第三章:加持祈祷

明け方から日が高くなるまで少し眠りについた貞観は、不思議な夢を見た。

夢の中の世界は、見たこともない、つるりとした空間が広がっていた。

つるりとした床に、つるりとした壁。

壁から天井に至るまでには、継ぎ目らしい継ぎ目がなく、ただ小さく小窓のようなものがあいている。

そこに透明な水を固めたようなものがはめこまれていて、向こう側が透けて見えるのだった。

床には、繭を半分に割ったようなものが並べられており、その前で貞観は一人の人物と相対している。

相手の性別は分からない。

ただ、相手は、しきりに貞観にしがみついて何かを訴えている。

貞観はそれにこたえるように、相手の両肩を抱き、その涙をぬぐうのだった。

そんな、不思議な夢を見た。

目を覚ますといつもの天井がそこに広がっており、暑い中、蝉の大合唱が御簾の内にまで聞こえていた。

男のこえは、どこへやら、聞こえなくなっていた。

そうはいっても、昨夜起こったことをなかったことに出来はすまい。

貞観は一晩考えた挙句、とりあえず陰陽師の元を訪れることにして、明け方に文を出していた。

都へ行くのは久しぶりであったが、なにも貞観自身が歩くわけでもなし、稲の心配をよそに貞観は物見遊山で出かけていった。


夏の都は暑かった。

道をゆく衣一枚の人々は朱雀大路を南北に行きかうなかで、日差しに負けて、その表情はみな泣き顔のようである。

たまに見かける身なりのよい武人などは、そのような者よりも余計に着込んでいるため非常に足取りが重くもみえた。

地面に返す日の光があたりをまばゆく照らしており、牛車の中から覗いていると、その明暗差から目を細めずにはいられないほど景色が輝いて見える。

がらがらと音を立てて進む牛車の中にあって、身を包む蝉の声に、その命の短さを思うと、悠久の時の中にただ一つある己の命が思い起こされた。

ただし、身に迫る暑さ故に、いつもの諦めに似た境地を深く味わう余裕はなく、貞観は首を伝う汗をぬぐいながら、現金なものだとひとりごちるのであった。

陰陽寮の指定の場所に牛車を止めると、貞観は自ら歩いてその門をくぐった。

初めて来る省庁のため、自分の足でその門をくぐってみたかったのである。

「受付」と書かれた札が下げられている場所までやってくると、そこの机の上で何やら書物を繰っていた中年の男性がこちらに向かい頭を下げた。

「こんにちは、初めてですか」

年下と思ってか、その声は庇護に満ちている。

一人前であるところを見せる必要に迫られ、貞観はことさらに格式ばった返答を試みた。

「今朝、文をさしあげました源貞観と申します。陰陽師の方にご相談があって参りました」

男性はにこりと笑うと、かしこまりましたと言って、別の帳面を取り出し、しゅるしゅると繰り出した。

「あったあった、源貞観様だね。いやいや、大和からようこそ。おおい、ご案内して」

貞観と同じほどの年齢に見える若い男性が、快く返事をして、こちらですと、貞観を奥の部屋へと導く。

入り組んだ建物内の曲がり角を何度か曲がった後、

「こちらになります」

と若い男性が示した先には、「第二教場」と書かれた札の下げられた一室があった。

若い男性によって、教場の扉が開かれる。

「おや、どちらさまかな」

扉の開く音に反応して、教場の内から声があがった。

貞観が促されて中へ入ると、黒衣をまとった二名の男性が互いに向かい合って文机を前に座っていた。

「こちら、先だっての文にございました、源貞観さまにございます」

そう二名に挨拶をすると、貞観を先導してくれた若い男性は、では、と言ってその場から退出した。

「午前中に文をもらっているからね、大体のことは分かっているよ。どれ、まずは自己紹介をさせてもらおうか」

「そうだね。ささ、こちらへ座って、どうぞ」

促されるまま、貞観は示された一席に腰を下ろす。

では、と前おいて、恰幅のよい方の壮年の男性が口を開いた。

「私は、加茂真中かものまなかという。はじめまして」

そう言って加茂は、大きなおなかをぽんと叩いた。

人好きのする優しそうな顔をしているが、上座に座っているところを見ると、どうやらこの人物がこの部屋の長であるらしかった。

「私は清原玄奈きよはらのげんな

加茂と同年代と思しき、この縦に細長い清原という男性は、加茂に比べるといくぶん神経質そうに見えた。

手伝いの者が呼ばれて白湯を持ってきて、それに揃って口をつけてから、話は本題に入っていった。

「それで、今朝もらった文によると、男のこえが聞こえるとか」

白湯を半分まで減らしたところで、加茂が口火を切った。

「はい。お恥ずかしながら、昨夜、とある女人のところへ通ったのでございますが、そこで初めて聞いたのでございます。確かに『さびしい』と申しておりました」

「なるほど」

清原が、貞観の言った文言を、さらさらと書にしたためてゆく。

「そのこえは今も聞こえておるのですか」

「いえ、私は今朝がたから昼前まで眠っておったのですが、眠っておる間に消えてしまったようでございます」

「なるほど」

加茂が尋ね、清原がさらさらと、筆を進める。

「ちなみに、昨夜、女人の元へ通ったとおっしゃっていらしたが、回数自体は多いので?」

突然の夜の話題に、貞観はとまどう。

「そのようなことも、お話せねばならぬのですか」

「何がどう作用しているか分かりませぬでな」

ほ、と一声笑って、加茂は続ける。

そうして白湯がすべて飲み干されるまで、貞観の素行を含む身辺調査は続いたのであった。

「なるほど、なるほど」

一通りすべき問いをし尽くしたのか、加茂はそのように言うと、大きなおなかをぽんと一度叩いた。

清原は筆を置き、白湯に手を伸ばしている。

「そうですね、今夜、祈祷をいたしますか」

加茂が貞観の目を見て言う。

「祈祷、ですか。しかも今日――」

はい、と言って加茂はゆるりと語り始める。

「おそらく悪さをしたのは男の霊と思われます。昨夜合われた女人の邸宅から貞観様のご自宅までついてきたということですから、その男の霊は貞観様に憑いてしまったと考えるのが妥当かと思われます」

「なんと――」

清原が、白湯を飲み干した口で告げる。

「その霊を、我らの加持祈祷で取り払おう、と、まぁ、そういった塩梅でことを進めようということでございます」

「なるほど、あい分かりもうした。それでは、よろしくお頼み申し上げます」

果たして、その夜、貞観は都の陰陽師たちによる加持祈祷を受けることになったのであった。


無数の蛾が、松明の灯りに引き寄せられて、そこかしこを飛び回っている。

蝉は声をひそめ、代わりに気の早い鈴虫が、すずやかな声音を響かせている。

ぱき、と松明の中で木片の割れる音がする。

今、陰陽寮付属の東二条の屋敷では、庭先に護摩壇が設けられ、陰陽師らによって加持祈祷が執り行われようとしていた。

貞観は、四方をしめ縄で囲まれた結界の中にあって、身を清めた後、形代を手渡され、それを胸元に抱いている。

貞観の前には、加茂、清原の両名が、部下と思しき若い連中を二、三引き連れて炎の前に座している。

太鼓の音が鳴った。

加茂と清原が怒号にも似た低音の呪を響かせ始める。

若い連中も後に続く。

目の前で焚かれる護摩の炎に頬を照らされ、貞観は男の事を思った。

その時であった。

さ、び、し、い――。

男の、こえが、した。

貞観が陰陽寮の連中にそれを伝える。

思った通り、陰陽寮の連中には男のこえは聞こえていなかった。

貞観の言を受けて、呪を唱える声が一層大きくなる。

さび、し、い――。

男のこえも、それにつられてより一層大きくなっている気がした。

おぼろ――。

「おぼろ」だと?確かにそう聞こえた。

果たして、「おぼろ」とは一体――。

ぱき、と、護摩を焚いている炎の中から木片の割れる音がする。

その時である。

ごう、という炎の立ち上がる音とともに、立ち昇る黒い煙の中に、はっきりと男の姿が見えたのである。

これには、加茂や清原、若い連中も声を上げた。

彼らにも見えたのである。

異国の着物を着た男は、髪の毛を振り乱し、目にいっぱいの涙をたたえ、こちらに何かをうったえていた。

おぼろ、あい、たい――。

貞観にだけは、男のこえが聞こえている。

貞観は、聞こえている声を、逐一前方の陰陽師に伝えてゆく。

「貴兄、おぼろとは一体、何者か」

加茂が、炎の中の影に、声を張り上げてたずねる。

おぼろ、おぼろ、あいたい――。

男は、そう繰り返すだけである。

「貴兄、この者は、源貞観という。おぼろなどという者ではない」

加茂が、なおも声を張り上げて訴える。

「貴兄、あなた様の名前はなんとおっしゃる」

今度は、清原が声を張り上げて問うた。

「あなた様の名は――」

加茂や若い連中も、口々に男にその名を問う。

ややあって、煙の中の男は口を開いた。

――私の名は、こどく――。

おお、という声と共に、さらさらと記録用の書にその名がしたためられる。

「こどく殿、何故こちらにおいでになった」

加茂や清原が口々に問うが、こどくと名乗った煙の中の男の答えは雲のように形を成さない。

そのような相手との押し問答がいくらか続いた後、加茂が叫ぶように言った。

「こどくどの、ご納得されたならば、去られよ」

「去られよ」

清原の声に、若い連中の声が重なる。

加茂たち陰陽師の、呪を唱える声がいっそう高らかに唱えられてゆく。

陰陽寮と男との攻防は、その後、二時半にも及んだ。


翌朝、陰陽寮で顔を合せた加茂は、貞観に次のようなことを告げた。

「結論から申しますと、あのこどくと名乗った男と貞観様とは、前世からの因縁でございまする」

「前世からの――。本当でございますか」

貞観は目をまるくする。

「さよう。前世、何者かに引き裂かれたのでございましょう、あのような姿になってまで、貞観様を探し求めていたのでございます」

「『おぼろ』というのは」

男はたしかに何度もその名を呼んでいた。

「貞観様の、前世でのお名前にございますれば」

「なんと――」

にわかには信じがたい。

「ともあれ、これでこどく殿のこえはしばらくは鎮まりますでしょう」

そう言われてみると、そんな気がしてくる。

貞観はひとしきり礼を言って、この日陰陽寮を、京の都を後にしたのであった。


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