パースペクティブ論

ジャギー

第1話 近代は宗教である

ほとんどすべての日本人が、現在の日本は近代社会だと思っている。いや、今や世界中が日本を近代社会だと認めている。しかし、「近代とは何か」を定義できる人が居るだろうか。

「近代とは何か」が定義できないのであれば、「日本は近代である」とはいえないはずである。

私は、こう考えている。日本は多神教の国だが、「多神教の国が近代化できる訳が無い」と。

その理由はこうである。

紙の上で立体を描くためにはパースペクティブという技法が必要なのだが、その場合は消失点が三つ必要である。それよりも少ない場合は立体の絵が立体らしくならない。

消失点が三つ揃わない一点透視画法や二点透視画法は、技法として未完成だといえるのではないだろうか。

三点透視画法だけがパースペクティブだといえるのではないだろうか。

そして私は文学の技法もパースペクティブだと考えているのである。

主人公の視点を意味する「一人称」は三点透視画法の第一の消失点の事であり、「神の視点」と呼ばれる「三人称」は三点透視画法における第三の消失点を意味する。「二人称」はあまり聞かないが、SF作家のレイ.ブラッドベリが実験的に二人称の小説を書いているので、あまり流行らないだけで、技術的には可能である。この小説の主人公は「あなた」である。

だからパースペクティブの第一の消失点は「自己」を意味しており、第三の消失点は「神」を意味している。そして第二の消失点は「あなた」だから「他者」を意味する。

この消失点には序列があって、第一の消失点(自己)よりも第二の消失点(他者)の方が上位であり、第二の消失点よりも第三の消失点(一神教の神)のほうが上位である。

そして、日本の「八百万の神」のような多神教の神々は、あくまでパースペクティブの第二の消失点を意味する。つまり、多神教の神は、じつは、「他者」なのである。「他者」とはキャラクターの事である。ひとつの宗教における神の人数が一人であっても、その神がキャラクターなら、その宗教は多神教なのである。

キャラクターの特徴は、「具象」(具体)だということ。

日本の場合は「八百万の神々」「天皇」「世間」「主君」「先祖」「仏像」などが信仰の対象だが、どれも具象である。

それに対し、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そして近代。この四つの宗教の神には「抽象的存在」という共通点がある。

近代はあきらかに一神教の宗教である。近代とは「客観信仰」のこと。信仰の対象が「客観」と呼ばれる抽象の神なのである。

日本をはじめとする多神教の国は第三の消失点が欠如しているか、相対化されているかのどちらかである。

つまり一神教の国と、多神教の国は構造が違うのである。

一神教の国は構造が三点透視画法、多神教の国は二点透視画法。

しかし、「客観」という第三の消失点を絶対化し、信仰しない限り、近代化は不可能である。

という事は、構造を変えない限り、日本は近代化できないということになる。

私が近代を「客観」を「神」とする宗教だと定義した理由を説明する。

客観とは何か。それは、無色透明の視線である。人間の主観には必ず色がついているが、神の視線には色が付いていないはずである。なぜなら、神の視線に色が付いてたら、「神は公平ではない」ということになる。世の中を支配する神が、先入観をもっている事になる。

また、神の視線に色が付いている場合、その神は「人格神」ということになる。人格神は具象の神なので、一神教の神、つまり、パースペクティブの第三の消失点ではないという事になる。

日本人のほとんどすべてが、「他者」というパースペクティブの第二の消失点を絶対化している。しかし、他者の視線はあくまで主観に過ぎず、必ず色が付いている。世間という、他者の集団の意見も色の付いた視線の束なのである。マスコミの意見も他者の主観に過ぎない。

確かに「自分の主観」より「他者の主観」の方が上位だが、主観は主観である。信仰するに値するのかどうか、よく考えるべきである。

一方、ヨーロッパが近代化した時に、さまざまな変化があった。

まず、サイエンスやテクノロジーが発展した。どちらも客観信仰の結果であり、科学者が自分や他者の主観(先入観、たとえば常識)を疑う事によって発展した。

また、近代が生み出した文学のジャンルに、ミステリがあるが、ミステリの主人公は常に疑っている。自分や他者の主観と戦っている。

日本の場合はどうか。

戦後の日本は建前としては民主国家だが、それがうまくいってない。その理由は近代化しなかったからである。

民主主義がうまくいくためには、有権者の側にメディアリテラシーが必要だが、メディアリテラシーを持つのは「個人」と呼べる人間だけである(この場合の「個人」とは、個人タクシーの「個人」ではなく、個人主義の「個人」である)。

そして「個人」とは、「近代」という、客観を神とする宗教の信者のことである。

これをパースペクティブで説明すると、まず「自己」という第一の消失点は相対化されている。なぜなら「客観」という第三の消失点が絶対化されているからである。そして第三の消失点が絶対化されたという事は、第二の消失点も相対化されているということである。つまり、自分の主観が相対化され、同時に他人の主観が相対化された状態を「個人」または「メディアリテラシー」と呼ぶのだ.


そんな訳で、すべての民主国家は近代国家でなければならない。

そして、すべての有権者は「個人」でなければならない。

メディアリテラシーの無い人は、もう選挙に行かなくていい。マスコミのアンケートにも答えなくていい。18歳未満の人間に選挙権を与えているのと同じだから。




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