05 

 スープの香りが小屋を満たしていく。

 鍋を見守っていた青い瞳がわたしの手の内に向けられた。

 どこが蓋なのかわからない箱は、お父さまがお母さまに求婚した時に渡したという。


 ――知恵比べをしよう。


 お母さまがいなくなり、昼も夜も泣いていたわたしにお父さまが差し出したものが『ユルドゥスの箱』だった。渡した時には覚えていたのに、開け方を忘れてしまったとお父さまがさみしそうに笑うものだから、わたしはその話に乗った。

 幾つもの星が繋ぎ合わされた寄せ木の箱は、決まった通りに開けなければ、全く動かなくなる。一手わかったと思えば、次がわかるまでに時間がかかり、最後まで辿り着けたのはどれぐらいの時間だったのか。中身を見たときは二人して笑って、涙がこぼれた。

 あの感動はもう薄れてしまったけれど、あれから涙を流していないのは確かだ。

 記憶のままの赤や黄土色、黒、緑がかった星がそれぞれの面で輝いている。


「きちんとした手順を踏めば必ず開く箱です。殿下なら、できると思います」


 箱を差し出せば、惹かれるように手が伸びてきて一瞬止まった。根気よく待ち、殿下の決心を願う。

 まだ幼さの残る中指が箱の表面に触れ、ゆっくりと包むように触れた。持ち上げられた箱がランプに照らされて星のようにきらめく。殿下の瞳も宝石のように輝いていた。

 『箱』で思い出したお母さまと過ごした日々が頭の中によみがえる。どんなことを教えようか悩んでいたのだけど、学びに繋げるためにも、お母さまのやり方がぴったりだ。

 やる気になってきたところで、くぅ、とお腹が小さな悲鳴をあげた。

 角度を変えながら眺める殿下には聞こえなかったみたい。やる気を取り上げてしまうのは、ちょっと可哀想な気もするけど、スープの煮込みも十分みたいだし、朝ごはんは力の源だ。


「殿下、先に朝食にいたしましょう。旦那さまもお待ちです」


 わたしの言葉に殿下が異様に反応した。殿下を固まらせたのは、『旦那さま』なのかしら。

 気付かなかったふりをして、器に出来立てのスープをよそう。昨日焼いたパンも盆にのせて添えて塔に戻った。

 箱を大事そうに抱えた殿下の心はここにあらず、みたい。妙におびえた視線は挙動不審だ。ところが、二階の部屋に案内した途端、態度が一変した。団らんの場として調えている場所は特別見るところもないはずだけど呆然と部屋の中を眺めて、何度も瞬きをしている。


「お先にお召し上がりください。旦那さまに届けて参ります」


 水晶のような青い瞳が見開かれた。……一緒に食事をすると思っていたのかしら。

 太陽の位置を目の端で確かめて、尋ねてみる。


「旦那さまにご用があるのでしょうか」

「……いや」


 歯切れの悪い返事の後も、口は何か言いたげだ。

 わたしの顔があまりにも不思議そうにしていたのか、顔色を何度も見てきた殿下はその、と言いよどむ。


星鹿ユルドゥスゲイキの塔には魔物が住んでいると聞いて、いて……先ほどの鹿は恐ろしいものに見えなかったし、その、ここの主人が魔物かもしれない、と」


 言っていて恥ずかしくなってきたのか、殿下の白い顔に朱が混じる。


「旦那さまは魔物ではありませんわ。立派な神官さまです」


 人間です、とは言いにくくて、つい誤魔化してしまった。でも、間違いではない。

 なぜか、殿下は不思議そうな顔をされる。


「絵空事を信じるな、とは言わないんだな」

「すべての絵空事を見て確かめたわけではないので」


 わたしは、ぎこちない笑顔になった。先日、人が鹿になったり逆になったりするのを目にしたわけで、絵空事だと最初から否定してはいけないと改めて感じた。どんなに不思議な現実でも、想像を越えていく。

 まだ殿下は呆気に取られた顔をしている。

 いけない、言いすぎちゃったかも。出すぎた真似をした気もするが、過去は変えられない。唇に弧を描き、一礼して旦那さまのところに急いだ。


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