ハッピーバースデー、ミセス・ガブリエラ

馬村 ありん

第1話

 俺には三分以内にやらなければならないことがあった。あるいは四分、または五分、もしかしたら六分かもしれない。いずれにしろ長くはない。俺の横っ腹には大穴があいていて、そこからはおびただしい量の血液がこぼれ出ているのだから。


 震える手でジャケットのポケットを探った。だが、そこにはおなじみのかたい感触がなかった。


 ――どこだ、どこにある。俺の携帯電話は。最後に女の声を聴いてきたい――この世でもっとも愛する女の声を。


 視線をめぐらせた。机を背に倒れた俺の前には二つの死体。三つの拳銃。


 死体のうちひとつは俺を撃った男だった。上に相棒とここで待つように言われ、コーヒーとタバコをたしなんでいたところ奴らが現れた。途端に互いの拳銃が火を吹いた。商売柄、刺客が来ることも予想はしていた――だがよりによって今日とはな。


 目当てのものがあった。相棒と相打ちになった方の男のそば、部屋のすみに転がっていた。撃ち合いになったときに手の中から飛んでいったんだ。五歩進めば手が届く距離。だが今となっては。


 俺は両腕に力を込め、い進んだ。体を使うと傷口が開いて、ますます血の気が失われていった。ぜいぜいと息が切れ、目の前がしらんだ。そうして筋肉運動の疲れに打ちのめされても、半歩も進んでいない。絶望。今の俺は間違いなく毛虫やナメクジ以下だ。


「ここは寝るところじゃないわよ、メッキー。寝るならベッドに行きましょうよ」


 柔らかな声が頭上から舞いおりた。


「ガブリエラ」


 俺は心の中で答えた。分かっている、幻聴だ。ガブリエラがこんな薄汚い場所にいるはずがない。今ごろペントハウスのリビングで飼い猫とまどろんでいるはずだ

――さしこむ日光――ただようベルガモットの香り。


「まだそのダサいセーターを着ているの? いい加減捨ててって言っているでしょ」


 いつのまにか元妻のブリジットからもらった真っ赤なセーターを着ている自分に気がついた。ダリアの模様を編み込んだ彼女の手作りだ。血を吸ったジャケットはセーターに変わっていた。いよいよまずい。認識力が低下しているんだ。


「ねえ、『フォー・シーズンズ』に行くのはどう? シャンパンが飲みたいわ」


「消えてくれ、ガブリエラ」


 俺は言った。


「幻聴じゃない、本当の声を聞きたいんだ、最後の時間に」


 最後の時間。それはどれだけ残されているのか。俺には六分以内にやらなければならないことがある。または五分、あるいは四分。もしかしたら三分かもしれない。


 煤煙ばいえんや油の染みた床を這っていった。何度か意識を失い、その度に体の感覚がなくなっていった。永遠にも思える時間が流れたあと、この手が携帯電話をつかんだ。


 震える指先で慎重にダイヤルを押す。間違えないように慎重に。番号を押そうとするたびに何度か意識が遠くなったが、俺は成しとげた。やがて天啓てんけいのようにコール音が鳴りひびいた。


「はい」


 声が聴こえた。なぜだかひどく懐かしい。心から愛した女の声だ。


「俺だ」


「――あなた、メッキー?」


「愛している……ガブリエラ」


 耳元で呼吸音が聞こえた。長い沈黙があった。

 

「本当にばかな男」


 声が響いた。音声は聞こえるのに、その意味までは理解できない。でも、それでいい。最後に彼女の声が耳朶じだをくすぐることだけがうれしい。


「私はブリジットよ」


 声が響いた。


「――ハッピー・バースデー」


 最後の言葉は声にならなかった。それだけが心残りだ。



終わり

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ハッピーバースデー、ミセス・ガブリエラ 馬村 ありん @arinning

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