11:呪
オートロック付きの十五階建てのマンションに
初めてあいつの家に行ったときに教わった暗証番号を入力してエントランスへ入り、エレベーターに乗る。
あいつが変なことを言ったからか、空気が重苦しい気までしてくる。それとも、本当に結羽亜の部屋になにかいるとでも言うのか。
「なあ、俺は合鍵とか持ってないけどどうやって……」
扉の前で立ち止まって、後ろからついてくるマダラにそう尋ねようとすると、あいつの腕がスッと伸びてきて人差し指が唇に当てられる。小さく歯と歯の隙間から息を漏らすように「しぃ」と言って、目を細めたマダラがモダンな作りの四角いドアノブに触れた。
あっさりとドアノブは動き、扉が開くと部屋の中に押し込められていたのであろう強烈な錆の匂いと腐敗臭が廊下まで漂ってきた。
「う゛……」
口と鼻を腕で押さえて嘔吐く俺と違って、マダラは薄ら笑いを浮かべながら部屋の奥へと土足のまま入って行った。
カツカツと足音が響いてきて、誰かがこちらへ近付いてくる。こんな匂いを漂わせたまま部屋の前にいると誤解をされるかもしれない。とりあえず部屋へ入り、俺は開きっぱなしだった玄関の扉を閉めた。
廊下にはもうマダラの姿はない。どこかの部屋に入ったのだろうか。
一人暮らしをするにはやけに広い2LDKの部屋は、玄関から入ってすぐにトイレと浴室が並んでいて、伸びた廊下の突き当たりにも洋室が二つ並んでいる。突き当たりを曲がればリビングルームに繋がっているという間取りだった。
灯りのついていない部屋は、以前訪れた時よりも薄暗くて、それになんだかじめじめしている気がする。
土足のまま歩くと、ミシリ、ミシリと古い民家のように廊下の木が嫌な音を立てる。これは、俺が過敏になっているだけなのか、それとも前回と違ってスリッパじゃなくて土足だからこんな音がするのかわからなくなる。
「リビングはハズレだ。当たりくじはどっちかの部屋みてえだなぁ」
ポケットに両手をつっこんだマダラが曲がり角からヌッと顔を出したので思わず悲鳴を漏らすと、あいつは「ひひっ」と声を漏らして唇の片側をつり上げて笑う。
「んじゃあ、手前の部屋から開けるとするか」
マダラは自分が二つ並んでいる洋室の片方の扉に手を伸ばした。細長い室内扉用のドアノブをゆっくりと下に押し、扉を奥へ押し開く。
それからすぐに扉を閉めると「ハズレ」と言ってこちらを振り向いた。
「さて、これだけ騒いでるのに部屋の主が出てこないってこたぁ……寝ているか、死んでいるか、留守にしているか……だ。賭けでもするかい?」
「……留守にしてるだけだろ。あんたと会う前にみた結羽亜は見間違いじゃなくて、ホンモノだったってだけで」
あの狭い真っ直ぐな路地裏で、一瞬のうちに姿を消したのはどういうことなのかわからないが、それでも、知っている人間が扉一枚向こうで死んでいるとは思いたくない。飾りっ気のない灰色のスウェットを着ていた結羽亜が幻で、鍵もかけずに部屋で寝ているでもいい。
「さて、正解はどうでしょう……っと」
強烈な腐敗臭と錆の匂いだって、きっと何かの間違いで……。
マダラがドアノブに手をかけて、さっきと同じように扉をゆっくりと押し開いていく。部屋から噴きだしてきた強烈な腐敗臭が答えを示していた。
ぐぐっと胃が熱くなり喉元から苦みと酸味が込み上げてくる。それを必死で飲み込んで、マダラの方へ視線を向ける。モノクロのスニーカー、黒のデニムパンツ……それから青みがかった灰色のカットソーと……その奥には。
「っ……」
カーペットは赤黒く染められている。強烈な鉄臭さと腐敗臭で目が痛くなって、涙がぽろぽろと溢れ出てくる。
口元を抑えながら目を逸らしても、虚ろな目をして壁に背中をもたれかけている結羽亜の姿が頭から離れない。
さっき街で見たような地味なスウェットを着ていた彼女の体には何か巨大な生き物に噛まれたように無数の穴が空いていたように思えた。
落ちている腕、ばら撒かれた内臓らしきものは詳細を見ていないけれど、結羽亜の体がどんな無惨な状態なのかを想像するには十分すぎる物だった。
「もぬけの殻……ってわけでもなさそうだ」
マダラがなにか言っているのが聞こえる。悪習の中でなんで平気な面をしていられるのかも、死体を見ても怖じ気づかず、更に死体の様子をまじまじと見ていられるなんて信じられない。
早くここから出たい。それだけ考えながら、俺は廊下から動けないでいた。
「ああ、全部食べきれなかったんだね。贄が足りなかったか」
高熱を出したときのような悪寒が全身を駆け巡り、すぐ背後から見知らぬ声が聞こえた。
先ほどまでは物音一つしなかったのに、筆のような物で床を撫でるような妙な音とひたひたという素足でフローリングの床を踏む音がする。
扉が開く音はしなかった。なのに、なぜ。
「人の形をした呪い……か。あんた、何をした?」
「僕は可愛い可愛い妹のために食事を用意しているだけだよ」
穏やかで柔らかな雰囲気の声だった。この腐臭と血なまぐささに満ちた暗い部屋には似付かわしくないほどに。
結羽亜の死体を見ないように気をつけながら声のした方を振り返ると、床を引きずるほど長い黒髪のひょろっとした男が立っていた。黒地に白いラインの入ったジャージに素足という出で立ちだけ見たら、ここに住んでいると言われたら信じてしまいそうなほど普通の格好だ。
「……君は」
マダラとにらみあうようにして立っていた男は、首だけを動かす妙な仕草でこちらを見る。スッとどこか機械的な動きでしゃがみ込んだ男は、少し力を込めて握れば折れてしまいそうなほど細い指で俺の顎を掴んで顔を近付けてきた。
「贄になるのを逃れてしまったんだね、可哀想に」
黒目の中が蠢いている。無数の小さな虫が黒目の中に閉じ込められているのだと気が付いて全身が粟立つように鳥肌が立ったのがわかった。
男が大きく開いた口を反射的に視線を向けると、喉の奥から鋭い顎を持つ昆虫が頭を覗かせている。
「喰われるなよ」
襟首を掴まれて身体を思いきり引っ張られた。マダラが俺の体を妙な男から引き離してくれたのだと背中を壁に打ち付けられてから気が付く。
あの細腕から成人男性をぶん投げるほどの力があると思わなくて驚きながらも、ようやく我に返った俺は背中をさすりながら立ち上がった。
「なんなんだよこいつ」
「聞けば自己紹介くらいはしてくれるんじゃねぇか?」
音も無く立ち上がった男は、無表情のまま俺とマダラの会話を聞いたのか、急に張り付けたような笑顔を浮かべてこちらに向かって頭を下げた。
「ふふ……僕の名前は
「清野ちゃんの……兄貴?」
清野ちゃんが言っていた「お兄ちゃんとお母さんが大変でね」という言葉を思い出す。大変ってのは兄貴がサイコ野郎だからってことなのか?
「君は妹とまぐわり、契りを結んだ」
「こいつはオレの予約済みでねぇ。残念だが諦めてはくれねえか?」
「……
マダラと陽景が話し合っていたと思ったら、陽景が思いきり前に踏み込んだ。ダンっと強く音が鳴り、髪の毛が別の生き物のようにふわりと舞った。マダラの珍しく慌てた声が少し遠くで聞こえて、壁に押しつけれた俺の首に髪の毛がまとわりついてくる。
陽景が再び大きく口を開いて、喉奥にいた虫がずるりと体を前進させる。先端が大きく湾曲した顎の内側には鋭い棘が生えていて、大きく開いた顎が俺の喉に向かって閉じる。
もうだめだと目を閉じたのと同時に、肉がやけるようなジュッという音と共に急に体が自由を取り戻した。
喉が開放されたと同時に空気が入ってきて咳き込んでいると、陽景が後退りをして口元を抑えていた。
さっきまで無機質に見えた真っ黒な瞳には、明確に怒りの感情が浮かんでいるのが見てとれる。
「逃げるぞ」
陽景を突き飛ばしたマダラが俺の腕を掴んで走り出す。足がもつれて転びそうになりながら、俺も必死で駆けだした。すれ違った人たちが奇妙な目で見ていたけれどそんなことを気にしている余裕はない。
非常口を開いて階段を数階下ってから、俺たちは立ち止まった。喉が痛い。肩で息をしながら、俺は同じように息を荒げているマダラへ目を向けた。
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