君の名は

如月姫蝶

君の名は

 安倍曇暗あべのどんあんには三分以内にやらなければならないことがあった。

 陰陽師として、恩人に取り憑いた悪霊の真の名を言い当てることである。


 その日、曇暗は、助けを求める電話に応じて、翁天河おきなてんがの自宅へと急行した。

 天河は、曇暗の父親ほどの年頃であり、非常に腕の立つ霊媒師だ。その身に自在に他者の霊を降ろして、代弁者となってくれるため、陰陽師である曇暗の仕事を助けてくれることもしばしばだった。まさに恩人である。

 しかし、数年前に病に倒れて以来、言葉を発することもままならず、自宅でほぼ寝たきりの生活を余儀なくされていた。

 

 曇暗が現場に到着した時、天河は、ベッドに仰向けとなっていた。

 彼に電話を寄越したのは、天河の弟子である。

 今日になって急激に容態が悪化した、悪霊の仕業ではないかと、曇暗の傍らに立って、改めて証言したのである。

「その通り。一目瞭然ですね」

 曇暗は頷いた。

 次の刹那、天河は、弱々しく喉を掻き毟りながら、大きく体を仰け反らせた。そして、彼の喉元には、黒々とした圧迫痕が出現したのである。形状からして、人の両手によるものだろう。

 それは、陰陽師なればこそ視認できる……といった類いのものではなく、霊感とは無縁の常人の目にも映るほどの確固たる代物だった。

「このままではマズイ。天河さんがじわじわと窒息させられてしまうのがオチです」

 曇暗は眉を顰めた。悪意に満ちた霊的存在が、彼の恩人を締め殺そうとしている。緊急事態であり、せいぜい三分ほどしか猶予がないものと思われた。

 しかし、曇暗ほどの陰陽師には、打開策があった。悪さをしている霊の、真の名を言い当てることさえできれば、そやつを天河から引き剥がすことができるはずだ。

 悪霊の名前がわかりさえすれば……


翁羽衣おきなういちゃん、お父さんから離れなさい!」

 曇暗は一喝した。三分どころか三秒を切る早業だった。

 この場に常人が居合わせたとしても、天河の首の痕を認めるのみだったろう。しかし、曇暗の眼には、空中から逆さ吊りのごとく上半身を生やして、天河の首をギリギリと締める女の姿が、半透明とはいえはっきりと映っていた。

 それは、天河の一人娘であり、曇暗の幼馴染みでもある、羽衣だった。

 天河が病床に伏して以来、献身的に介護していたが、三日ばかり前、過労で倒れてしまい、現在入院中なのである。

 本来は優しい性格の彼女だが、おそらく無意識のうちに、こんな生き霊を飛ばしてしまうほどに疲弊していたということだろう。

 曇暗は、羽衣の苦労をしみじみと思いやった。名を呼んだからには、凶行を中止して、天河から離れてくれるはずだと高を括っていたのである。


「あのう……師匠の顔が、ますます土気色なんですけど……」

「一目瞭然ですね。でも、おかしいな……」

 天河の弟子に指摘されて、曇暗は、顎の先をつまんだ。

 眼前の生き霊は、真の名を呼び当てられたというのに、全く聞いちゃいないとばかりに、今も父親の首に両手を掛けたままである。当然、状況も悪化の一途を辿っている。


「まさか、本名が真名ではないパターン!?」

 曇暗の面に、焦りの色が浮かんだ。

 時として、戸籍に記載された本名が、霊の真名として機能しないことがある。芸名や、源氏名や、同人誌用のペンネームこそが、真名としての力を秘めていた事例を、曇暗もこれまでのキャリアの中で何度か経験したことがあった。

 果たして、羽衣にとっての真名とは!?


「あのう……お嬢様のSNSのアカウントなら、俺、わかりますけど」

 天河の弟子は、眼鏡をクイッと上げながら、もう一方の手でスマホを差し出した。

 そこには、「婚勝女子」と表示されており、「こんかつじょし」と読ませるらしい。

「確かなのですか?」

「そりゃあもう! 俺が匿名でプレゼントを送り付けたら、その写真を上げてくれちゃうような、脇の甘いお嬢様なんで、特定できちゃいました!」

 弟子の眼鏡が、キラリと輝いた。

 以前、羽衣は、彼について、天河の弟子とは名ばかりの雑用係なのだと、曇暗に耳打ちしたことがあった。確かに、霊媒師などよりストーカー……いやいや、探偵などに向いている人材かもしれない。

 しかし、それはさておき、今は急がねば!


「婚勝女子よ、やめなさい!」

 曇暗が呼ばわると、羽衣は、ビクリと双肩を震わせた。かと思うと、虚空に逆さ吊りさながらに存在していた上半身が、ズルズルとずり落ちて、まるで父親を庇うかのように、その体の上に覆い被さったのである。

 彼女の両手は、天河の首から、ついに離れたのだった。


 今度こそ真名を言い当てたのだ!

 ようやく、優しく献身的な、彼女本来の自我が蘇ったのだ!

 

 それは、曇暗と恩人の弟子が、勢いでハグしそうになった時だった。

 もはや仰け反ることをやめていた天河の体が、突如、ギチギチと軋みながら捻じ曲がったではないか。

 見れば、そもそも上半身しか出現していなかった羽衣の生き霊が、いつの間にやら、アナコンダのごとき大蛇の尾を下半身として生やしており、人の背丈を優に超える長さのその下半身を、天河の全身に巻き付け、締め上げていたのである。


 ダメだ! このままでは、窒息ではなく全身の複雑骨折が死因となるだけで、天河を助けることなどできないではないか! 「婚勝女子」さえ、羽衣の真名には該当しなかったというわけだ。

 もはや一刻の猶予も無い中、ヒントを求めてSNSを見るうち、一つの仮説が、曇暗の脳裏に閃いた。天河の弟子は、プレゼントの写真云々と語っていたが、婚勝女子こと羽衣の投稿は、数日に一度の頻度で、とあるフィギュアスケーターの画像を、特にコメントを添えることもなく引用したものがほとんどだった。

 そのフィギュアスケーターは、男子シングルの部門で、オリンピックの金メダルを獲得したうえ、慈善活動にも励んでおり、曇暗でもよく知る、大変な人気者だ。

 そのスケーターの画像の引用が、昨年の八月を最後に停止しており、羽衣はそれ以降、SNSの更新自体を行なっていないのだ。

 昨年八月に何があった?——そう、そのスケーターの結婚だ!


 羽衣は、もしや、憧れのアスリートとの結婚を夢想することで、介護疲れを癒そうとしていたのではないだろうか。しかし、当人が実際に結婚したことで、夢破れてしまった……

 しかし、それで終わりではなかったとしたら?

 もはやSNSに投稿しないまでも、別の誰かを新たな偶像として、結婚を夢見ていたとしたら?


 本日は桃の節句——三月三日だ。

 羽衣が倒れたのは三日前——二月末日である。

 その日の夕刻、NHKが、ニュース速報を打っていたではないか!


 曇暗は、結論を導き出して、迷わず呼ばわったのである——


 それから一時間後、陰陽師と霊媒師の弟子は、二人並んで、部屋の壁にもたれ掛かり、床にへたり込んでいた。

 天河は、彼らの眼前で、穏やかな寝息を立てている。骨折などもせずにすんだようだ。

「いやはや、我ながら名推理でしたよ。僕こそ探偵に向いているかもしれませんね」

 曇暗は、軽口を叩いた。しかし、羽衣の生き霊をその肉体へと押し返したことと引き換えに、気力体力をごっそりと奪われてしまったため、まだしばらく立ち直れそうもなかった。

「あーあ、お嬢様はやっぱり、俺のことなんて眼中に無いのかぁ……」

「ライバル視するには、相手が悪すぎますよ。羽衣ちゃんは、類い稀なる偶像との結婚を夢想……いや、妄想するしかないほどお疲れだったんですねえ。それにしても、妄想したポジションが、そのまま真名と化してしまったなんてケースは、僕も初めてでした。SNSのアカウントどころか、あの日のトレンドワードとはねえ……」

 曇暗は、悲嘆する隣人へと、ハンカチを差し出した。

 受け取った男は、眼鏡の下を拭ったうえに、勢い良く鼻までかんだのだった。


 曇暗がついに言い当てた真名、それは、「大谷の嫁さん」だった——

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