第5話 ハヤタとアキコ隊員のきわどい攻防


(初出はKAC20245。お題は「はなさないで」です)


 * * *



 二十五階の窓の外では風に吹かれて花粉が舞っている。

 外ではわがもの顔の風も花粉も窓の内っかわの平穏を乱すことは許されず、アキコ隊員はネイルのケアに余念がない。


 ここはアキコ隊員とハヤタとが住まうマンション。ふたりの愛の巣と言い換えてもよいだろう――とアキコ隊員は聖母のような顔で微笑む。

 ふたりがひとつ屋根の下で暮していることは科学特捜隊に関係するごく一部の者にしか知られていない秘密だ。全世界のお子様からおじいちゃんおばあちゃんまで絶大な人気を一身にあつめるアキコ隊員がハヤタと同棲していると世に知られれば、NYダウは乱高下し世界経済への影響は計り知れず、数多の政権が革命で転覆してしまうであろうほどの重大事なのだ。


「同棲?」

 と同僚は聞き返したものだ。

「同棲」

 とアキコ隊員は、ごく当然というふうに答えた。

 ハヤタとアキコ隊員は所謂男女の関係ではない。そのことは同僚たちも承知している。であるなら同居、あるいはルームシェアとでも呼ぶのが穏当ではなかろうか。

「同じ家に棲むんだから同棲でいいのよ」

 同僚の問いに先まわりするようにアキコ隊員は柔和に微笑んだ。



 とはいえハヤタが完全に心を開いていないことは明らかだ。その象徴ともいえるのが、例の箱だった。


「この箱に触れてはいけない」


 ハヤタの声が脳内にこだまする。

 もちろんアキコ隊員はすなおに従うつもりだった。ではあったのだがハヤタのさいきんの悩みがこの箱から発するらしいと聡明な彼女は察してしまった。察した以上はこの箱の謎に迫らざるべからず、謎に迫るためには箱に触れざるを得ないのだった。

 彼の禁を守るべきか、禁を破ってでも彼を癒やす道を探求すべきか。アキコ隊員はめずらしく判断に迷った。

 そうして今日も、マニキュアで爪の仕上げをしながらちらりと箱へ視線を投げるのである。


「どうしてここに?」

 とつぜんハヤタの声が聞こえた。脳内ではなく、はっきりと。

 アキコ隊員は宛然と顔をあげ、花とほころぶかんばせを声の方へと振り向けた。

 視線のさきのハヤタは若干のおどろきと、それ以上にとりみだしているように見える。

 そもそもここはハヤタのプライベートな荷物を置くための部屋で、アキコ隊員には用がないはずだ。とりわけ中央に鎮座する箱には決して触れてはならないとかねて言い含めてある。


「ごめんなさい……リビングにネイルの匂いが洩れたらいけないと思って」

「……ならいいんだけど」

 理屈として通っているような、通っていないような――ハヤタの判断力がいつにもまして鈍い。それもこれも、彼女の笑顔のなせるわざだろう。

「とにかくこの箱にはくれぐれも触らないでくれよ」

「どうして?」

 小首をかしげてハヤタを見あげ、アキコ隊員は尋ねた。その蠱惑ポーズの破壊力たるや地球人男性なら秒で撃沈する核爆弾並みの反則技なのだが、あいにくM78星雲人であり同星愛者であるハヤタには通用しない。

 だがアキコ隊員はひるまなかった。


「どうして箱を触っちゃいけないのかしら」

 その一瞥だけで猛り狂うヒグマを即座に手なずけたという伝説をもち地上の星と讃えられる至聖の瞳でじっとハヤタを見つめた。

「それは……」

 ハヤタの声は頼りなくなる。

「それは?」

 もう顔と顔とが触れあうほどの至近距離だ。

 賢明なる読者諸氏はお気づきだろう。アキコ隊員の瞳と声には強力な催眠術マインドコントロールの力が籠められている。天からあらゆる才を惜しみなくけた彼女の天稟を以てすれば、催眠術など朝飯前なのである。

「それは……っ」

 ハヤタは耐えた。

 じつは機密保持のため本星でもあらかじめハヤタに催眠術をかけ、箱に関する秘密は一切口に出せないよう厳重に禁呪を施されていたのである。

「それはどうして?」

 アキコ隊員はぐいぐい迫る。

 ハヤタの顔は苦悶にゆがむ。

 アキコ隊員とM78星雲のふたつの催眠術がせめぎ合って互いに譲らず、ハヤタを責め苛むのだ。(地球人には想像さえ及ばぬM78星雲の科学力と互角に渡り合うとは、アキコ隊員の力のほどがうかがわれよう)


 だがハヤタの表情を見てアキコ隊員は折れた。あたかもお白州で我が子の痛がる様子に思わず手を離してしまった母の如くに。

 ハヤタから目をそらし、しばらくためらったあと、しおらしく声をだした。

「わかった。触らないわ、あなたが言うのだもの」

 そして、苦痛から解放されたハヤタの手をやさしく握った。ハヤタは茫然として、されるがまま手を握りかえした。

 爪のケアを終えた彼女の指はどこまでもすべらかで、いつまで握っていても飽きることはないと思われた。

「そのかわり、わたしからもお願い」

「……きみからもお願い」

 ハヤタの瞳にはあやしい光が宿っている。まだアキコ隊員の催眠術は効いているようだ。

 アキコ隊員はこのうえなく優美な笑みをハヤタに向けた。

「この手を離さないでね」

「この手を?」

「いつまでも」

「いつまでも」

 窓の外では変わらず春の風が猛威をふるっていた。

 あたたかな風に乗って花粉はあまねく地上に降りそそいだ。

 アキコ隊員とハヤタはいつまでも手をつなぎ見つめ合っていた。




「……その危機を間一髪脱したとき私は、宇宙怪獣よりはるかにおそろしい知的生命体が地球に存在すると知り、慄然としたのでした」

 後年彼は、ある記者との対談においてこう回顧している。

「慄然して当然です。守るべき惑星にも宇宙怪獣がいたのですから」

 そしてすぐにまたこうつづけた。

「あとにもさきにも宇宙にこれほど愛らしい怪獣はいませんでしたね」

 そのときハヤタの瞳にはあやしい光が宿っていたとの記者の証言があるとかないとか。




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