとした土がある場所なぞ、果たして見当もつかない。
貞観は、自らの置かれた場の不確かさに、ぶるっと一度、大きく身震いをした。
今は何時であるのか、一体ここはどこなのか、自分の体についているものと地面以外に確かなものを感じられず、貞観は自分がまるで大きな穴の中を転げ落ちているような感覚に襲われた。
しん、としている。
自身の衣擦れの音以外には、何も聞こえない。
「あっ――」
おもむろに声を出してみた。
すると声は幾重にも反響して、再び自分の耳に届いた。
どうやら、ここは穴のような空間であるらしかった。
存外、壁が遠いことに驚いた。
自分のはるかかなた、頭上高くにまで天井があるように思われた。
「あーっ」
今度はもう少し長めに声を出してみる。
声は再び空間内を響いて、貞観の耳に達した。
大丈夫、耳は聞こえている。
しかし目の方は、一体自分の目が見えなくなったのか、それとも辺りが単に暗いだけか、いまだ判別はつかない。
くんくんと、自分の匂いをかいでみる。
大丈夫だ、汗臭い。
鼻は生きている。
こうして貞観は自分の感覚が生きていることをひとつひとつ確かめながら、自分が生存していることを再確認していった。
しばらく、自分の匂いを嗅いだり声を出したりしていると、貞観は耳に聞きなれない音が届くのを感じた。
それは、何やらしゅるしゅるという、空気が細い場所を抜ける時の音のようであった。
はて。
貞観はじっと、耳を澄ませた。
しゅる、しゅる、と音は続く。
「誰か――」
貞観は声をあげてみた。
しかし返事はない。
「誰か、おるのか――」
今度は一層声を張り上げて呼びかけてみた。
「おおい――」
すると、しゅる、しゅると一定に聞こえていた音が、ぴたりと止んだ。
途端に、あたりはしんとして、物音ひとつしなくなる。
貞観は、何故だか、しまった――と思った。
これで自分は命を奪われるに違いないという切迫した思いが胸に去来した。
何故だか、自分はここで死ぬ、無残にも殺されるのだという強い思いが、まるで現実にそうであるかのように迫ってきた。
ああ――もっと懸命に生きていれば――。
それは「めんどうなことだ」が口癖の貞観としては、らしからぬ感想であった。
なんだ、今頃命が惜しいのか。
自分にそう言いたくなる。
が、とてつもなく強い力で、この命が惜しくて惜しくてたまらないといった祈りにも似た願いが、胸を内から食い破ってきそうなのである。
自らのそんな激しさに、貞観は驚くと同時に、身動き一つできないでいた。
ああ、己が死ぬ時というのは、このように死ぬのか――。
そう、思った。
その時である。
「誰ぞ」
暗闇の向こうから声がした。
「誰ぞおるのか」
その声は、しわがれた老人が、あり得ないが筋骨隆々の腹の底から絞り出すような声であった。
この世のものとは思えないその声に、貞観は目を見開いた。
この声――。
己は、この声の主に殺されるのか――。
ぐるぐると忙しい頭の中で、貞観は己の最期を感じた。
しかし、なおも声は続く。
「おい、そこの坊主。こっちへ来い」
貞観はしっかとその声を聞いた。
声の主は、こっちへ来いと貞観を誘っている。
どうやら、呼び立てをしてそこで殺そうという腹か。
貞観はその場で動けなくなっていた。
両足を折り曲げて、それを両腕で包むようにして、全身を丸めて我動かじの姿勢を見せる。
しかし、と、貞観ははたと気づいた。
声の主は、「そこの坊主」と言った。
声の主には、貞観の姿が見えているのだ。
この真っ暗闇の中で。
それはあり得ないことであった。
貞観は思った。
声の主はこの世のものではないのかもしれない。
己は、化け物の餌食になるために、捕らえられたのやもしれぬ。
喰われるのだろうか。
今から、喰われるのだろうか――。
痛いのだろうか――。
義円、稲――。
「ええい、何を縮こまっておる。そこの坊主、お前じゃ。何もせぬからこっちへ来い。頼みがあるんじゃ」
先ほどとは一段階も二段階も声の調子を上げた暗闇の向こうの存在である。
貞観は、おそろしくなった。
「ほ、本当に、私を喰わぬのか」
思わず尋ねていた。
声の主は、少し笑ったように聞こえた。
「ああ、安心せい。おぬしなぞ喰うても腹をこわすだけじゃて」
そう言うと、再び、しゅる、しゅるという連続した音が聞こえだした。
「では、今からそちらへ行く。辺りが暗くてよく見えぬから、目印として音を立てていてくだされ」
貞観はそう言って、四つん這いになった。
声の主は、あい分かったと言って、しゅる、しゅるという音を大きくした。
音の方へ向かって、貞観は這ってゆく。
手足から伝わってくる地面の冷たさは、貞観が流す血で少しは温まるのだろうか。
這いつくばって進みながらそんなことを考えた。
やがて貞観は、湿り気を帯びた壁へと到達した。
しゅる、しゅるという音はその壁から出ているようである。
どこかへ通じる穴でもあるのだろうか。
貞観は思った。
「よう、来たな」
声の主は言う。
「あなた様はいったい――」
貞観は、ぬめり気のある壁を、縄で縛られた両の手で触りながら訪ねた。
「儂か、儂はなぁ」
ぬるり、と貞観の手の中で壁が動いた。
ざらざらとした感触が手を伝ってくる。
ぞわり、と貞観の全身に鳥肌が立った。
「儂は、龍よ――」
そう言うと同時に、貞観の前にある壁がぐにゃりと曲がり、とぐろを巻いた。
龍よと言った途端に灯されたわずかなあかりで、貞観はその様子を目の当たりにすることとなった。
「なんと――」
貞観はその場にうずくまり両腕で顔をかばい目を閉じた。
ややあって、目をうっすら開けてみると、それまでなかった中空の場所に、いくつか青白い鬼火が浮いていた。
龍神が目の前にいるのだ、そんな不思議もあるのだろう。
貞観は当然だと思った。
あかりのおかげで、貞観の目が慣れた頃には、あたりの様子がだいぶ分かるようになっていた。
ここは大きな洞穴で、その中央に龍神がとぐろをまいており、周囲の壁づたいに伸びる縄に、貞観はつながれているらしかった。
「龍神様、これは――」
見ると見渡す限りの壁いっぱいに、何やら古代文字のようなものが書かれている。
それが鬼火でぼんやりと浮かび上がっているのであった。
「儂を封じるための印よ」
「印――」
鬼火が照らす龍神の躰をよくよく見れば、色のない鎖で締め付けられたような跡が見える。
しゅる、しゅるという音は、その痛みゆえに龍神の口から漏れ出る吐息のようであった。
「龍神様、たいそうお辛そうでいらっしゃる」
貞観は、見えない鎖を両手でつかもうと試みたが、見えないだけにつかみようがないらしかった。
「おぬしは、見た所、法力僧のようじゃが、何やら術が使えるのか」
龍神が尋ねた。
「あ、いや、龍神様。私は実は訳あって法力僧の姿をしておりまするが、実は法力僧ではありませぬ」
「なんだ、法力僧ではないのか。不思議の術は使えぬという訳じゃな。残念じゃ」
龍神はそう言うと、しゅる、しゅるという音を一層大きくした。
「訳とはなんじゃ」
貞観は、目をぱちくりさせた。
存外、人に関心のある龍神であるらしかった。
少し気が和らぐ。
「男の、前世で知り合いであるという男の霊に取り付かれたのでございます」
貞観は、事の顛末をかいつまんで語ってきかせた。
「なるほどのう。確かにおぬしからは男の霊の香りがするわ。その霊、何があろうと死ぬまでついて離れぬと心得よ。そういった類の霊よ」
「なんと――」
先ほどまで命が惜しいと縮こまっていた己が嘘のように、貞観は己の行く末を案じていた。
少し打ち解けたような気がして、貞観は龍神と話をしてみたくなった。
「龍神様、聞いてよろしゅうございますか」
「ああ」
「龍神様は、あの、先日大和の山奥の寺から姿を消された龍神様ではいらっしゃいませぬか」
龍神は、目を細めて貞観を見やった。
「おぬし、儂を知っておるのか」
「あの日、私もその場におったのでございます」
「そうか、そうであったか」
話をしている間も、しゅる、しゅるという音はやまない。
「一体、何があったのでございますか」
しばらくの間が置かれ、龍神は語り始めた。
「あそこは儂のねぐらであった。供え物をしたり祈りを捧げたりと色々と世話をやいてくれる法力僧たちのために、たまに興がのった時にはいくらか力を貸してやるのがならいじゃった。その力に、目を付けた奴がおったんじゃろう。天狗と手を組んで儂をとらえよった。おそらく、このままでは、儂は天狗の餌食になるのじゃろうて。水さえあれば、このような縄など簡単に解けるのだが……」
貞観は、龍神がそう小声でつぶやいたのを、聞き逃さなかった。
「水、でございますか」
貞観は、きっと目を見開いて、自分が最初に捕らえられていた壁際の辺りを見やった。
己は厠の前でさらわれた。
で、あるならば――。
果たして、そこに、一口の
貞観は、それに走り寄った。
そして両手でその水瓶を持ち上げると、耳を近づけて中に何か入っていないか振ってみたのである。
ちゃぽ、ちゃぽ、と、水瓶の中で音がした。
「龍神様!水がありまず!」
龍神は、鬼火をやって、それを照らすと、目を細めて言った。
「おお、それをこちらへよこせ」
水瓶の水を手に持つ玉にかけてやると、龍神を縛っていた見えない鎖がちぎれ飛ぶのが分かった。
「目をつむっておれ。おぬしを家まで送り届けてやろう」
そう言うと、轟音と疾風があたりを覆った。
気づくと、貞観は元いた厠の前、水瓶を持ったまま、立ち尽くしていた。
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