第39話 興津真知子

「ええ。実はそのお客様なのですが、問い合わせの名前と連絡先がデタラメだったのです」


 桜木さんは、「それ自体はよくある事なんですが」と付け足す。


「ただ、そのお客様の、お嬢様への態度が気になりまして。お客様は帰り際、お嬢様に、予約時とは違う名前を名乗りました。それを聞いたお嬢様の様子が異様と言いますか、動揺しているご様子でした」

「動揺? あの、伽羅奢が」


 あまり他人に興味を示さない伽羅奢。

 そんな彼女が名前を聞いただけでうろたえるような相手って、一体誰なんだ。


「それで、そのお客さんは、なんと名乗ったんですか」

「はい。『帯金おびかねの者です』と」


 桜木さんの返事に、お母さんが息をのむ。桜木さんはそのまま話し続けた。


「その後、お二人は少し何かお話されて、ご一緒に出ていかれました。あのご様子ですと、その場ですぐに解散というわけでもなかったと思います。どこかで話でもしていかれたのではないかと。……あの、奥様、大丈夫ですか」


 見れば、お母さんはすっかり青ざめていた。ハンカチで口元を押さえながら「ええ」と頷いているものの、明らかに動揺している。


「あの、帯金ってなんですか。地名?」


 俺の問いかけに、お母さんの身体が更にこわばった。答えられないお母さんの代わりに、桜木さんが口を開く。


「帯金という名前は、私も聞き覚えがあります。たしか、昔この辺り一帯を治めていた大地主の名前だったかと思うのですが」


 桜木さんがお母さんにアイコンタクトを送る。お母さんは静かに頷いた。


「そう。その通りよ。でも、今ではあまりその名前を聞かなくなったわよね」


 お母さんが珈琲を一口すする。心を落ち着けるように「ふぅ」と息を吐いて、背もたれに寄り掛かった。


「大丈夫っすか」

「ええ、ありがとう。でも、これはかなり嫌な状況かも」

「嫌な状況?」


 伽羅奢もお母さんもうろたえるような、その帯金って、どんな人なんだろう。

 お母さんは考え込むように両手で顔を覆っている。


「はあ。なんで伽羅奢に接触してきたのかしら。……帯金。もしも伽羅奢に会う事を目的として内覧に来たのだとしたら、かなり嫌よ、この状況」


 お母さんが眉をひそめる。悲痛。そんな言葉がにじむ。


「すみません。俺、全然わけわかんないんですけど、どういう事っすか」


 単純な疑問を投げかける。でも、俺の想像をはるかに超える衝撃的な言葉が、お母さんの手の隙間から漏れた。


「帯金はね、私のお母様を殺したの」


 その返事に、俺は息を飲んだ。



 興津真知子。

 啓次郎の妻であり、伽羅奢の母である興津みのりの母親。つまり、伽羅奢の祖母である。


 真知子は美人だった。

 啓次郎とはお見合い結婚だったが、他にも言い寄る男は大勢いたし、見合い話も多かった。だが、そのどれもが結婚まで至らなかったのは、ひとえに真知子の性格によるものだろう。


 言葉はきつく、我が強い。

 女らしい奥ゆかしさなんて、露ほども持ち合わせていない。

 真知子はそんな女性である。

 外見だけで見初められても、何度かやり取りするうちに男どもは真知子から離れていく。眺める分には良いが、一緒に暮らすのは御免だそうだ。


 それならそれで構わない、というのが真知子の見解だった。

 独りでたくましく生きてやる、という気概もあった。若気の至りと言われればそれまでかもしれないが、いずれ職場で嫌なお局様と言われようと、独りで強く生き抜いてやろうと思っていた。それで構わなかった。


 そんな折、啓次郎と出会い、結婚した。

 人生というのものは何が起きるかわからない。どうせこの縁談もまとまらないだろうと思っていたのに、あれよあれよという間に結婚までこぎつけてしまったのだから。

 運命とは不思議なものだ。こんな自分を受け入れてくれる啓次郎を見て、真知子は「自分にはこの人しかいないのだなぁ」と感じた。


 幸せな生活だった。

 ベストかと問われれば、そうでもなかったけれど。

 

 真知子は、外で働く事が嫌いではない。いや、家庭に入る事が合わなかったのかもしれない。

 当たり前のように専業主婦になったが、この環境がみんなが言うほど理想的かと言えば、そうは思えなかった。限られたコミュニティの中で、ただ生きているだけ。必要最低限の「家事」という名の生活行為のみが、日々繰り返されていく。代り映えのしない日々。


 つまらない。


 真知子は、自分の能力も時間も無駄にしているような気がしてならなかった。これが生きるという事なのか。汗水たらして生き生きと働く啓次郎と、ただただ何もせず最低限の日常を繰り返す自分。夫婦の生き方を比較して、落ち込む。

 人が何かに打ち込む姿は美しい。文化的で、建設的な行為だ。

 では自分は何に打ち込んでいるのか。

 何もない。ただ息をしているだけ。原始的で、知性が感じられない。動物のよう。

 自分は一体何のために生きているのだろう。

 何をしているのだろう。

 結婚生活が長くなるにつれ、真知子は惨めさを感じて仕方なかった。


 そんな時だった。真知子にとって良い話が舞い込んできたのは。

 絵の講師をして欲しい。その依頼に、真知子の胸は躍った。

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