反逆児アトラス ~絶望の大地アトランティス~

塚越広治

第1話  アトラス 仮面の王子

 早朝の空がよく晴れ渡っていて果てがなく、雲1つ見えない。意識しなければ分からないほどのそよ風が、草の香りだの蜜蜂の羽音だのを運んでいる。大気の底に僅かに残った朝霧が草の露に凝結する音さえ聞こえそうだった。

 ここはアトランティス大陸から東に百ゲリアばかり離れた島である。現代の単位で言えばアトランティス本土から80km離れ、本土は水平線の彼方で見えない。南北320km、東西90kmのルージ島本島と、その南部のヤルージと呼ばれる島があり、2つの島の島民は海神の血を引くという伝説がある。

 本土から離れているために、人々は政治の情勢に疎いのだが、同時にどろどろに粘るような混乱に巻き込まれずにいる。


 アトラスは草むらに手足を延ばして寝そべって、身動きしない。時折、僅かに微笑む口元以外は凍り付いたように動かず、目もつむったままだった。彼は全身で光や風や色や香りを味わっているのである。そんな姿は、まだ無邪気さを残す少年の姿にも見える。

 突然、彼は苦笑いを浮かべて呟いた。

「無粋な」

 蹄の音がしたのである。剣の鞘が鞍と触れ合う音もする。彼の馬が全身で主人の帰りを督促しているのだった。彼は身近にあった木の枝を支えに立ち上がった。その表情が固い。王子アトラスは軍人の歩調で歩き始めた。もう、先ほどまで味わっていたものを踏み潰している事にも気づいていない。

「アレスケイア」

 彼はなだめるような口調で愛馬の名を呼んだ。その背に乗って薄暗い潅木の林を抜けると景色は開けて、海に長く突きだした岬になる。見晴らしの良い岬から、砂浜の向こうを見ればこの湾を形作るもう一つの岬がある。沖合に漁場を抱える良港でもあり、砂浜から少し奥まった場所に漁師たちの住まいが点在する。波の音にかき消されて届かないが、荒くれの漁師たちが潮風に灼かれただみ声を掛け合いながら、幾捜もの船を出す光景が広がっている。

 アトラスはそんな光景を、感情を交えずに眺めた。漁師たちの指揮を執るかのようなひときわ長身の若者が目を引く。名をロユラスという。兄だと感じたことはないが、少なくとも自分より父親の愛情を受け、そして、その愛情を拒絶している若者である。

 アトラスは硬い表情のまま、手綱を引いて向きを変えた。両足で愛馬の腹を蹴る前に、アレスケイアは主人の意図を察したように駆けだした。


 軽く十分ばかり駆けて、アトラスはルージの王都バース市街を抜けて、王城の門をくぐった。王城とはいえ、現代の我々の目から見れば、王族が居住する大きな館を塀と堀で囲った程度のものである。彼は館の回りをぐるりと駆けて厩の前に来ると、荒っぽく馬を降りて手綱を厩係の小物の手に渡した。アレスケイアはまだ運動が足らないと言うように首を振っている。

「あら、元気の良いこと。さすがに、野蛮人(タレヴォー)を蹴散らしたオスロケイアの血筋だわ」

 アトラスが振り向くと、彼の妹ピレナが笑っている。オスロケイアとは彼らの父のリダル王が遠征先で生死を共にした軍馬の名である。

 彼の愛馬が父の馬と比較されるところに、今の彼の立場が象徴されている。勇猛さをもって知られるリダルの息子として生まれながら、何ら実績を示す機会がない。王の館の中にあって、人々が彼をリダルの息子として見る視線が、幼い頃から彼の劣等感を刺激してきた。それに加えて今一つ、人々も口にしようとしない理由がある。アトラスが浜辺で見かけたロユラスの存在である。

 アトラスはその思いを振り払うように妹に笑顔を向けた。

「女は、戦乱にあっては、夫や子供を失うと嘆くくせに。平和な世にあっては、武人の精神が信じられぬと嘆くのか」

 アトラスはそんな言い方で返事をした。

「ごめんなさい」

 ピレナは子供らしい素直さで兄に詫びながら、兄のしかめっつらを可愛いと思った。彼女は時折そうやって人の心を試そうとする。

「お兄様が出かけてすぐにね、お父様からの使者が着いたの」

 彼女はアトラスを導くように寄り添って歩きながら言った。アトラスは黙りこくったままだ。

「お兄様に、聖都(シリャード)へ来なさいって」

「それが?」

「きっと、アテナイ討伐の軍を起こすのよ」

 アテナイという言葉が、ピレナのような政治に疎い娘の口を突いて出るほどアトランティナの間で蛮族の象徴として、アトランティスを抑圧する勢力の象徴として使われる。長い外征で国力を損耗したアトランティスは、その聖地に占領軍としてのアテナイ軍を受け入れることを条件に講和した。その占領軍は僅か二千である。彼らにとって屈辱的な事だが、その兵を攻め滅ぼせば、東の大陸から数十万の遠征軍が攻め寄せて来ると言われていた。国力を疲弊したアトランティスは抗うことも出来ず、大地は戦火に見舞われるという恐れを抱いているのである。

 考えてみればおかしな話で、十数年前、彼らアトランティナは新たな領土を求めて海外に攻め寄せ幾つもの戦を戦った。最初は勝者の立場から戦に負けた。今はわずかな敵軍にアトランティスの心臓とも言える聖域を占領されて我が物顔に振る舞われているのである。その点、ピレナは無邪気だった。

「多分、お兄様も軍を率いて、蛮族と戦うの。素敵だと思わない?」


 客間に入ると、母親の王妃リネと彼女を取り巻く侍女の姿が目についた。アトラスは妹のおしゃべりを制して母親に挨拶をした。

 ヴェスター国の貴族が王の館を訪れた折りに、秘かに「女の館」と称したことがある。館に住む女たちの実権が強く、些細なことにまで政治に口を出すという意味である。その頂点がアトラスの母リネだった。

 雰囲気から察するに、重要な知らせをもたらす使者らしい。その顔にはアトラスにも見覚えがある。父に古くから仕える老僕で、その名をコロシスという。そのコロシスの通された部屋が王妃と侍女団で固められているのも、女の館の状況をよく表している。

「アトラス、おお、アトラス」

 リネは息子の名を叫んだ。コロシスは口上を伝える本当の相手に気づいて、片ひざを床について、右手を胸に当てる挨拶をした。次いで口上を述べようとするコロシスに、リネはその言葉を制するように言った。

「アトラス。シリャードの父上からのお召しじゃ。いよいよ、アテナイ討伐の軍を出すのに違いない」

 侍女たちは口々にリネの考えに賛同し、その際のルージ軍の勇敢な様相や、それを率いるリダルやアトラスの姿を口にしてリネの歓心を買おうとしているようでもある。リネとその侍女団、妹のピレナはアトラスより先に口上を聞き出していたものらしい。アトラスは少し不快なものを感じたが、その母親を制して、ひざまづいているコロシスに向かって命じた。

「口上を続けよ」


コロシスの口上は要約すれば、さきほどから妹ピレナや母リネの言うように聖都(シリャード)に赴いている父が、彼を呼び寄せようとしているのだ。ただし、アテナイ討伐軍というのは彼女らの推測だろう。兵を挙げるとすれば、兵を集めるべく地方の領主にふれを回しておかねばならないがその指示がない。

 リダルは息子に数人の近従とともに聖都(シリャード)に来いと言っているのみである。目的も何も告げずにただ来いと言う。

 アトラスはこの一室の様子を見ながら、父が息子の召喚の目的を告げない理由が分かるような気がした。

 しかし、アトラスにとって目的が不明であるにせよ、聖都(シリャード)の地はひどく魅力的なもののように感じられた。自らの力量を示したい若者にとっては、アトランティス最大の都市でありアトランティスの中心地であるそま都市は、かっこうの場所のように思われた。そしてこの思いは、聖都(シリャード)に着くまでの間、アトラスの中で、希望や期待や不安や焦りを加えて膨らんで行くのである。この館では彼は好奇心豊かな少年の心を捨てて、武人の仮面をかぶり続けている。今のアトラスの表情はその仮面が幾分ずれて、期待に満ちて少年のような晴れやかな表情をのぞかせていた。


 ラクトの月15日に、アトラスはバースの港を出港した。アトランティス本土に着くのは4日後、そこから陸路ルードン河に沿って遡り、聖都シリャードに到着するのは7日目の朝である。

 アトラスは懐にしまっていた袋の口を開けた。一粒の真珠が入っていた。形はやや歪だが水の滴の形にも見え、美しい光沢とともに月の女神(リカケー)の涙と称されていた。アトラスの妹ピレナの持ち物だった。

「お兄さまのお眼鏡にかなった女性に、そして私の将来のお義姉さまに」

 ピレナはそう言って、大切な宝物を兄に託したのである。そう言った辺り、利発なピレナは、兄がアトランティス議会の父の元に召された理由が政略結婚だと気づいていたのかもしれない。

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