8:刻
今日は清野ちゃんが墨を彫る日だというから、付き添いでもしようと思って休みを取っていたのに欠員が出て仕事を休めなくなった。清野ちゃんが彫った墨をすぐに見たかったのに……と思いながら仕事をこなす。
欠勤は
結羽亜のことだから、二日酔いかなんかで起きられなかったってところだろうな。でもよりによって今日休まなくてもさーと不満は少しだけ募る。
清野ちゃんが家に来てから、あいつとの付き合いも減らした。昨日の電話でもうるさかったし、拗ねて飲みに出掛けて飲み過ぎたみたいなことなんだろうな。しょうがないやつ。
休憩時間に、清野ちゃんからの連絡を確認する。絵文字もスタンプも使わないシンプルな文章で「タトゥー、入れてもらってきました」とだけ書かれていた。それに対して「直接見たいから、写真送らないでね!」と返信すると、またそっけない感じで短い返事が返ってくる。
どのくらい痛かったのかとか、どんなデザインにしたのかは帰ってから聞いてみよう。
「ただいま」
部屋の扉を開くと、嗅ぎ慣れない匂いがした。少しの鉄臭さと消毒液の匂い。それから「おかえりなさい」と言ってくれた彼女の姿を見て、墨を彫ったからかなと納得をする。
俺のパーカーを着てちょこんとベッドに腰掛けている清野ちゃんは、そわそわと落ち着かない様子で俺の方をじっと見ている。
手には見慣れない古ぼけた金属製の箱を持っていたけれど、それはすぐに背中の後ろに隠してしまっていた。ちょっと良い来客用のお菓子が入っている軽い缶の箱みたいなやつ。
清野ちゃんはほぼ着の身着のままで家に転がり込んで来たから、彼女の私物は珍しい。バイト先に置いてあったものを持ち帰ってきたとかなのかな。まあ、でも今はそんなことよりも聞きたいことがあるから後回しだ。
「墨、どうだった?」
「宇田川くんには、見て欲しくて」
座ったまま、立っている俺を上目遣いで見た清野ちゃんは、パーカーのジッパーを下ろしていく。
露わになって最初に目に入ったのは鮮やかな赤色をした牡丹の花だった。デコルテあたりから右腕にかけては、相変わらず雑然と丸くて小さな火傷の痕が並んでいる。
「きれいじゃん!」
「いっきには無理だからって、とりあえず左腕の肩から手首にかけて彫ってもらったの」
清野ちゃんはそう言いながら、
「は?」
「私もよくわからないんだけど、そういうことだって」
俺の声で彼女が身を竦ませると少し申し訳ない気持ちになる。でも、これは仕方の無いことだと思う。
左腕全面に彫ったのなら安くても十万程度かかるだろうなと思って目を通した領収証には「二万円」と書かれていた。それは、前回見せに預けた予約のための預かり金の金額だ。
「安いのはいいけどさ」
理由がわからなくて気持ち悪い。先日スタジオにいたマダラとかいうキレイだけど非常に胡散臭い男の顔が脳裏に浮かんでくる。
あいつが関わっているような気がするけれど、特に確証も証拠もない。次にスタジオに行くときに杭を問いただしてみよう。
「あ、そういえばアリジゴクは」
今いないやつのことや、今わからないことは深く考えていても仕方が無い。気持ちを切り替えて、清野ちゃんの入墨に目を向ける。
「アリジゴクだけだと、傷痕がうまく誤魔化せないかもって提案してもらって……ここに」
キレイさに目を奪われていたけれど、よく見て見ると牡丹の花びら部分にうまくタバコを押し付けられた火傷が溶け込んでいる。花びらに水滴が描かれている部分もよく見ると輪郭部分に火傷痕が用いられていて、確かにこうしてしまえば傷痕に目が行きにくいなと、杭の仕事ぶりに改めて感心してしまう。
真っ赤な花びらが水滴に誘われて零れるように肩から手首の方へ落ちていく様子と、上で咲いている牡丹をみあげるように赤紫に近い色で描かれたアリジゴクが彫られていた。
「名前と違ってかわいいじゃん、アリジゴク」
「そうなの。アリジゴクってね、幼虫なんだよ。一生のほとんどを巣の底ですごすけど、蛹になって羽化をして最後の一ヶ月だけは空を飛べるんだ」
虫の話をするときだけ、彼女の乏しい表情が花開くようにほころぶ。頬を少し赤らめてアリジゴクの話をする清野ちゃんの様子は、言葉を聞いていない人が見れば昔好きだった人の話をしてるのかなって思われそうだなって思った。
「私の家ね、ちょっと変わってて……お兄ちゃんとお母さんが大変でね」
言葉が目に見えるものだったとしたら、彼女のふっくらとした桜色の唇から言葉のつぶが零れ落ちているように見えるんだろうな。そう思うくらい突然、彼女が小さな声で話し始めた。
「それで、お父さんは介護とか病院の付き添いとか仕事で忙しくって……私が一人で遊んでいるときに、よく面倒を見てくれた人がいたの。その人が私に色々と教えてくれてたんだ」
こちらを見ているけれど、その視線は俺を捉えていないことがわかった。
彼女は遠くを見ながら、頭の中にある記憶を手で一つ一つ丁寧に拾い上げるようにしながら言葉を重ねていく。
「ずっと忘れてて、それで、一昨日、急に思い出したんだ」
「へえ、その、よかったじゃん」
一昨日、カウンセリングのために杭のスタジオに行った日か。またうさんくさい男のことを思い出して、不機嫌そうな顔になったのを慌てて誤魔化した。
「わけのわからない話をしちゃってごめんね。でも、宇田川くんは私に良くしてくれたから話したくて」
清野ちゃんの真っ黒な瞳の焦点が俺に戻ってくる。珍しく口の両端を持ち上げて明確に微笑む清野ちゃんは、今までの彼女とは別人みたいに思えた。
広げられた両手に迎え入れられて、その先に見える細い体の割に大きな胸の谷間に誘われるようにして吸い込まれるように体が引き寄せられていく。
花に誘われる蝶みたいだなって思ってから、自分をそんな上等な存在に例えることの馬鹿らしさに苦笑する。
「宇田川くん」
唇を触れあわせ、舌を絡め合わせる。ほんのりと甘い匂いの後に少し遅れて舌に痛みが走る。血の味が口の中に広がって、彼女に歯を立てられたんだなって思ったけれど、痛む舌の傷口を撫でられるように彼女の舌が押し付けられてよく分からないくらい気持ちが高揚していく。
痛いくらい張り詰めている自分の下半身に驚きながら、俺たちは空気を求めるために同時に顔を離す。枕元にあるスイッチで部屋の灯りを薄暗くして、清野ちゃんをベッドの上に押し倒した。ベッドの上に広がった黒くて長い髪を踏まないようにしながら手をついて彼女の頬を撫でる。
「蟻地獄って英語でなんて言うか知ってる?」
暗闇の中でも爛々と光る彼女らしくない視線は、俺の胸元の蝶に向けられていた。
「知らない。なんで?」
「私を殺したくなったら、この答えを覚えておいてね」
「そんなとき、来ないと思うけど」
彫りたての墨の表面を指でなぞると、彼女が控えめな嬌声をあげた。
衝動が止まらなくなる。汗ばんだ肌に張り付いた髪、上気して赤みを帯びた白い肌。
そんなときは来ないと口では言ったけれど、嗜虐的な気持ちを煽る彼女に溺れてしまったら、確かにそんな日が来てしまうのかもしれないな。彼女の服を剥ぎ取りながらそんなことを考える。
俺は、花に誘われた蝶なんかじゃなくて、アリジゴクに捕らえられた虫なのかもしれないな……なんて思いながら、十分に湿り気を帯びている彼女の秘部に自分自身の熱を挿入しながら、両手を広げてハグを求めてきた彼女を抱きしめた。
肩に刺すような痛みが走る。彼女が噛みついてきたんだとわかった。そういう趣味はないはずなのに嫌な気持ちはしなくて、むしろ気持ちが更に昂ぶる。だから、返事をする代わりに彼女の奥を思いきり突いた。
「宇田川くん、ごめんね」
嬌声に混じって聞こえた謝罪はなんに対してのものなのかわからなくて、それよりも目の前にいる哀れで美しい女を組み敷いている高揚感に呑まれる快楽に抗えなかった俺は適当に「いいよ」って返事をしてひたすら彼女と交わった。
記憶が曖昧になって泥のようになって眠ったあと、ふと「墨を彫った日に激しい運動はダメだったよな」なんて目を覚ました時、横で寝ているはずの彼女の姿はなくなっていた。
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