男女の友情

糸冬

男女の友情

「近くまで寄ったからさ」

大学で同じゼミだった達也はそう言うと、笑おうとしてしそこなったようななんとも言えない表情を浮かべながら私と傍らの女性を交互に見た。

「たっちゃん」

思わず口から零れた懐かしい名前に誰より私自身が驚いた。達也とは卒業式の日以来、もう二年も会っていなかった。

「久しぶり」

「久しぶりだね。元気だった?」

「この近くのアパートに越してきたんだ。こいつ、綾子」

「こんにちは、たーくんと同棲中の彼女の綾子です。たーくんから話はいつも聞いてます」

綾子と呼ばれた女性は満面の笑みを浮かべると「八重ちゃん、ずっと会いたかったの」と言って私の手を握り、上下にぶんぶんと揺すった。

握手の習慣がない日本で突然初対面の人間から手を握られ、私は大いに面食らったがどうやらお客のようなので「お好きな席へどうぞ」と店内に案内した。

私は大学卒業後、定職にも着かず叔父がマスターをしている喫茶店でウエイトレスのアルバイトをしている。

就職活動も人並みにして一応就職もしたが、三ヶ月ともたなかった。今は求職中であり休職中だ。

別に隠しているわけではなく聞かれれば誰にでも普通に話していたので、きっと同期の誰かに聞いたのだろう。

そんなことを考えていると、達也が軽く手を挙げたので私は伝票片手に注文を取りに行った。

平日の昼下がり、店内に客は少なく達也と綾子の他には老夫婦が一組と会社員風の男性が一人いるだけだった。

「お決まりですか?」

「珈琲二つ。ひとつはケーキセットで」

「ケーキはガトーショコラ、ベイクドチーズケーキ、ブルーベリータルトからお選び頂けます」

メニューの写真に掌を向けながら営業用の澱みない口調で説明すると、綾子は私の一挙手一投足を観察していることを隠そうともせずに「ガトーショコラで」と甘ったるい声で言った。

「ごめんね、急に来たりして。綾子が会いたいって聞かなくってさ」

「だってたーくん、いつも八重ちゃんの話ばっかりなんだもん」

「いつもはしてないだろ」

「えぇ、怖い。なんの話されてるんだろ」

作り笑顔を浮かべながらも私は心底困惑した。

達也とは同じゼミだったが特別親しかったわけではなく、所謂男女の仲になったことも神に誓って一度もない。

同じグループの中にいたのでなんだかんだといつも一緒にいたし、一緒に遊びに出かけたり旅行にも行ったことはあるが、あくまでグループ交際だ。

同棲中の彼女を伴ってわざわざ会いに来られるような特別な間柄ではないし、私の方には達也にいつも話題にあげられるような特別な思い出を共有している心当たりがなかった。

「写真は見せて貰ってたけど、実物の方がずっと可愛いね」

「おい、やめろよ綾子」

「何の写真見せたの?」

「ゼミの旅行のやつとか?」

「えぇ、やめてよ恥ずかしいなぁ」

「ゼミの中で八重ちゃんが一番可愛かった」

綾子が大真面目にそう言うので私は謙遜していいものかお礼を言っていいものか悩んだ末、曖昧な微笑みを浮かべると「ご用意致しますので少々お待ち下さい」と言って一礼し、テーブルを後にした。

叔父の言いつけを守り、ドリッパーとサーバーにお湯を通して器具を温め、その温めたお湯をコーヒーカップに注ぎ、カップも温める。

ペーパーフィルターをドリッパーに密着させて二杯分の珈琲の粉を入れ、ドリッパーを持ち上げ左右に揺らして、粉の表面を平らにする。熱湯の入ったケトルで出来上がり量までお湯を注いでいく。

一回目は珈琲の美味しさを決める一番大切な工程だ。粉全体にお湯が浸み込む程度に中央から外側に向かって渦を描く要領で丁寧に注ぎ、二十秒程待つ。

二回目は珈琲の風味が一番良く出るのでたっぷりと注ぐ。小さな円を描くように繰り返し注ぎ、ドリッパー内の湯量が上がって表面が平らになったら注ぐのを止める。ここで風味豊かな味わいが引き出される。

三回目以降は注ぐタイミングがとても大切だ。中央がくぼみ、表面の泡の層が崩れないうちに二回目と同様に注ぎ入れる。

二回目に一番多くのお湯を注ぎ、三回目、四回目と湯量を減らしながら注ぎ分ける。出来上がり量になったらドリッパーを取り外し、コーヒー濃度を整えるように攪拌して、予め温めておいたコーヒーカップに注ぐ。

「ねぇ、八重ちゃん」

突然カウンター越しに声をかけられ、作業に集中していた私は思わず弾かれたように顔をあげた。

「ボタン、外れてるよ」

「え、」

慌てて確認すると制服代わりの白いブラウスのボタンが四つ目だけが外れていた。

私が手を止めてボタンを嵌めようとすると、綾子は「じっとしてね」と背伸びをして手を伸ばし、器用に片手でボタンを嵌めた。

「……これでよし」

「ありがとう、ございます」

ぎこちなく礼を言うと、綾子は目を細めて口元だけで笑って腰の後ろで手を組み「御手洗行ってきまーす」と言って軽快にターンをした。

達也の方にちらりと視線を送ると、達也は困ったように笑い、片手を上げてごめんのジェスチャーをした。

一体、何がごめんなのだろう。

綾子をうちに連れて来たことだろうか。それとも綾子が私への敵意を隠そうともしないことだろうか。はたまた綾子にあらぬ疑いを抱かせたことだろうか。

「お待たせ致しました。ブレンド珈琲がお二つとセットのガトーショコラでございます」

綾子がトイレから戻ったのを見計らい注文の品を提供すると、達也は「ありがとう」と礼を言ったが、綾子は何も言わずに両手で頬を包むように頬杖をついて私の顔をじっと見ていた。

「ごゆっくりどうぞ」

笑顔で一礼しテーブルを後にしながら、私は男女の友情というのは厄介なものだとため息を吐いた。

「友達?」

カウンターの奥でグラスを磨いていた叔父にそう声をかけられ「同じゼミだった子。別に元彼とかじゃないんだけど、彼女がなんか誤解してるみたいでちょっと怖い」と端的に答えると叔父は何が面白いのか声を上げて笑った。

「笑わないで」

「修羅場だねぇ」

「謂れのない修羅場は勘弁です」

私が憤慨しながらそう言うと、叔父は彫りの深い顔をくしゃくしゃにして「八重ちゃんも罪な女だねぇ」肩を揺すって笑った。叔父は善良だが根っからのゴシップ好きなのだ。

達也と綾子は一時間半ほど滞在し、結局達也も追加でベイクドチーズケーキを注文した。

会計をしたのは達也だった。

「じゃあまた、今度大学の奴らで集まろ」

「その時は是非綾子さんも」

達也と綾子が退店すると私は大きく息を吐き、首と肩を回すとすぐにテーブルを片付けに行った。一刻も早くも悪夢のような時間の痕跡を消し去ってしまいたかったのだ。

カランと鐘が鳴り顔を上げると、そこには綾子が立っていて私は咄嗟に声が出ず閉口した。

「……忘れ物ですか?」

椅子の上やテーブルの上を確認しながらそう言うと、綾子は「うん」と悪戯っぽく微笑み、手帳の切れ端のような紙を私のサロンエプロンのポケットに押し込んだ。

「また来るね」

綾子はそう言うと、ワンピースの裾を翻して小走りに出て行った。

カランカランと乾いた音で鐘が鳴る。

ごくりと生唾を飲み、ポケットの中の紙片を探り出し恐る恐る開き、私は思わず息を飲んだ。

生成りに紺の架線があるその紙には何も書かれていなかった。

「ね、何が書いてあったの?」

興味津々の叔父に向かって肩をすくめ、私は手の中の紙片をぐしゃりと握り潰した。

「何も」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

男女の友情 糸冬 @ito_fuyu_owaru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ