それぞれの終わり

紗久間 馨

Husband‘s end

 アンデッド症候群に侵された優人ゆうとには三分以内にやらなければならないことがあった。それは愛する妻を一刻も早く逃がすことだ。

 優人は自身の手が赤黒く変色していくのを見て、意識があるうちに妻である愛美まなみを遠ざけなければならないと思った。


「愛美ちゃん、早く、ここから、逃げて」

 上手く呼吸ができず、一言ずつ声を発する。優人が愛美を見ると、その表情は優しく柔らかい笑顔のようだった。

「愛してるよ。ずっと」

 涙があふれて愛美の姿がにじむ。優人は愛美の動く気配を感じた。

「そうだ、早く、逃げて」

 直後、優人は頭部に強い衝撃を受けた。大きな石が優人の頭部に投げつけられたのだ。愛美の手によって優人は適切に処理されようとしている。既に痛いという感覚はない。


 どうしてこうなってしまったのだろう。


 優人は意識が遠のいていく中で記憶を辿る。






 今より一か月ほど前、日本は年末年始のおめでたい雰囲気に包まれていた。それをぶち壊したのが謎の病だ。クリスマスの日、世界各地で同時多発的に発症者が現れた。

 赤黒く変色した肌の人間が周囲の人や物に危害を加える。言葉が通じず、ただ攻撃的に行動するだけ。生きてはいるが、人間としては生きていないという状態だ。そのことから「アンデッド症候群」と、患者は感染させる人という意味で「インフェクター」と呼ばれるようになった。

 発生源も原因も不明のままだ。患者から共通のウイルスや寄生虫などが全く見つからない。バイオテロ、人類への呪い、集団ヒステリーなど、様々な見解が飛び交った。しかし、どれも確かな証拠がない。

 分かっているのは、患者の体液への接触で伝播するということ、症状が出てから三分で自身の意識を失い攻撃的になるということ、人間以外の動物には感染しないこと。

 特に患者の血液に直接触れた者は発症が早い。潜伏期間がはっきりしない中、血液に触れた者は数十秒で発症することが確認されている。

 厄介なのは少量の唾液を浴びた程度のインフェクターだ。発症までの期間が長く、その間の行動でさらに感染を拡大させてしまう。


 これが年末年始と重なったということで、悲惨な事態に陥った。患者が確認された当初は危機感がなかったし、症状や対処法を知る人もいなかった。旅行や帰省客で満席の交通機関内で発症し、目的地に到着する前に内部は血の海と化したという例がいくつも確認された。

 たとえ生存者がいたとしても、インフェクターとなり別の場所で感染を拡大させる。世界中で人々の往来が禁止となった。


 肌が赤黒く変色するのが分かりやすく表れる症状だ。そこから三分以内に対処をしなければならない。四肢や大量の血を失っても食らいつこうとするため、今のところ、頭部の破壊でしか鎮めるすべがない。

 ただし、その返り血に触れることがあればインフェクターとなってしまうため、銃の携帯を許可された者が遠距離から処理する方法が最も適しているとされている。






 アンデッド症候群について優人が知っていることは、途中から情報がまともに得られなくなったこともあり、この程度だ。インフェクターによる通信設備の破壊によって、テレビやラジオ、さらにはインターネットすらも使えなくなってしまった。


 約七か月前に夫婦となった優人と愛美は、年末年始を自宅で二人きりで過ごしていた。自宅は木々に囲まれた静かな場所にある。移動には車を使用し、市街地までは十五分、最も近い民家までは六分ほどかかる。

 優人のこだわりによって建てられた家は、アンデッド症候群から逃れるには適していると言えた。屋根のソーラーパネル、煮炊きのできるリビングの薪ストーブ、地下水を汲み上げる方式の水道、高気密で温かい室内。さらに、地下室には災害時の備えとして保存食があり、優人が栽培した野菜も蓄えられていた。

 電気も水道も食料も困らなかった二人は、外に出ることなく暮らすことができたのだ。


「ねえ、そろそろ街の様子を見に行ってみようよ」

 愛美がそう言い出すのも無理はない。蓄えていたとはいえ、食料は残り少なくなってきていた。

「そうだね。でも、僕が一人で行ってくるよ。まだ危ないかもしれないし、愛美ちゃんはここで待ってて」

 優人は愛美を心から愛している。十三歳も年下の女性が自身のことを好いてくれるとは夢にも思っていなかった。甘えてくる姿が可愛らしい。

「やだ。一緒がいい。ゆうちゃんに何かあったら困っちゃう」

 愛美は優人のことを「優ちゃん」と呼ぶ。女性から親しみのある扱いを受けたことがあまりなかった優人は、愛美のお願いを大抵は聞いてしまう。

「仕方ないなあ。じゃあ、一緒に行こうか。僕が絶対に愛美ちゃんを守るからね」

「ありがとう。優ちゃん大好き」

 そう言って抱きつく愛美を優人はぎゅっと抱きしめた。


 一か月も経てば事態は落ち着いているだろうと優人は考えていた。インフェクター同士でも攻撃し合うことから、拡大したところでその数は減っていくに違いない、と。


 万が一に備えて残りの食料と水を車に積み込む。おそらく二人で一週間は生きられるだろう量はある。道中で何があるか分からない。もしかすると家に戻ることができなくなるかもしれない。だから持って行くことにした。

 だが、外に出たのは大きな間違いだった。


「きゃあっ!」

 愛美の叫び声が聞こえた。その視線の先には、ゆっくりと這いながら近づく片足を失ったインフェクターの姿があった。ここまで迫っているということは、きっと街にはまだ多く存在しているはずだ。

 優人は積み込もうとしていたシャベルを掴み、愛美の前に立つ。

「愛美ちゃんっ! 逃げてっ!」

 そして優人はインフェクターに近づき、その頭に向かってシャベルを何度も振り下ろす。頭部がめちゃくちゃになったそれは、もう動かない。

 優人は肌に付着した血に気づいた。手のひらを見ると既に赤黒く変わっており、インフェクターになったことを確信させた。もう愛美とは一緒にいられない。


「愛美ちゃん、早く、ここから、逃げて」

 呼吸ができず苦しいと思いながらも、優人は愛美のことを心配する。

「愛してるよ。ずっと」

 だから、どうか生き延びて幸せになってほしい。これから一人になってしまう妻のことを考えて涙が溢れる。意識があるうちにその姿をしっかりと焼き付けておきたいが、視界が滲んではっきりと見ることができない。

 愛美が庭の方に移動する気配がした。優人に表れた症状を愛美も理解したのだろう。

「そうだ、早く、逃げて」 

 次の瞬間、頭部に受けた衝撃で優人は倒れ込む。ぼんやりとしか見えないが、愛美が庭の側に置いてある大きめの石を優人の頭に向けて次々に投げているのだと分かった。

 それらは優人が庭や菜園を整備した時に出てきたものだ。いつか何かの役に立つと考えて置いてあったが、このような形で使われるとは思ってもいなかった。

 優人は血が飛び散らないように上着のフードを頭にかぶせてうつ伏せになる。最後まで愛美を守りたいという気持ちが強かった。


 僕が完全に自分を失ってしまう前に、愛美ちゃんの手で殺されるのも悪くない。ああ、きっとこれは愛美ちゃんの愛だ。


 そう信じたまま、優人は意識を完全に無くした。

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