第二章:女人
貞観が帰宅すると、思った通り、稲が仁王立ちで待ち構えていた。
「貞観ぼっちゃん、また大学をさぼったのですか」
そう言って稲は、ほうきを逆さに持ち、なぎなたのように構えて見せる。
「ごめんよ、稲。稲の気持ちも分かるけれど」
貞観は稲の振り上げるほうきをかわしながら、奥の部屋へと引っ込んだ。
貞観の家は源氏というだけあって、大和国の貴族の中でも上位にあり、国府の近くにたたずむ寝殿造りであった。
貞観の部屋は、ちょうど東の対にあり、釣り殿の一つ手前にあてがわれている。
今の時期は、庭の池の水がとても涼やかに見える頃合いで、貞観は御簾の内でごろりと横になって庭を見やるのを密かな楽しみとしているのだった。
少し眠るから、と、家人に伝え、今日も貞観は庭に面して横になる。
今日は日差しが強いので、御簾を半分ほど下げて横になった。すると縞模様になった日の光が室内に模様を作り、文机や几帳が床に溶けてしまったように見えて、それはとても幻想的に、貞観の心をほぐすのであった。
そんな景色のただなかに横たわりながら、貞観は思う。
いったい、いつまでこの人生を生きねばならぬのか、と。
幸い貞観は、源氏に生まれついた。
源氏に生まれついたからには、食うには困らない。
災害や飢饉の話を聞くにつけ、その点では幸運な星の元に生まれついたとは貞観も思う。
しかし、それだけ――?
ただ、生きて死ぬためだけに、この永遠とも思える時間を過ごさねばならぬのか。
ただ、生きて死ぬだけのために、大学に通い、女人と歌や契りを交わし、こうして移ろいゆく景色に思いを馳せる――。
己は、ただそれだけの生き物なのだろうか――。
むなしい。
何事もそつなくこなすのが信条故に、大学の試験では良い点を取り、女人とのやりとりもそれなりにこなしてはいるが、何もかもが、ただ己の上を薄く細くすべってゆくように感じられて、ひどくむなしさを感じるのだった。
人生とは、果たして、このようなものであるのか――。
そうであるとするならば、人とは、なんと――。
深い庇で区切られた薄暗い御簾の内で、貞観はいずこかで水の音がはねるのを聞いた。
貞観は深い深い眠りの淵へとおりていった。
西三条の女御の元へは、予定通り、夕飯をとってしばらく経った宵の口に牛車を出した。
今宵は満月である。
明るい月明りが、家々を照らし、反対にそこここに濃い影をも落としている。
出がけに稲に、女人のところへ通ってくるからねぇと告げると、さっと顔を赤らめて「いってらっしゃいまし」と返ってきたのを思い出し、貞観は牛車の中でひとりくつくつと笑っていた。
「どうか、なさいましたか」
御者が不振がって尋ねる。
「いいや、なんでもないよ」
仕事熱心な御者を不必要にわずらわせるものではないと、貞観は一人、こほんと咳払いをする。
二、三度、方違えをして、牛車は目当ての屋敷の前へと到着した。
御者が門番に名乗りをあげて、牛車は大きな門の下をくぐる。
「お前はここで待っておいで」
御者にそう告げると、貞観はひとり、牛車を降りた。
真上から月明りが降り注ぎ、貞観の足元に人ひとり分の影をこしらえている。
まるで人が足元の影から浮かび上がったように見える今宵、貞観は西三条の女御を抱く。
我ながらよい夜を選んだものだ、と、貞観は一人悦に入る。
家の者に通され、貞観は西の端の、女御の待つ部屋へと歩を進めた。
やはり月明りが、庭一面を青白く染め抜いているのを見やり、貞観はどこか浮世離れした心地となる。
女御の屋敷は、貞観の寝殿造りの屋敷とは比べるべくもなく小さなものではあったが、それでも貴族に使える女人の屋敷らしく、家の者にひととおりの教育はなされているようであった。
順々に現れる彼らによって、貞観は奥へ奥へと導かれる。
「こちらへ」
女御の側仕えの者であろう、それまでの者とは一段異なる、身のこなしに品のある女人がとある部屋の前におり、几帳の向こうを指示して言うことには、西三条の女御は御簾の向こうで待っているということである。
「ごくろうさま」
貞観は月明りの届かぬ室内へと歩を進めた。
衣擦れの音だけが互いを認めるよすがである。
「しなだれの君」
ややあって御簾の中からあだ名を呼ばれ、貞観は、はいとうやうやしく返事をする。
「富子さま」
貞観は、この時はじめて相手の女人の名前を呼んだ。
間を置いて、御簾の向こうから、やはり、はいと返事が返ってくる。
それから、目の前の御簾が下からしゅるしゅると巻き上げられ、こちらへ、と促された。
貞観はそれに従って己の身を御簾の内へとすべり込ませる。
誘導されるのは好きではないが、この際それはおくびにも出さない。
果たして、畳の上に、一人の女人の姿があった。
貞観は、おもむろに女人に手を伸ばすと、その肩をそっと己の方へと抱き寄せた。
あ、と小さく声があがる。
聞こえてはいるが、貞観は手をゆるめない。
抱き寄せている方とは逆の手を、富子の顎の下に添えた。
「富子」
今一度、相手の名前を呼ぶ。
返事はない。
ただ、玉のような大きな瞳が、貞観をしっとりと見つめ返している。
その目が、ふっと閉じられる。
今まさに、貞観が富子の唇を引き寄せ、自分の唇でふさごうとした、その時であった。
さび、し、い――。
と、聞こえた。
貞観は目を見開いた。
どこかから、か細いこえがした気がしたのである。
貞観は耳をそばだてる。
何も聞こえない。
気のせいかと思い、先ほどの続きにとりかかる。
今一度、富子を抱いている腕に力をこめ、その唇を引き寄せる。
さびし、い――。
貞観は、がばと富子から身を引いた。
「富子、おぬしか?」
貞観は思わず尋ねていた。
唇を奪われると思っていたところを、いきなり身を引きはがされたのである。
富子は目をぱちくりさせて、何が起こったのか分からないという風である。
「しなだれの、君?」
富子に名を呼ばれ、貞観は己を取り戻す。
さび、しい――。
今度ははっきりと聞こえた。
富子とは違う、か細いが、明らかに男のこえである。
しかし、富子の様子を見るに、その声は富子には聞こえていないようである。
となると、鬼や
何も今宵を選ばなくとも、いや、なにもこの時を選ばなくともよいではないか。
貞観には他人事のようにそう思われた。
「めんどうなことだねぇ」
思わず口にしていた。
「まぁ、めんどうなこととは、私の事でございますか」
富子の目が険しく光る。
「違う違う。すみませぬが、今宵は気分がすぐれぬため、帰らせていただく」
貞観はそう言うと、富子の背に回していた手を袖の内に戻した。
「そんな。私に何か落ち度が?」
「いいや、こちらの問題なのだ。すまないね」
なおも取りすがろうという富子をなかば強引に引きはがして、貞観はひとり、御者の待つ玄関口へと戻ってきた。
「どうなさったんです、旦那」
心配そうにたずねる御者に、少し気分が悪いと告げて、貞観は一路、自邸へと戻ったのであった。
予定より早い帰りに起きだしてきた稲はびっくりしていたが、わずかな家の者以外は寝付かせて、貞観は明け方近くまで、今後の動きを考えていた。
その間も、男のこえは貞観の耳元で響いていた。
男のこえは、どうやら富子の屋敷から貞観の自邸までついてきたようであった。
「めんどうなことだ」
男のこえを聞き、そうこぼす貞観の姿を、空のまんまるい月が、物も言わずに一晩中照らしていた。
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