第二話 春宵一刻値千金 乙
城内には他にも八旗に所属する人々の邸宅がひしめいているが、その中でもやはり副都統ともなると待遇や財産は頭一つ抜け出ている。国法で許された家屋敷の品格を限界まで極めたような豪華絢爛な作りの門を眺めて、馬に乗って駕籠に付き従う『名無し』がぼやいた。
「これならばまだ、瀏親王府の門の方が質素に見えますね。ごてごてとした金の飾りや七宝の彫刻飾りは些か悪趣味に見えます」
「恐らく父はそうしたものが嫌いだったのだろうな。万事派手好きだった先帝陛下とは真逆の好みだ。屋敷本体よりも、膨大な蔵書をしまい込む為の書庫作りに金をかけていたそうだ」
「流石は廉親王殿下、高雅な趣味をお持ちです」
四庫全書編纂の折、同じく蔵書家として著名だった
それでも何とか父のことを弁護してくれるだろうか、いついかなる時も蔵書家とはかくのごとくあるべきだ、なんて。
駕籠を降りて門を抜け、最初の中庭に入ると、すぐに家人数名が迎えに走り出て来て、
「瀏親王殿下、御来駕を賜りまして恐悦至極に存じます」
「礼は結構。それよりも、奥方様と約束がある故、取り次いではもらえぬか」
「承りました」
屋敷の中も何というか、些か過ぎるのではないかと思われるほどに華美な装飾がされている。正面に見える丹塗りの柱一つとっても、手間をかけた彫刻が随所に施されており、如何にも優雅な暮らしを送る上級旗人の風情である。
「いい加減ぼくの部屋の壊れた扉の立て付けも直してやるべきかな」
「永暁さまの場合は少々無頓着すぎるのですよ。お金は余るほどあるのに、貴重な本や書画骨董を集める以外には何一つ関心を持たれないではありませんか」
「使用人の棟はしっかり修繕費用を出しているだろうが」
「あなたの隣の部屋で眠るわたしがいつも隙間風に震えているのは無視ですかそうですか」
「……お待たせいたしました」
ちょうど注がれた茶から湯気が消えた頃。外装に比して異様に質素な調度の客間の扉が開き、ぼく達をここへ呼んだ張本人が顔を見せた。李家の第一夫人、袁氏である。ぼくも何度か顔を見たことがあるが、最近の憔悴のせいだろうか、妙に頬がこけて見えた。
「(頭にぶら下げた簪や飾りを下ろしておく様に忠告すべきだろうか)」
そう皮肉っぽいことを考えていることはおくびにも出さず、長い間ご無沙汰して済まなかった旨を伝える。
「いえ、この度は親王殿下にもご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません……」
「お気になさるには及ばない、これも仕事のうち故。それで、世間話は抜きにしよう、ご主人のおらぬ間にお話を伺おうか」
念の為ここで述べておくと、ぼくが話している言葉はずっと
その為、『名無し』がぼくの言葉を通訳してくれる。無論ぼくもこの十年近くの間ぼくは絶え間なく漢語の勉強を続けてきたが、昔の書物を読むなら兎も角、実際に口に出して話すことは遂に身に付かぬままだった。これのせいで外出には常に彼を伴わなければならないし、執務でも通訳官無しでは仕事が片付かない。
「(まあ、お陰で先帝陛下からは可愛がって頂けたし、いつでも彼と一緒に居られるから心強いのだが)」
それにしても、これほど流暢に二種類の言葉を使いこなす『名無し』は、一体どこでこんな教育を受けたのだろう。普通の漢人が満洲語の読み書きを学ぶことは禁じられているので、彼は八旗の出身なのだろうか。元は父の下で働いていたというから、その頃に覚えたとすれば合点がいく。
「最近ご主人が夜中遅くに駕籠に乗って出かけられているとか。その様に手紙には書いてあったが?」
「はい、そうです。ここ一ヶ月の間いつもいつもなのです」
夫人によると、昨夜の夫の様子は次の様なものであった。
子の刻を過ぎた深夜。しゃん、しゃん……という不気味な鈴の音で目を覚ますと、廊下を歩いていく足音がする。外に出て覗いてみれば、寝台から這い出して、寝巻きのまま廊下を力無い様子でぼんやりと歩く夫の姿。声を掛けても止まることはなく、そのままゆっくりと屋敷の玄関まで向かって行く。
玄関から外に出ると、彼はそのまま門前に止まっている駕籠に乗るのだ。乗り込んだかと思えば、これまた得体の知れぬ駕籠かきが持ち上げて、静々と何処かへ連れて行ってしまう。後を追いかけようと思っても、不思議な霧が出てきてこれを阻み、見失ってしまうのだという。
「仕方なく家に戻り、帰りを待っておりますと、朝方近くなって夫が戻ってくるのです。まるで魂が抜かれてしまった様な、力無い様子で。あなた、起きてくださいましと起こそうとすると、服に鼻のむかつく様な甘ったるい匂いが染み付いていて……」
「その匂いがついた服は、今ここへ持ってこれるのか?」
「え、あ、はい。お持ち致します」
夫人はまだ新しい、ほつれたところなど一つもない絹製の寝巻きを使用人に持って来させた。昨日一晩洗ったそうだが、どうにも匂いが落ちないのだと言う。失礼と断って匂いを嗅ぐと、確かに芥子の煙を吸った時の様な、くらりと脳天に来る甘い香りがする。しかし、阿片を吸ったにしては少し違和感がある。甘さでは隠しきれぬ不快な臭みがある様な気がして、ぼくは鼻を抑えた。
「ふむ……ちなみに、ご主人には夜毎どこへ出掛けているのかお尋ねには?」
「一度は尋ねましたが、何分あの通り気性が荒い人ですから」
なるほど、この部屋の調度がやけに質素なのはそういうわけか。酔って暴れた挙句、壺やら置物やらをぶっ壊すからだな。
「(直接理由を聞き出すのは難しいだろうな)」
「どうしますか、永暁さま」
「引き受けよう。仮にも部下のことだ、不始末を起こす前にぼくがカタをつける」
「ではその様に伝えます」
伝えられた夫人はぼくを伏し拝まんばかりに頭を下げ、何度もありがとうございます、ありがとうございますと言ってきた。日頃から不敬な幼馴染を側に置いているぼくとしては、他人にこうして頭を下げられることがどこか面映く感じられて、早々にその場を後にすることを決めたのだった。
注釈
1…副都統は満洲人・漢人・モンゴル人らで構成された「八旗」を統率する官職の一つで、1つの旗全体を統括する都統の下に2名置かれた。
2…怡親王は実在した鉄帽子王家の一つ。康熙帝の第13皇子で、兄雍正帝の治世を支えた胤祥を初代とする。第2代親王弘暁は著名な蔵書家であり、『明善堂』と呼ばれる巨大な書庫を所有していた。
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