ねがいごと

冷狸

第1話

 カラスには三分以内にやらなければならないことがあった。


 駅から近いマンションの6階に新しい命を迎えた若い夫婦が暮らしている。

 寝室にあるセミダブルのベッドの脇には白いベビーベッドが置いてあり、赤ちゃんが穏やかな寝息を立てていた。

 やがて起き出した赤ちゃんは大きな目をあけ、まわりに誰もいないことがわかると泣き出した。

 泣き声を聞いて、隣のリビングにいた夫婦がぱたぱたと入ってくる。

「よしよし、おめざめですねー」

 母親が優しく赤ちゃんを抱き上げ、父親は愛おしそうにその小さな顔を覗き込んだ。二人のまなざしに赤ちゃんもまた微笑を返す。

 父親は32歳、母親は26歳で結婚し、新築の賃貸マンションで新婚生活をはじめ、二年目で子どもを授かった。

 若い頃はそれなりに遊んだ父親も子どもが産まれると残業もそこそこにまっすぐ家に帰ってくるようになった。それは母親がやきもちをやくぐらいの溺愛ぶりだった。もちろん母親も娘に愛情を注いだ。

 両親の愛に包まれて赤ちゃんは育っていた。

 

 赤ちゃんの成長を見守っているのは両親だけではなかった。

 窓の外に一匹のカラスが電線に止まっている。

 カラスはじっと赤ちゃんを見ていた。



 カラスと赤ちゃんが話している。

 二人の会話は人間には「あー、うー」と「カアカア」にしか聞こえない。


「こうしてあなたと話せるのもあとわずかなのね。あとどれぐらい話せるの」

「もうそろそろだな。あとはあの二人にかわいがってもらえばいい。赤ん坊なんだから」

「泣くしかできないのって退屈。まだなにも食べられないし」

「そりゃそうだ。まだ酒が飲みたいのか」

「お酒ね。今度は飲み過ぎないようにしないとね」赤ちゃんは笑った。

「本当に全部忘れてしまうの」

「そうだ」

「あのね……。少しでいい。あの人に愛されたことを覚えていたいの。娘ではなく女として愛されたことを」

「忘れた方がいい。母親を憎むことになるから。なにも知らない娘として生きていくのがいい」

「わかっているわよ。でも、わたしから彼を奪った女におっぱいを飲ませてもらう気持ちがあなたにわかる? 堕ろしたのよわたしは。それなのに――」

 

 赤ちゃんはかつて男に遊ばれた女だった。

 マッチングアプリで出会い、男に愛されるために過ごしていた。はじめての彼氏だった。このままずっと一緒にいれると信じていた。

 それなのに男は職場の後輩と結婚した。

「好きな女ができた。ごめん」四年の恋愛を終わらせる説明はそれだけだった。

 別れてから泣いてばかりいた。

 一人の部屋で飲めない酒を飲み、誘われるままに抱かれて傷ついた。

 

 やがて、男が結婚したと聞いた。

 彼は幸せらしい。わたしはこんなにみじめなのに。あなたを想ってきょうも泣いているのに。

 女は駅のホームから身を投げた。

 彼女の死はローカルニュースにもなったが、普段テレビを見ない男がそのことを知ることはなかった。

 

 そこからの記憶はあいまいだ。誰もいない暗い場所で横たわっていると響くような低い声が聞こえた。



「おまえはどうしたい?」

「あの人に愛されたい。愛されるのならそれだけでいい。生まれ変わってあの人に心から愛されたい」

 私だけが愛していたなんて、そんなのずるい。

 

 その願いは叶った。

 気がつくと女は男の娘として生まれ変わっていた。

 生まれてすぐは前世のことも覚えていた。

 おどろくことに幽霊も見えるし、動物とも話せる。

 最近になって電線によく止まっているカラスと話すようになった。

 カラスは毎日遊びにきた。

 人間は産まれてから言葉を覚えるようになるぐらいまではこの力がみんなあることを教えてもらった。

 まれに胎内にいるときからの記憶が残るケースもあるが、ほとんどは全て忘れてしまうらしい。

 赤ちゃんがたまに激しく泣くのは前世の傷みや悲しみを思い出しているからだという。

 そして人間として産まれてこなかった命はなにかしらの動物になるそうだ。



「眠くなってきたわ。赤ちゃんってすぐ眠くなるのよね」

「おそらく次目覚めたら、もう記憶はなくなっているだろう。俺の声も聞こえなくなっているはずだ」



 もう時間がない。

 カラスもあの暗い場所で願った。

 どんな形でもいいからこの娘に会いたいと。

 カラスが娘と話せる時間はあとわずかだった。

 

「残念ね。せっかくお友達になれたのに」

「また会えるさ」

「そのときはあなたのこと覚えていないかも。でも、あなたはどうしてわたしにそんなに優しいの」

「優しいか。……俺はおまえの息子さ。産まれてこれなかったけどね。じゃ、おやすみ母さん」

 彼女がすべてを忘れるまえにこれだけは伝えたかった。

 赤ちゃんはなにかを言おうとしたがそのまま眠りについた。



 寝起きでなかなか泣き止まない赤ちゃんを今度は父親が抱っこした。

「本当に泣き虫さんでしゅねー」父親が赤ちゃんのほっぺにキスをすると赤ちゃんはピタリと泣き止んだ。

「この子、本当にパパが好きね」母親がそう言うと赤ちゃんはニヤリと笑った。



――少しでいい。あの人に愛されたことを覚えていたいの――



 うまくいったか。

 息子は母の願いを少しだけ叶えた。



 約束の時間だ。

 やらなければならないことがある。

 母さんが前世の記憶をなくしてから三分以内にあの暗い場所に戻らなきゃいけない。

 今度は俺が生まれ変わるのだ。

 あの二人の息子として。母さんの弟として。

 カラスは一声鳴くと、走ってきたトラックに急降下して向かっていった。



                                   了









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ねがいごと 冷狸 @takaya

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