孵化

宇田川 樹

7:厄

「で、本当にカウンセリング始める? 別に親御さんの許可がいるような年齢じゃないと思うけどさ、あとからは消せないものだから揉めても責任は持てないよ」


 タトゥースタジオの一室で、清野ちゃんに話しかけているのは俺のモルフォ蝶を彫ってくれた彫り師だった。

 短い黒髪はパーマでも当てたような無造作ヘアに見えるけれど天然パーマらしい。

 数日前から俺の家に転がり込んで来た清野ちゃんは、なにやら事情があるらしく家には帰れないらしい。なんとなく理由は察しているけれど。


「あの、はい……大丈夫、です。その、お金は……分割とか」


「俺が払うからいいって。な、コウ金の面はそれでもいいだろ? ニコニコ現金払いってな!」


 俺はそう言って最初に下ろしておいた十万円を杭に手渡した。何を入れるのかわからないけれど、それなりに広範囲になるはずだ。勝手に金を出してくれるが多いおかげで、年の割には金に苦労をしていないと思う。


「それならいいけど、今日いきなり彫るようなことはしないから。考えが変わったらいつでも辞めていいからね」


 杭は受け取った札束から二枚ほど抜き取ってから俺にそれを返してきた。


「カウンセリングとデザインは無料。で、これは次回予約の預かり金。じゃ、話をするからイツキは部屋の外で待ってて」


「清野ちゃん、セクハラされたらちゃんと大きな声を出すんだよ?」


「はいはい。じゃあさっさと出てけ」


 不安そうに視線を泳がせる清野ちゃんを安心させるために軽口を叩いてから部屋を出る。杭は手の甲をこっちに向けて「しっし」とやってきた。

 あいつとは出会ってまだ一年も経っていないけれど、いいやつなのはわかってる。俺なんかよりもずっとずっといいやつだけど、全身墨塗れなので誤解されがちだ。


「にしても、厄介なことに巻き込まれそうかなー」


 自分で考えても変だと思う。たかがバイト先にいた女を家に誘い込んで、体の関係を持ったわけでもなく、こうして世話を焼いているなんて。

 清野きよの 芽依めい。最初にバイト先に来たときから、変わった女だなって思った。

 顔だけは綺麗なのに自信が無い。卑屈というまでではないが、おどおどしていて嗜虐的な気持ちを煽ってくる。

 白い肌に映える真っ黒な髪といつも絶望を抱いているような昏い瞳は、一定の趣味を持つやつらからしたらたまらないものだと思う。

 軽いメンヘラってやつだ。仕事以外は長袖を着ているのも気が付いていた。きっとリスカかなんかしてるんだろうなって思っていたら、その予想は外れてしまったけれど。

 バイト先の同僚であり、遊び心で体の関係を持った佐倉さくら 結羽亜ゆうあがした加害により、彼女の体には無数の円形の火傷痕があることがわかってしまったし、鎖骨の下や胸元にまで広がっているそれはおおよそ自分でやったようには見えなかった。

 一発くらいやってもいいかなーとは思うんだけど、清野ちゃんは儚げで、下手に触ったら潰れてしまいそうな危うさがあってなかなか手を出せなかった。

 結羽亜みたいに別にちょっと気性の激しいメンヘラを抱くことに躊躇はなかったし、包丁でも持ってきて刺されでもしたら面白いなって思うくらいだったのに。

 スタジオには色々な人が来る。どうみてもそっち系の人、バンドをしてそうな人、普通のサラリーマンみたいなおじさん……。

 それぞれのスタッフや彫り師さんに案内されて個別のブースに入っていく。時々呻き声みたいな声がマシンの低音に混ざって聞こえてくる。厳めしいおっさんもやっぱり彫るときは痛いんだななんて思っていたら、場の空気が一瞬だけ肌寒くなった気がした。


「……へぇ。いるじゃん」


 扉が開いて入ってきたのは、真っ黒な髪を三つ編みにして首元が大きく開いたカットソーを着ている美しい男だった。大きな入墨を入れているんだろう。胸元から首筋にかけてトライバルっぽい模様が見えているし、右手にも和彫りっぽい赤い花が裾から顔を覗かせていた。

 お香に似たちょっと粉っぽい匂いを漂わせながら入ってきたそのやけに綺麗な男は、俺の方を見て切れ長の目を細めながらそう呟いた。

 今流行っている小さめの丸サングラスをかけているからわかりにくいけれど、カラコンでも入れているのかその瞳の色は猫の目みたいに瞳孔が細くて金色をしている。


「あの、お待たせしました」


 あまりにも現実離れした男に見惚れている間に、清野ちゃんが杭と一緒にブースから出てきていた。

 彼女の手にはB5くらいの紙が握りしめられていて、そこには茶色い小さな体に不釣り合いなくらい大きな顎を持った昆虫の絵が描かれている。


「俺が得意なのは花とか植物だから、別の彫り師に担当してもらっても」


「杭がいいと思うよ、オレは」


 杭の話を遮るようにして、やけに綺麗な男が話しに割り込んできた。そいつは清野ちゃんと杭を見比べながらニタリと笑うと、細い顎を自分の右手でさすりながら「杭は腕のいい彫り師だからさぁ」と取って付けたように付け加えた。


「だ、誰ですかあんた」


「杭の客。推し彫り師を布教するのは当たり前だろ?」


 人を食ったような話し方をする人だなと思った。

 俺も背は高い方だけどそれよりも高い妙な男は馴れ馴れしく杭の肩に腕を乗せて体重をかけるようによりかかる。それから、清野ちゃんへ頭の天辺から爪先までを品定めでもするように視線を向けた。


「……間に合うかねぇ」


「さっきからなんなんですか」


 ボソッと呟いた言葉がなんだか妙に頭にきて、初対面の男に食ってかかるような物言いをしてしまった。けれど、そいつはそういうことには慣れているのか、ヘラヘラとした表情を変えないままこちらを向いた。


「いんや。こっちの話。なんにしても早い方が良い。こいつは人気があるから早めに予約を入れないといけねえよ」


 杭はこういう無礼な人には注意をしてくれそうだったが、特に何かを言う様子はない。ただ、眉間に皺を寄せて大きな溜め息を吐いたので問題が無いと思っているわけではなさそうなのがちょっとした救いだった。


「どうだ? なあ、杭、最短で予約が出来るのは」


「明日は無理だ。……明後日」


「じゃあ、そうしよう。なあ、そこのお姉さんもそれでいいよなぁ?」


「あの……は、はい」


 トントン拍子に物事が進んでいく。押し切られるようにして清野ちゃんまで承諾をしている。この男に場を掻き回されるのは良くないんじゃないか。

 スマホを開いてスケジュールを入れ始めた清野ちゃんの手をそっと握って彼女と目を合わせる。


「ちょっと……清野ちゃんもそれでいいの? もっと考える時間とか欲しくない?」


「大丈夫、です。あの……長く宇田川くんのお家にお邪魔するわけにもいかないし、その、入墨を入れたら一回家にも帰ろうかなって」


「そ、そっか……。そうだよな。ごめん」


 もっともなことを言われて我に返る。確かに、彼女がずっと俺の家にいるわけにはいかないし、途中で彼女の親がバイト先に押し掛けてきたりして入墨を彫る前に連れ帰られてしまったら台無しだ。

 傷痕を生まれ変わらせて、コンプレックスを減らそうと勇気を出して行動した彼女の計画を諦めさせたくはない。

 よくわからないが結果的には清野ちゃんのためになったなら……と思い直し、俺は急に割り込んできた男に頭を下げようとした。

 その時、急に目の前に片手と共に小さな紙を差し出されて面食らう。


「おせっかいしちまったお詫びに、困ったらお兄さんが力になってやろう。一回だけな」


「は?」


 名刺には、便利屋 マダラと大きく書かれている。下の方には小さくなんらかのIDらしきものが本当におまけ程度に記されているだけのシンプルな名刺だ。それが逆にめちゃくちゃに胡散臭い。


「恋のまじないから失せもの探し、悪霊祓いなんでもござれ。便利屋マダラでございやす」


 まるで演劇の登場人物のような口調でそういった男は、片手を胸の前に折り曲げながらうやうやしく頭を下げる。

 肩に乗っかるようにして後ろに流れていた三つ編みが、前に垂れてきて赤い組紐が揺れる仕草までもが絵になっていて腹が立つ。


「詐欺師ってやつ?」


「ひっひっひ……似たようなもんだ」


 捻り出した精一杯の皮肉でも、こいつのヘラヘラとした表情は崩せないらしい。

 マダラと名乗った男はそう言って肩を揺すって笑うと、杭の肩を抱きながらブースへと入っていく。

 杭はブースに入る前に少しだけ顔をこちらに覗かせてから「悪いな」と口パクで行ってくれた。

 きっと何か事情があるんだろうと納得して、俺は清野ちゃんと共にスタジオを後にした。


「ありがとう」


 帰り道、清野ちゃんは俺の指を握りながら囁くようにそう言った。静電気のように一瞬だけ指に刺すような痛みが走る。けれど、そんなことよりも清野ちゃんが自分から俺に触ってくれたことがうれしくて、顔がにやける。

 ペットショップで買ったハムスターがようやく自分の手からおやつを食べたような、そんな感覚が近い。


「そういえば、さっきの絵、何? 妖怪か何か?」


「蟻地獄」


 内気で気弱な清野ちゃんの口から似つかわしくない単語が出てきたことに驚きながらも、彼女が好きなものなんだろうと思って俺は彼女と話を合わせることにした。

 蟻地獄。言葉だけで聞くと恐ろしい言葉だなと思う。

 彼女は、自分の事を蟻地獄へ落ちた蟻だと思っているのかなんてことを思い浮かべたけれど、流石にそれを聞く勇気は出なかった。

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