トンネル

わっか

第1話

「うそ~。私の旦那よりイケメン! 何か悔しいっ」

 チャイムが鳴って玄関を開けた瞬間、若い女性が俺の顔を見るなりそう叫んだ。

 俺はびっくりして、ただ呆然としていた。

「由衣? マジか。何でいるんだよ」

 様子を見に廊下に顔を出した黒川が、困惑した声を出す。

「えっと、知り合い?」

 黒川がううん、と唸りながら右手で顔を覆った。

「妹」

「えっ」

 そう言われてよく見ると、確かに少し顔が似ている気がする。

「はじめまして! 斉藤由衣です。結婚して名字が違うの。いつも兄がお世話になっています」

 そう言って由衣がぺこりとお辞儀をする。

「何でいるんだよ」

 黒川がぼやくように同じ言葉を繰り返す。

「何でって、近いうちに挨拶行くねって言ったでしょ」

「言ってたけどさぁ、普通はお互い予定を合わせて会うだろ。急に来るとか」

「お兄ちゃん忙しいでしょ。予定合わせてたら、一生会えないんじゃない」

「大げさ」

「年内に会っておきたかったの。お兄ちゃんから話を聞いてた白井さんにも。どんな人なのかずっと気になってたし」

「あ、あのっ」

 俺が声をかけると、二人同時にこっちを向く。

「寒いし、立ち話もなんだから、とりあえず上がって話そうよ」

 黒川がため息をついた。

「白井ありがと。由衣、上がって」

「お邪魔しま~す」

「あ」

 由衣がコートを脱いだとき、思わず声が出た。お腹が少しふっくらしていて、マタニティドレスを着ている。


「俺はお前の体調のことも心配してたんだよ」

「わかってるって。でも最近体調良くなってきたから、本当だよ」

 由衣は、にこにこしながら自分が持ってきたお土産のケーキを頬張る。

「美味しい。駅前のケーキ屋で買ったんだよ。二人も食べて」

 黒川が申し訳なさそうな顔で、俺の方を向く。

「俺がここに引っ越したら、妹の家から割と近くになってさ。挨拶に行きたいって言われてたんだけど、白井に言う前に先にこいつが来ちゃった。本当にごめん」

「いや、全然大丈夫なんだけど。それよりその、妹さんは」

「由衣って呼んで。身内になるんだから」

「ええっ? あ、そう? じゃあ、由衣ちゃんは、その。もしかして俺たちのこと」

 いや、もしかしなくてもさっきからの言葉を聞く限り。

「どういう関係か知って」

「もっちろん! ラブラブな恋人なんでしょ?」

「らっ、ラブラブ……」

「からかいに来たなら帰れよ」

「違うよぉ。ごめん、嬉しくなっちゃって」

「仲が良いんだね。ちょっと羨ましいな。俺は一人っ子だから」

「世の中の兄妹が全員仲が良いわけじゃないけど、うちは仲が良いの。何でも話すもんね?」

「まぁな。白井、勝手に話してごめんな」

「いや、全然」

「しかし、何で今日来るかなぁ。俺そろそろバイトに行かないと」

 由衣が来たのは、四時を少し過ぎた頃だった。

 由衣が残念そうな顔をする。

「今日来るつもりなかったんだけど、旦那から帰りが遅くなるって連絡あったから、じゃあお兄ちゃんとご飯食べるかなって思ったんだ。でもしょうがないよね。出直すわ」

「悪いな。家まで送る時間はあるから」

「あのっ、俺は今日時間あるし、せっかく来たんだからご飯食べていったら? 帰りは俺が送るし」

 二人は、驚いた顔で俺を見た。それから同時に顔を見合わせる。

「いや、でも悪いし」

 黒川は少し戸惑っていた。

「私はそうしたい! 駄目? お兄ちゃん」

「黒川、俺なら本当に大丈夫だから。責任持って家まで送るし」

「……わかった。悪いけど頼むわ」

 俺たち二人からそう言われると、黒川も折れるしかなかったようだ。

「由衣、変なこと言うなよ。迷惑かけんなよ。ご飯食べたらおとなしく帰れよ」

「は~い」

「いつも返事は良いんだよなぁ」

 黒川は少し不安げな顔をして、バイトに出かけていった。

 取り残された俺たちは、思わず顔を見合わせる。

「えっと、由衣ちゃん」

「はいっ」

「食べたいものある? 作れるものなら作るけど」

「うわぁ。いいんですか?」

 由衣は目を輝かせる。

「何にしよう。え~と、え~と」

「ゆっくり考えて」

 表情がくるくる変わる由衣を見て、思わず笑みが出る。妹がいればこんな感じなのだろうか。


 由衣がリクエストしたのはオムライスだった。

 ケチャップで簡単な猫の絵を描いてみせた。

「すご~い! かわいい、美味しい。幸せ!」

 由衣はめちゃくちゃ喜んでくれた。俺としてもそんなに喜ばれると嬉しくなる。

「久しぶりに自分以外の人が作ったご飯食べた。嬉しい」 

 由衣がしみじみとした口調で呟く。

「そうなの?」

「そうですよぉ。旦那は料理まったく作れないし。実家は遠いし。近くに友達もいないし」

 由衣が寂しそうな顔をする。

「簡単なものなら作れるよ。いつでも来てよ」

 俺が笑いかけると、由衣が拝む格好をした。

「天使! お兄ちゃん良い人見つけたなぁ。私も何か作りますよ。料理は結構得意なんだ。家事全般得意」

「へぇ。えらい」

「夢がお嫁さんでしたから。頑張って覚えました」

「夢叶ったね」

 由衣が嬉しそうにうふふ、と笑う。

「なれそめは?」

「え~それ聞きます? 照れるな」

「俺たちの話は聞いてるんでしょ」

「そりゃもう、隅々まで。わかりました、言いますよ。でもいたって平凡な出会いで」

「ネットで知り合ったとか?」

「そうです。ネットで婚活しました」

「婚活って、由衣ちゃん年齢は?」

「十八」

「じゅうはちいぃ~。若い! 婚活するの早すぎない?」

「そうかな? でもできるだけ早く結婚したかったんで」

「そっか。旦那さんてどんな人?」 

 由衣はしばらく目を瞑り、首を傾げていた。

「一言でいうと、善良! て感じかな。顔は残念ながらイケメンではないなぁ」

「良い人なんだね」

「はい! それはもう」

「良かった」

 由衣の幸せそうな顔をみて、なんだかほっとした。


「本当に、ここでいいですって」

「駄目駄目。もう遅いんだから、家まで送り届けるよ」

 何だかんだ話し込んでしまって、随分引き留めてしまった。

「遅いっていっても九時前ですよ」

「いいからいいから」

 由衣の家は、俺の最寄りの駅から二駅離れた場所だった。

 送るのは駅までだと思っていた由衣だったが、俺は一緒に電車に乗り込む。

 身重の由衣を、夜遅くに一人で帰すのは不安だったからだ。

「親切ですね。白井さんは」

「どうだろ? 今は特別」

 ふふっと、嬉しそうに由衣が笑った。


「うわぁ。ここ通るの? 違う所から行かない?」

 思わず躊躇したのは、由衣が薄暗い地下道へと進もうとしたからだ。

 嫌そうな声を出した俺を由衣が振り返る。

「こういう場所嫌いですか? まぁ少し暗くて気味悪いですよね。お兄ちゃんは好きそうだけど」

「黒川は好きかもね。俺はちょっと苦手」

「白井さん、霊感強いんでしたっけ」

「よくわからないけど、そうなのかな」

 最近不思議なことばかり起きている気がする。

「はい、どうぞ」

 由衣が右手を差し出す。

「怖いなら私と手を繋ぎましょう。大丈夫。私がついてますよ」

「いやいやいやいや! まずいでしょ。人妻と手を繋いだら」

「人妻!」

 由衣がきゃ~と照れたような声を出す。

「由衣ちゃん」

「いいじゃないですか。お兄ちゃんの交際相手なんだから、もう家族みたいなもんでしょ」 

 俺はううん、と唸る。

「わかったよ、文句言わずに行くよ。でも手を繋がなくても大丈夫」

「え~残念」

 由衣がにやにやする。年下の女の子にからかわれている。

「右手は空けときますから、いつでも繋いでください。というか手袋してるんだから、遠慮しなくてもいいのに」

「ありがと。怖くなったら遠慮なくしがみつくよ」 


 冗談のつもりだったのだが、もしかしたらそうしてしまうかもと思いはじめていた。

 トンネルは地下鉄の通路に似た雰囲気だが、それよりももっと暗く、人気がなく寂しい感じだ。

 前の俺なら特に何も思わなかったかもしれないが、最近は苦手な場所が増えた。

 隣を歩く由衣は、平気な顔をしている。

「ここ、毎日通ってるの?」

「毎日じゃないですね。近道したいときとか」

「他に帰る道あるんじゃん!」

「あっ、ばれた~。だって白井さんと手繋げるかもしれないし?」 

 由衣が、あはっと屈託なく笑う。

「怖がらなくても大丈夫ですよ。そんなに長い道じゃないし、すぐ外に出られますよ」

 そう由衣は言ったのだが。


「……由衣ちゃん、全然出口が見えないね。もうすぐ?」

 しばらく我慢していたのだが、由衣がすぐと言ってから大分時間が過ぎた気がしたので聞いてみた。

「由衣ちゃん?」

 反応がないので隣を覗き込む。

 少し遅れて由衣が俺を見た。その表情は少しぼんやりした感じだ。

「おっと」

 人気がないと思っていたのに、いつの間にか周りを数人がすり抜けていく。

 ぶつかりそうになったので由衣の腕を取り、端に移動した。

 横幅はそんなに広くはなく、人間五、六人が並んだら通れなくなりそうな幅だ。

「何か人増えてきたね。帰宅時間が被っているのかな」

 というか、急にこんなに人数が増えるものなのか。人気がなかったときよりもなぜだか不気味に感じた。

「ん……?」

 よく見ると、すれ違う人たちが時折重なって見える瞬間がある。

 お互いを通り抜けていくような。

「マジか」

 今見えている人たちは、幻だということだろうか?

 幸いなことに、俺たちに向かって直進してくる人はいなかった。

 ぶつかりでもしたら、そのまま俺の体を通り抜けていくのかもしれない。

 でもそういうことが起きない限り、どれが本当に実在している人なのかすぐにはわからないだろう。

 由衣にも見えているのだろうかと視線を向けると、まだぼんやりしていた。

「由衣ちゃん、大丈夫?」

 具合でも悪くなったのだろうか。それとも異変に気づいて怖がっているのか。

「何がですか?」

 一呼吸の間があってから、由衣が答える。視線はぼんやりと前を向いたままだ。

「えっと、何か元気がなくなったっていうか」

 無表情なのも気になる。今までずっとにこにこしていた分、すごく違和感を感じた。

「私、いつもはこんな感じなんです」

「え」

「テンションはずっと低いし、本当はお喋りでもないし。いつも笑っているのは自然にじゃなくて、ただ私がそうしようと思ってやっているからなだけで。ただの演技です」

「え、えっと。そうなんだ」

 急にぶっちゃけられて戸惑う。

「まぁ、でもみんな大体そんなもんなんじゃない? 中々自分の本音出したりするのは難しいよ」

「そう、なんですかね」

 由衣は立ち止まり、俺を見上げた。

「お兄ちゃんのこと、本当に好きなんですか?」

「えっ? う、うん。好きだよ」

 そんなに真正面から聞かれると、照れてしまう。

「そっか。お兄ちゃんも白井さんのことが好きみたい。白井さんの話をしているとき、嬉しそうだし」

 気のせいか、少し寂しそうな顔をして由衣はうつむいた。

「どうかした? 急にそんなこと聞いて」

「私、人を好きになるって気持ちがよくわからなくて。お兄ちゃんも同じタイプだと思っていたのになぁ」

「由衣ちゃん、結婚してるのに」

「好きじゃなくても、結婚はできるんですよ」

 どういう意味か分からず黙った俺に、由衣は微笑んだ。

「もちろん旦那は、私が自分のことを好きだから結婚したんだって思ってますよ。そういう演技、得意だし」 

「演技って。じゃあ由衣ちゃんは旦那さんのこと好きじゃないの?」

「恋愛感情があるのかっていう意味なら、ないです。好きじゃないです。でも情はありますよ。家族になってもいいと思うくらいには。私が結婚したのは、旦那のことが好きだからじゃない。ただ結婚して家庭を作りたかっただけなんです」

 由衣が話す内容と、表情が合っていない。そんな笑顔でする話では。

「なんか、変だ。由衣ちゃんの顔」

「えっ?」

 由衣の顔が真顔になる。

「あっと、違う。顔じゃなくて、表情? なんか、変っていうか」

 上手く言葉にできない。由衣の本音を聞いてしまったせいなのか、表情から感情が読み取れない。

「笑顔でも、全然笑っていないように見える」

 由衣は、ふっと俺から顔を背けた。

「ごめん。変なこと言って」

「変なこと言っているのは私ですから」

 由衣は深いため息をついた。立ち止まっている俺たちの側を何人もが通り過ぎていく。

「みんな、どこかへ行って、また帰っていくんだよね」

 由衣にも同じ光景が見えているのか、ぽつりと呟いた。

 すれ違う人たちは、みんな無表情で足早に歩いて行く。生きている人なのか死んでいる人なのか、俺にはわからなかった。

「時々、疲れちゃって。そういうの」

「そういうのって?」 

「なんて言えばいいのかわからないけど、今言ったようにどこかへ行って帰って、そしてまた、その繰り返し」

「……日常ってこと? 同じことの繰り返しで退屈とか?」

「退屈ってことじゃないんです。そうじゃなくて」

 由衣は言葉を探すかのように目を瞑った。

「どこにも居場所がない、ていう感じ」

 わかります? と由衣は俺を見上げた。

「みんなには、どこかへ行っても帰る場所がある。私はただ、その光景を外から眺めていて、私にはそんな場所どこにもないって、そんな気持ち」

 由衣の表情は、どこか途方に暮れた子どものようだった。

「昔から周囲に溶け込むのは得意なほうだし、外から見た感じでは上手くやっているように見えるみたいなんだけど。本当は中身はからっぽで、何に対しても情熱がなくて。勉強は好きじゃないし、やりたい仕事はないし。好きな人はいないし」

 由衣は、少し投げやりな笑い声を出した。

「全部無駄に思えちゃって。何かを頑張ったとしても、いつ失うのかわからないのに」

 ああ、と納得した。黒川たちは子どもの頃に大切な人を失ったのだ。

 大切なものは、いつ消えてしまうのかわからない。


 亡くなっていった人たちの顔が浮かんだ。

 自分が生きている限り、いつも失う側なのだ。


 無表情に歩く人たち。あの中に俺もいる。

 毎日同じことを繰り返して、そのうちに生きている実感も薄くなっていく。

 生者も死者もごちゃ混ぜで。自分がどちらにいるのかも曖昧になって。

 それでも、このトンネルの中を今までにたくさんの人が通り、人生を生き抜いて死んでいった。

 そうやって歩く。歩いていかないと。

 みんないつか死ぬ運命だとしても。 


「……案外、みんなそういうもんかもよ」 

「え?」

「外側から見たら、みんな自分より良く見えたりするんじゃないかな」

 ありきたりな俺の言葉に、由衣は返事をしなかった。

「でも由衣ちゃんには、ちゃんと居場所があるよ。由衣ちゃんが頑張って獲得した居場所だ。何か罪悪感みたいなものがあるみたいだけど、胸張って私の居場所だって言っていいんじゃない?」

 由衣の言葉からは、どこか投げやりで自分を責めているかのような印象を受けた。

 どこかで旦那さんを騙して結婚したとでも思っているのではないだろうか。

 全部無駄に思えたとしても、生きている限りはあきらめられないものだと思う。

 自分が幸せになる方法を探すことを。

 由衣はただ、頑張って掴み取っただけだ。自分が楽に息ができる場所を作ろうとして。

 黒川の顔が浮かんだ。

 不安定だった俺の足下が、しっかりと定まるような感覚がする。

 俺にも居場所はある。 

 俺は由衣に、にこっと笑ってみせた。

「俺はいつだって由衣ちゃんの味方になるよ。俺の前ではテンション低くてもいいし、喋らなくたっていい。無表情で全然笑わなくてもかまわない。安心して頼っていいよ。だって俺たちは、家族みたいなもんなんだろ?」

 由衣はぽかんとした表情で俺を見た。

「白井さんって、変わってるね」

「そう?」

「うん。あ……」

 由衣がお腹をさすった。

「どうしたの?」

「動いた。はは……」

 由衣がふにゃっと微笑んだ。次第に曖昧になっていた由衣の表情がはっきりしていく。

「帰ろうか」

「はい」

 にっこり笑った由衣の顔は、本当に笑っているように見えた。

 笑っているのは演技だ、と由衣は言っていた。そういうときは誰にでもある。

 でもいつかその偽物の笑顔が、本物の笑顔に変わるときがくればいいのにと。そういうときが増えればいいのにと思った。


 いつの間にかトンネルにいるのは由衣と俺だけだった。

 静まりかえった空間を二人で歩く。

「で、出られた~」

 やっと外に出られたとき、安堵のため思わずしゃがみこんでしまった。

「何当たり前なこと言ってるんですか、白井さん」

 そんな俺を、由衣は不思議そうに見ていた。


「由衣! 良かった。見つかった!」

「え? 良介さん?」

 息を切らして、大柄の男性が俺たちに向かって走ってくる。

 由衣の無事を確認するかのように、由衣の両肩に手を置いて再度良かったと呟いた。

「どうしたの? 残業じゃなかったっけ」

「もうとっくに帰ってきたよ。家にいないからすごく心配したよ、今何時だと思ってんの。電話しても通じないし」

「えぇ? うわっ。嘘~、十一時過ぎてる!」

 由衣がびっくりした顔で俺を見た。

「そんなに喋ってました? 私たち」

 俺は、曖昧に笑うしかなかった。トンネルの中で何か変なことが起こっていたのは間違いない。

「ごめんね、心配させて。えっと、こちらは私の旦那です。良介さん」

 由衣が俺に男性を紹介する。良介が俺にぺこりとお辞儀をした。

「白井瞬です。すみません、遅くまで引き留めてしまって」

「私が勝手に押しかけたんですから。本当にごめんなさい。良介さんも心配させてごめん」 

 良介は安心した顔で、大きく息を吐いた。

「白井さん今日は由衣がお世話になってしまって、ありがとうございました。お礼はまた後日にでも」

「いえいえ、とんでもない! こちらこそ心配かけてしまって」

 お互いぺこぺことお辞儀を繰り返す。由衣が言っていた通り、良い人そうで安心した。

「白井さん、ここまで送ってくれてありがとうございました。また改めて会いに行きますね。気をつけて帰ってください」

 由衣が明るく手を振る。その横で良介が頭を下げた。

 しばらく二人の後ろ姿を見送った。


「……あ、またあそこ通るのか。一人で」 

 恐る恐る来た道を振り返る。一人で無事通り抜けられるのか自信がない。かといってここ以外の帰り道は教えてもらっていない。

 勘で適当に違う道から帰るという方法もあるが、時刻が遅いだけに迷うところだ。

 しゃがみ込んで、しばらく目を瞑ってどうするか考えた。

「白井!」 

「えっ」

 顔を上げると、いつに間にか黒川が目の前にいた。

「何でここにいるの?」

 驚きのあまり、しゃがみ込んだまま固まってしまった。

「良介さんから、由衣がまだ帰ってないって連絡あってさ。二人とも電話にも出ないし、心配になったから来てみた」

「電話に全然気づかなかった。ごめん」

 携帯電話を確認すると、黒川からの着信が何度もあった。

「具合悪いのか?」 

「いや違う! ごめん。ちょっと考え事してて。あ、由衣ちゃんはさっき良介さんと帰ったよ」

「そっか、良かった。何かあったのかと心配した」

 心底ほっとした顔で黒川が言った。

 バイトで疲れているだろうに悪いことをしてしまった。

 黒川の顔を見たら、安心して少し力が抜ける。もうしばらく、しゃがみ込んでいたい。

「ほら、俺たちも帰ろ」

 黒川が俺の前に手を差し出す。

「疲れただろ。今日はありがとな」

「いや、全然。黒川こそ」

 差し出された手を握ると、ぐいっと上に引っ張られ俺は立ち上がった。

 その手の温もりにほっとする。

「なぁ、黒川」

「ん?」

「俺、あの地下のトンネルが少し怖くてさ。抜けるまで手、繋いでていい?」

 恐る恐る言うと、黒川は一瞬きょとんとした顔になってその後吹き出した。

「笑うなよ」

「ごめん! 真剣な顔して何を言うのかと思ったら」

「悪かったな」

「悪くないよ」

 黒川が握った手に力を入れて、俺に笑いかけた。

「怖くなくても、手を握っていいんだぜ。恋人なんだから」

「へぁ」 

「何その声」

「恥ずかしいこと言うなぁ」

「うるさいな」


 トンネルを抜けたのは、あっという間だった。

 五分もかからなかったのではないだろうか。

 それでも俺たちは手を離さなかった。

 家に帰るまで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トンネル わっか @maruimono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ