虚像に眩む

酔生堂

事の顛末

 私には、マナミという友人がおりました。おりました、というのは、昔は確かに友人だったような気がするのですが、めっきり顔を合わせることも減り、手紙などのやり取りもなく、いよいよもって疎遠、マナミという名の響きだけを覚えているけれど、それをどのような字で表したかしら、そもそもマナミではなくサナミやナナミという名だったかもしれない、自信がもてない、その程度の相手、今は、友人と呼んでもよいものか、わかりません、ですので、過去に友人であったというふうに、書きました。そんな具合でありますので、今後も彼女のことを、マナミ、マナミと書きますが、現実彼女の名がマナミではないかもしれないこと、本当はサナミでもナナミでもなく、イツキであったりユイであったり、そんなマナミとは似ても似つかぬ響きをした名の持ち主であり、私がただ、これを、これから書く様々、多くは私の恥の話を、万一でも彼女に読まれ、あまつさえ、ははあこれは、学生時代に幾らか共に過ごした誰それ、あの女の書いたものか、などと悟られることのないよう、わざとマナミと記しているだけかもしれないことを、御承知おき、願いたいのです。私はこれから、私について、書きたいことをあれこれ書き記しますが、そこには少なからず、虚偽、ハッタリ、妄想、意図してねじ曲げた事実、意図せずしてねじ曲げた真実、そういったものが含まれているかもしれないのを、これもまた、御承知おき願いたく、なおかつ、とりもなおさず、嘘をつくような形になってしまうことを、申し訳なく、後ろめたく思っていると、記しておこうと思います。

 まず、己について、書くべきでしょうか。これから先、書いていくにあたり、私がどのような女、人間、どんな家庭に育ち、どんなものを好きで生きてきたのか、どこまで記すべきでしょう。なにぶん、筆をとるのも、不馴れ、学は、御両親があれこれと気を回して、十二分なほど積ませていただきましたが、もとより頭が弱く、いくら素敵な石を積み上げ積み上げしても、土台が貧弱なのでは、うまく成り立ちませんのとおんなじ、こういっては、御両親に申し訳がなく、また賢しげな感じがして、嫌なのですけれども、やはり、実質的には、私は学のない女ですから、こういった時にまごついてしまって、いけません。ですけれども、書くと決めたからには、書かなくてはならないし、なにより、このようなものを書こうと思うのですが、冒頭、書き出し、この部分に、自己紹介、入れるべきでしょうか、そんなことを聞ける先生も、いません。いませんというのは、今の私は学生ではなくて、学校に通っていなくて、たとえば習い事、年相応の、簡単な運動や、お習字、勉強会、そういったものもなにひとつ、していないから、私の先生という立場の人が、いません、そういう意味なのがひとつ、それとは別に、たとえ私に先生という立場の人がいたとしても、その人に、これを書くことを明かし、中身を説明し、あれこれと訪ねる、そんなことはしたくない、恥ずかしくて、とても、できない、私には、私の内情をつまびらかにすることができる、しようと思える間柄の人が、さっぱりいません、そういう意味なのが、もうひとつ。ふたつの意味で、私は、これを書くにあたりのさまざま、一切、よそに相談することができず、ただ机の前で、まごまごやっている次第で、これから、ちゃんと、自分について書きますが、それが一般の、文学、文芸、そのような高尚なものの型からずれた、それか、学生の作文のやりかたから外れた、おかしな形になっていても、どうか、一笑、それだけに済ませていただきたく、思います。さて、己の話、私の生まれは、お世辞にも都会とはいいがたい、それでいて田舎とも言いきれないあたり、近くに大きな駅があるけれど、そこに行くまでには最寄りの駅から電車で、片手の指の本数くらいの駅を越さないといけないくらい、けれども、最寄りの駅まで行くのにバスは、要さない、歩いて十分ともう少し、スーパーもコンビニも歩いて五分くらい、そのような場所に生まれました。家は白に程近い灰色をしたマンションの、四階、端から三番目の扉、リビングの他にお部屋がふたつあり、私が中学校に進学するにあたって片方のお部屋を与えられ、隣人や大家さんとのトラブルというのも、私の知る限りでは、一度も起きていない、いかにも平穏そのもの、手頃な住居、お家賃がどれくらいかは、知りません。子供は私だけ、御両親、揃ってお働きになっていたので、お金だって、日銭に困ることは到底ないくらい、余裕があったと思われます。本当に余裕があり、稼ぎが充分ならば、働き手ひとつで、家族三人、養ったのかもしれませんが、これは、尊敬、羨む思いになります、御両親とも、働くことを嫌がらず、むしろすすんで働きに出る、仕事の愚痴など、聞いたこともない、そのような状態でしたので、本当は、御両親のどちらかさえ働けば足りるものを、わざわざ共働きしていたのかも、しれません。とにかく私は、金銭に不自由せず、育つことができました、その証拠にというのは、些か乱暴ですが、中学校に進学する際にも、地元すぐの公立校ではなく、少し離れた私立校に、いわゆるお受験をして、無事に合格となりましたので、私立の中学校に通わせていただきました。私が私立の中学校に通いたいと言ったのではなく、御両親、どちらかか、両方、それか、親戚のどなたか、そのあたりの誰かが、私を私立の中学校に通わせることを、推奨したはずなので、私のわがままで、御両親に無理をさせたわけでは、ないはずです。お受験は、それなり、お勉強や面接の練習よりも、だいたいみんな、公立校へ進むから、お受験なんて考えず、毎日遊んで、私のことも仲間に誘ってくれるのですが、私はそれを、断らねばお受験の準備ができず、だからお断りし続け、次第に誘われなくなり、爪弾き、そういう、よその子との距離感の変わりよう、兼ね合いの取れなさが、大変でした。ですが、入学式の日、可愛らしい制服に身を包み、母と共に電車に乗り、校門の前で記念に写真を撮り、学校の敷地に足を踏み入れた時、私はこれから、この学校の生徒として過ごすのだと、実感が一気に湧いて、途方もなく嬉しい気持ちになりました。実をいえば、お受験にあたり、私を爪弾きにするようになった、あのお友だちたちを、深からず憎んでいました。でも、もう、どうでもいい。私はこれから、この、可愛らしい制服を着て、美しい外観の校舎に通い、勉学に励み、新たなお友だちを見つけたり、部活動をやったりするのだ、公立の、ぼろな校舎で、なんだかぱっとしない制服を着る、彼女たちとは、違うのだ。私は喜び、今思えば、それは、優越感でもありましたが、その喜びがゆえに、体育館で聞いた、校長先生の、長いお話、それから、教室で、先生のまた長いお話、それらの内容を、さっぱり覚えていません。なにがなんだか、よくわからないうちに、入学式は、解散、皆様、それでは、ごきげんよう、そこでやっと、私は、自分が入学したのが、女子中学校であったと、思い出したというか、再認識したというか、事実が実感をもったというか、そんな具合に、はっとしました。翌日は、校内見学、校歌の練習、その翌日は、同級生の仲を深める、レクリエーション、入学式から数日は、お勉強よりも学校に慣れることのほうが優先らしく、そんな学校の狙い通りに、私は数人のお友だちを作り、クラスの子の顔と名前はおおよそ覚えて、学校生活というものに馴染んでいきました。電車に乗って通うため、朝は、六時頃に起きなければならず、それは少し辛かったですが、慣れてしまえば、たいしたことは、ありません。いわゆる通勤ラッシュ、スーツを着たサラリーマンの方々と、毎朝、電車に揺られると、地元の中学校に通うより、幾分、大人っぽい感じがして、それはそれで、嬉しい気持ちになるのでした。一週間と少しくらいでしょうか、遊戯じみた学生生活もそろそろ終わり、本格的に授業が始まりました。毎日お勉強、私立の学校ですから、土曜日も午前中にだけ授業がありまして、実質的な休日というのは、日曜日だけ、それでも、そのたった一日すら惜しいほど、私は学校での生活を謳歌していて、部活動にも、入りました。運動をなにか、しておいた方が健康的かしら、そう思いながらも、これは今現在ですらそうなのですが、運動というものがてんでだめで、なにもうまくできない、団体競技は、周りに迷惑をかける、個人競技は、つまらない、それが容易に予想できたので、諦めました。運動部は、とにかく走り、しごかれ、汗をかいて、くたくたになる、そんな偏見がありましたので、くたびれているのに、帰宅ラッシュの満員電車、それは、辛い、そうも思っていました。かといって、音楽もできない、お絵描きも、下手の横好き、美術部などに乗り込むような腕は到底なく、演劇には興味がありましたが、人前に立つのは恥ずかしい、裏方はなんだか難しそう、そうしてあれこれ悩み、家庭科部という名の部活動に所属することになりました。活動内容は家庭科の授業、だいたいそのまま、お料理、お裁縫、そんなことばかりです。部活動というのは、三学年それぞれの学生が集まるし、同じ学年でも、他のクラスの子がいて、よその学年、よそのクラスの人と接する、丁度いい機会になります。私はそこで、マナミに出会ったのです。

 段落を、変えるべきでしょうか。なんだか、私の話ばかり、書いている気がします。学校のお勉強では、話題の変わる時に、段落を変えるものだと教わった気がしますが、これまで書いたどれもが、いえ、おそらくはこれから先に書くどこまでもが、私の話なのですから、話題の変わる起点が、わかりません。論文みたいに、これが序論、本論、結論、と分かれているなら、悩むことなく、自信をもって、これが序論、本論、と段落を変えてしまえるのですが、これは、論文では決してありませんから、適宜、段落を変えなければなりません、でも、本当に全部、私の話、マナミの話題も挙げますが、それだって、私という主観から見たマナミの話で、私の話みたいなものです、それならもう、最初から最後まで、一つの段落に収めてしまうのが、理にかなっているような感じもするのですが、段落が一つだけの文章で、長ったらしいのなんて、読めたものではありません。どうしたら、ちゃんと筋の通るように段落を変えられるのでしょう。けれど、世に溢れる小説の数々、あれはたまに、同じような話題が続いているのに、わざわざ段落を変えていますから、同じように、よくわからないままで、段落を変えてしまっても、いいのかも、しれません。きっと、いいはずです。

 マナミは美しい女でした。女であるというのは、女子中学校であるのだから、当然ですし、見目の整った少女というのも、私の通っていた中学校では、たくさん、それはもう、右を見ても、左を見ても見つかるくらい、いましたから、美しい女という形容だけでは、彼女のことを表すのに、不足があります。マナミの美しさを細分するのであれば、それはつるりと滑らかな、上手に殻を剥いた茹で玉子みたいな肌と、形のよい唇、くっきりとした二重瞼と、草食動物のような長い睫毛、細い首、結べないくらいの短さをした艶のある髪、そうして、彼女を構成する要素の、どれもが美しいのです。それは、前提、常識として、そうなのですが、なかでも私は、彼女の、姿勢、背筋のしゃんと伸びて、まっすぐ前を見据える、素晴らしき直立の姿勢を、彼女の美しさの、もっとも美しい部分として、挙げておきたいのです。無理に背伸びして、わざと顔を上げて、見栄っ張りに、立つのでは、なく、そういう人は、やっぱり、ふとした時に、ちょっと胸を張ったり、視線がちょっと迷ったり、するものでしょう、マナミには、それがない、一切、自然、完璧に身に染みついた、なよなよしさのない、凛々しさのある姿勢でした。いま、凛々しさと書きましたが、これがマナミを示し、他の女子生徒らと差別化するのに、適した言葉の気が、してきました。マナミは、凛々しい、もちろん、凛々しいばかりではありませんが、そうでした。マナミ自身、そうあろうとしていたはずです。あるいは、それは、姿勢と同様、染みついた有り様、自然に滲み出るものであったのかも、しれません。とにかく彼女は、同年代の女子生徒たち、ここには私も含みます、それらの持つ、幼稚さ、とでもいうのでしょうか、お姫様に憧れたり、魔法少女のステッキを親にせびったり、そういう、少女性のようなもの、それが、ひどく、薄かった。同年代より、ひとつふたつ上の年齢の、当時の私からすれば、御姉様、と呼びたくなるほど、やけに大人びて見える年上の先輩がたより、マナミは、凛々しく、高嶺の花じみた独り立ちの様子をしていて、しかもそれが、決して嫌味なものでは、ありませんでしたから、一人だけ、まるで、お姫様ばかり訪れた舞踏会の、王子様のように、私には、見えました。生意気、と罵る先輩や、それに同調する同い年の子の話も、聞いたことがありますが、そんなものは、ただの、ひがみ、いじめにもならない、小さな火種に、過ぎません。そんなものが、マナミに影響を与えることなど、あるはずもなく、家庭科部は、平穏に活動を、続けました。私はマナミの、その凛々しさ、独り立ちの様子を、いたく気に入り、憧れに近い感情をもっていましたが、それは、私もそのようになりたいというものではなく、むしろ、絵本の王子様に焦がれるような、遠い存在、テレビなどに出てくる、有名人に向けるようなもの、そういった類の憧れでした。部活動の最中で、マナミと一緒に、何かをするとき、言葉を交わすとき、私はちょっと、どきどきして、手元が狂わないか、それでマナミの前で恥をかかないか、心配になるほど、彼女のことを、意識していましたが、幸いにも、それをマナミに指摘されることなく、やっていくことが、できました。ある日は、お裁縫、ハンカチに、好きに刺繍をして、完成したら、それぞれで、贈り合う、またある日は、お料理、お魚を、おろして、煮付け、お米も炊いて、みんなで少しずつ分けて、お夕飯前の軽食、またある日は、絵本を各々作り、読み聞かせ。学業に、不振もなく、交友関係も、広く、家族の仲も変わることなく、私の毎日は、充実しておりました。こうして振り返ると、私が中学校に入学させていただき、一年間は、それほど、マナミとの交流は、なかったようです。中学生の頃を思えば、真っ先にマナミの顔が浮かぶというのに、これは、意外なこと。記憶というのは、そういうものでしょうか。

 中学、二年生に上がりました。一年生は、あっというま、二年生も、あっというま、もうすぐに、高校進学について考えなければ、そのように、先生はおっしゃいました。私は、先生の話も、右耳から左耳へ、通り抜けていって、ただひたすら、上の空、なぜかといえば、二年生に進級すると同時に、恒例行事、クラス替え、それによって、私は、マナミと同じクラスに、なったのです。部活動の他では、マナミについて知る機会が、それほどなく、家に遊びに行こうにも、お互い、電車に乗って通学しているから、学校帰りにちょっとおうちに寄る、なんて気軽なこともできず、休み時間も、私には、部活動以外で仲良くしていたお友だちが、おりましたので、そちらと遊ぶのに使っていて、マナミが、例えばお勉強、できないということはないだろうけど、どれくらいできるのかしら、どのような姿勢で、授業を受けるのかしら、授業中の挙手は、積極的に行うタイプなのかしら、そういった、同じクラスだからこそ知ることができる、マナミの新たな一面というものを想像し、私は、わくわくしました。浮かれていたので、先生のお話の終わったのに気づかず、それでは本日はここまで、皆様、起立、ごきげんよう、その号令の、起立、の部分で、大いに遅れをとって、一人だけ、がたんと音を立てて椅子から立ち上がり、ごきげんよう、は上擦って、恥ずかしい思いを、しました。それは当然、マナミにも気づかれていて、放課後の、家庭科部の集まりでは、ちょっとだけ、指摘、それから、くすくす笑われて、それを話の発端に、これから一年、よろしくね、そういう話を、しました。それからは、特段、話が盛り上がったわけではありませんでしたが、なにせ、毎日クラスで顔を合わせ、部活動でも顔を合わせるので、私たちの仲というものも、それなり、自然に、深くなっていきました。私の想像通りに、マナミはお勉強が得意な様子で、テストの前に慌てふためいていることも、授業中に問題の答えを聞かれてしどろもどろになることもなく、また、提出物を出し忘れたということも、一切ありませんでした。マナミは、どうして家庭科部などにいるのかと、聞きたくなるほど、運動も得意で、足が一番速いとは、さすがに、いきませんでしたが、体育祭では、リレーの選手に選ばれ、一人を追い抜いて二番手から一番手へ上がり、ドッヂボール大会では、ボールをキャッチしては、相手の子の足元にボールを投げて当て、至近距離から投げられるボールも、ひらりとかわし、準決勝までそうして奮闘、三年生の先輩がたのチームに負けて、校内で四番目か三番目、そういう順位になることが、できました。体育の授業や、体育祭などは、武道とは違うものなのでしょうが、体を動かすこと、全般として、武道を解釈させていただくならば、マナミは、文武両道、そういう言葉のぴったりな人でした。それから、同じ教室で授業を受けるようになり、再認識したことなのですが、マナミは本当に、姿勢が良く、授業で板書をノートに書き写すにせよ、立ち上がって教科書の内容を音読するにせよ、お昼休みにみんなで机を合わせてお昼ご飯を食べるにせよ、何をしていても、背筋がすっと伸びた、あの、独り立ちの様子をしていて、背中のぐんにゃり曲がったところなど、見たことが、ないのです。何度目かの席替えのタイミングで、私はマナミの、隣の隣、窓側と廊下側があるうちの、マナミを窓側に、一人間に入って、廊下側に私、そのような席になりました。ある日、風邪をひいたらしく、隣の席の女子生徒が、お休み、ぽっかり一人分の席を空け、私とマナミを遮るものはなくなり、私はへんに、どぎまぎして、マナミの方を見ることも、できずにいたのですが、それでもお昼休みを終え、慣れてきたこともあり、ちらと彼女の方を見ることができ、そこではっと、目を奪われました。たぶん、夏が近かったのでしょう、窓から見える空の青いこと、雲の厚く白いこと、そしてその手前で見る、マナミの横顔の美しいこと。外が明るいせいで、幾分影を落としたようになるマナミの横顔、額の滑らかな曲線、そこから繋がる鼻筋、線がすとんと落ちて、形の良い唇、顎、のどぼとけのない僅かな凹凸で構成された喉、制服の襟と、その下の柔らかく膨らみかけた胸元、あの瞬間を写真か、絵画か、とにかく何かしらの媒体に残せたら、どんなに良かったか。見とれていたのが、マナミ本人に、気付かれて、小さくひらと手を振られ、前を見るようちょいちょいとジェスチャーで示され、気恥ずかしい思いで、私は黒板に向き直りました。板書をノートに書き写し、先生の注釈も一緒に書き添えながら、心か頭のどこか、授業に集中しきらない部分が、たびたび、マナミの横顔を思い出させるので、それからの授業は、あまり、受けた気がせず、家に帰って復習と宿題をする時に、難儀しました。その日、部活動は、なかったのですが、それでよかったと思います。なぜなら、もし一緒に、顔を合わせなければならないようでしたら、私は恥ずかしさで、仮病、それもマナミが同じクラスにいるから難しく、ずる休みもできない、マナミと顔を合わせることもできないで、大変な思いをしていたでしょうし、それで、周りの子に、要らぬ心配をさせてしまったはずだからです。

 周りの子といえば、二年生に進級し、私にも、後輩というものが、できました。私にも、とはいいますが、私の直属の後輩、などというものはありませんし、私の出身の小学校から進学してきた後輩も、いませんでしたので、私の、と一言にまとめてしまうと、語弊があり、正確には、私たちの、後輩ができたのです。ひとつしか年が変わらないのに、袖の余った大きめの制服に身を包み、緊張した面持ちで校内を歩く新入生の姿は、ずいぶんと幼く見え、なんでも教えてあげたい、そう思いました。私が一年生だった時、三年生だった先輩がたは、当然ですが、その時は既に卒業していて、これがまた、ふたつしか年が変わらないはずなのに、晴れ着の着物を着て、髪を結いあげた先輩たちは、これから高校生になるのだという事実も相まって、ひどく大人っぽく、いつまでも追いつかないほど遠い、そういう存在に、見えていました。たったひとつ、たったふたつ、それだけの年の違いで、私は生まれたのが早い方でありましたので、早生まれの先輩とは、ほんの数か月しか変わらないこともあり、それでも、どうしてか、遠い存在に見えるのでした。同様に、ひとつしか変わらない後輩も、実際の生まれの差より大きく、年の離れた存在のように思えて、特に、家庭科部に入部してきた後輩は、妹のように、可愛がりました。後輩たちは、最初、おどおどしていましたが、次第に打ち解けてくると、今度の活動ではあれをやりたい、これをやってみたい、と自発的に意見を出してくれることも、増えてきて、部活動はより活発に、私たちの仲はより深く、なっていきました。私はそれほど、背が高くない、はっきりいえば、背の低い、ちびの部類でしたし、そのせいで、下級生に間違えられることも、多く、制服はいつまでも、袖が余っていて、顔も、幼い感じだったのかも、しれません、とにかく、あまり、威厳のある風体では、ありませんでした。そのせいか、はたまた、もっと別な理由があるのかも、しれませんが、私は後輩の子たちに、尊敬されるというよりは、なつかれる、そして時々、後輩にさえ、かわいがられる、先輩として尊敬されたいなどと、傲慢なことをいいたいわけではないのですが、とにかく、そういった調子で、先輩として後輩たちから尊敬されるといえば、やはり、マナミなのでした。マナミは先輩になり、数か月、いえ、数週間かもしれません、あっという間に、お姉さんのような、大人っぽい雰囲気をまとい始め、それでいて、気取らない、さっぱりとした、あの高嶺の花じみた独り立ちの様子は続いて、むしろそこに磨きがかかって、頼れる先輩、憧れの先輩、そういったものになっていきました。短めに整えた髪、すらりと高い背に華奢でしなやかな手足、少し低めの穏やかな声、そしてやはり、繕わず背筋の伸びた姿勢。学校の王子様、とマナミが影で呼ばれていたことを、私は知っています。後輩たちが入学してくるより前から、ひそやかにそう呼ばれていたものを、後輩たちが入学し、年上の御姉様、憧れの的、そうして色めき立ち、ひそやかというにはあまりに大きな声で、王子様、と呼ぶ風潮が高まっていたのですが、学校の中で、マナミ本人に、王子様みたいと呼んだ子がいて、それに対して、マナミは微笑み、柔らかな声音で「ごめんね、王子様ではないんだよ」と返し、これがきっかけで、この風潮は、ぱったりなくなった、かと思いきや、実はこっそりと続いていて、それこそ後輩たちが入学してくる以前の、ひそやかな呼び方に戻ったのです。だから、表立って呼ぶことはなく、影ながら、学校の王子様、と呼ばれていたのですが、マナミはそれを、知っていたのでしょうか、知らなかったのかもしれないし、そもそも、興味がそれほどなかったのかも、しれません、私には、マナミのことが、それほどよく、わかってはいないのです。ただ、王子様ではない、という言葉から生まれる疑問、ならば王子様以外のなんであるのか、それに対する答えのようなもの、マナミのあろうとしていた姿は、私は、わかっているのです。それを知る機会は、中学二年の、秋ごろでした。

 一年半ほど通えば、電車での通学にもすっかり慣れて、どうしても満員になってしまう電車の中で、少しでも空いているスペースを探すことは、諦めましたが、少しでも楽な姿勢をとることは、できるように、なっていました。電車が揺れるたびに、右から押され、左から押され、吊り革を掴むのにつま先立ちをする必要がありましたが、そんなことをする余裕は、満員電車の中では、ありません、手すりをどうにか掴める位置、それか、椅子の横か扉の近く、とにかく、壁を頼りに、場所をとることで、私はなんとか、満員電車を、やり過ごしていました。肩掛けの鞄を体の前に抱えて、身を縮めても、隙間が空くことなど、ありませんから、逆に、自然に、なかば脱力して、揺れる人の波に合わせて、私も揺れる、それが一番、楽なのでした。本当の、満員電車、朝の八時くらいでしょうか、それくらいの時間には、さすがに、潰されてしまいそうで、電車に乗るのが、恐ろしく、また、御両親も、まだ中学生なのだから、大人に揉まれて毎朝登校するのは、しんどいだろう、車で送り迎えしてやれればいいのだが、それは、仕事があるから、できない、代わりに、朝は少しだけ早く、みんなで起きて、満員電車の本当のピークが来る前に、送り出そう、そのようなことを言って、その通りに、してくださいました。父は、お仕事で、帰ってくるのがとても遅くなる日も、あったのに、文句ひとつ言わず、私と一緒に、六時ごろ、起き出してきて、一緒に朝食をとって、くださいました。母は、前の日のうちか、それとも、朝方か、わかりませんが、朝食の準備をして、私や父が、自発的に起きてこなければ、起こしにきて、父と同様に、一緒に朝食、とってくださいました。二人とも、それほど遠い勤め先に働いていたわけでは、ないはずなので、お仕事に出勤するだけならば、もう三十分、一時間、ゆっくり寝ることが、できたはずです。それでも私のために、一緒に朝食を、とってくださり、それだけでなく、本当は車で送り迎えをしてやれたら、と度々私に言って、嫌になったらすぐに言うんだよ、仕事をやめてでも送迎してあげるからね、とまで、言ってくださるのでした。私は、ただ、学校に通わせていただいていること、何不自由なく学校生活を送れていること、お小遣いも余るほどもらい、休みの日には折を見て動物園などに連れてっていただけていること、それだけでも、これ以上なく、ありがたかったのに、そうして、私のご両親は、私に様々、気を回してくださるのでした。おかげさまで、私は順調に、中学二年生の秋までを過ごすことができました。友人も増え、先輩、後輩、同い年、そのどれもが、同じ中学校の生徒ではありましたが、交友関係は広くなり、お勉強は、私立だったからでしょうか、少し、難しい気はしたのですが、それでもなんとか、赤点は取らずに済み、授業態度をよく褒められ、成績も、上の方ほう、順風満帆、その言葉の、私にあんなにぴったりと当てはまる時期は、あの時期だけだったのかも、しれません。まもなくして私は、乗り慣れた電車の、乗り慣れた車両、あまり毎日別の車両に乗るのも、せわしないというか、変える必要性を、感じず、何の気なしに、同じ車両の同じドアから乗り、壁際に身を寄せるというのが、ルーティンのようになっていたので、その日もそのように、しておりました。私の乗車する駅では、乗客はそれほど多くならず、そこから駅を、二つほど行くと、どっと人が乗りこんできて、あっという間に、ぎゅうぎゅう詰め、その日も同様に、二つ目の駅で、スーツを着たサラリーマンらしき方々が、流れ込み、私の傍らに、顔は見ていませんが、周りと同様に、恐らくスーツを着て、そのかたが、毎日同じ車両に乗っていたのか、私には、知る由もありませんが、特段目を引くような奇抜さのない、平凡な、男性、記憶は定かではありませんし、当時も見てなどいなかったでしょうが、確かに男性が、立ちました。押し込まれたせいで吊り革が掴めなかった男性は、私の背が低いからか、躊躇いもなく、私の頭上の辺りに手をつきました。ドアが閉まり、出発進行、がたんごとんと揺られ、快速急行でしたので、私はぼんやり、壁に身を預けながら、ドアについた窓から見える、外の景色を眺めていました。マナミは、移動時間に、小さな冊子を開いて、お勉強していると聞きましたが、到底、そのようなことができる余裕は、ありません。ぼんやり、見慣れた景色を眺めるばかりです。しばらくして、電車の大きく揺れ、傾くタイミングがあり、これは毎朝、そこで線路がカーブしているのか、そのようになるのですが、その折に、私の頭上の壁に手をついた男性が、体勢を崩し、私に寄りかかって、きました。寄りかかるというより、私は潰されかけていたのかも、しれませんが、満員電車は、一度体勢を崩すと、そうしてできた隙間が、瞬時にぴったりと埋まってしまい、立て直すことが、困難、私もそれを、知っていたので、男性を可哀想に思い、また、仕方のないことと諦め、潰されたような状態のまま、電車が次の駅に停まるのを待ちました。次の駅が、ちょうど、私の降りる駅で、私の寄りかかっている壁の方のドアが、開くのです、私はそこから降りるだけでしたし、そこが私の通う中学校の最寄り駅でもありましたので、今日も遅刻しないで済むし、宿題もちゃんとやってきた、朝早く出る分、教室はがらんとしていて自習にうってつけなので、何の自習をしようか、そんな風に考え事ばかりしていましたから、私に寄りかかる男性が、どんな動作をしていたか、私は全く、知覚していませんでした。のうのうと壁に寄りかかり、駅に到着、人の群れに流されるように改札へ向かい、歩いて、中学校まで行きました。すべてはいつも通りでした。下駄箱から上履きを取り出して履き、代わりにローファーをしまい、階段をのぼって三階へ。当時は二年生の教室は三階で、三年生は二階、一年生は四階、そのように振り分けられていたので、学年が上がった際には、これで一階分上がらなくてよくなるぞと喜んでいたものです。廊下には朝の日差しが差し込み、蛍光灯がついておらずとも、ほどほどの明るさを保っていました。秋の涼しい風が、細く開けられた窓から入り込み、首筋を撫で、その冷たさに冬はマフラーを巻かなければと考え、マフラーはどこにしまったかしら、そのようなことを考えながら、私の通う教室のドアを、がらりと開けました。大抵私が一番乗りの教室に、マナミが一人、すっと背筋を伸ばした姿勢で椅子に腰かけ、自分の席で何やら文庫本のようなものを読んでいたのは、あれは、偶然だったのでしょうか。今思うと、運命じみているように、感じます。マナミがいると思っていなかった私は、ほんの短い間、放心、その間に、マナミにおはようと言われ、やっと挨拶を返しました。それから私も自分の席に近付き、机の上に鞄を置いて、椅子を引き、座る。その時にようやく、私は、自分のスカートにべったりと付着した、白濁した液体の存在に気が付きました。

 あの時、それを精液であると理解し、また、確信してしまったのは、なぜなのでしょうか。そういった物事に、それほど興味もなく、実物を見た覚えも、写真を見た覚えすらなかったのに、わかってしまったのは、きっと、いつか、どこか、記憶にすら残らない下らない拍子にそれを見る機会があったのでしょう。それとも、それを、精液と認識できることは、ある種、人体の神秘、のようなものだったのかもしれません。とにかく、私はそれを精液と認識し、それが己のスカートに付着している事実に、愕然としました。そしてそれに気が付いてしまうと、あの時寄りかかってきた男性、あれしかこんなことをできる相手はいなかった、思い返せば、何か擦りつけられるような感覚がしていたのではないか、電車の揺れと思っていたけれど、あれはもしかして、と、紐解くように痴漢行為の記憶が浮き彫りになっていきました。記憶と書きましたが、覚えようと意識もしていなかったこと、覚えてすらいなかったこと、かもしれないので、漠然と体感していた過去の物事が、意味を持ってその時記憶されたのかも、しれません、とにかく、一つの物事が、それまで記憶にも至っていなかったような物事を、掘り起こし、実感し、記憶する、そのような体験でもって、私は痴漢被害に遭ったことを認識しました。書いてしまえば、たったこれだけ、ですが、私はひどく動揺、パニックのようになりましたので、それを拭くことも、そこから微動だにすることもできず、勝手に浅くなる息の音だけが耳に届いていました。私の様子のおかしいのに気づいて、マナミが声をかけてくれてようやく、事実に頭が追いつき、正常に頭が働いて、他人の精液が自分の衣類にかけられているということのおぞましさに、泣きました。御両親が働いたお金で、買ってくださった制服、アイロンをかけて、プリーツの崩れないように手入れをしてくださった、スカート、一枚でいくらするのか、明確な値段こそ知りませんでしたが、私服のスカートにかけるより、高い値段がするのだろうとは、想像がついていました、そんなスカートを、汚されてしまった、御両親への申し訳なさも、あったと思います。ですから、その時、吐きそうになったのを、それだけはいけない、と喉に力を込めて、我慢しました。身を固くして泣く私を、精液のかけられたスカートを、マナミがどのように見ていたのかは、知りません。ですが、数秒して、マナミはそっと、私を抱き締めてくれました。大丈夫、大丈夫だよ、というマナミの、少し低く落ち着いた声が、少し震えていたように聞こえた気がします、けれど、宥めるようにゆっくりと、言い聞かせるような声だった気もします。

「今日はもう、帰ろう、先生には事情を話しておくからね、もし電車に一人で乗るのが不安なら、私も一緒に乗るからね」

 当時の私は、携帯電話を持っていませんでしたし、御両親は、どちらも、そろそろ、お仕事の時間、私が今から帰るにしても、迎えは呼べない、マナミの言葉は、そういった私の事情を、完璧に理解した上での発言のようでした。マナミはしばらく私を抱き締めていましたが、みんなが来る前に先生に伝えに行かなければと、私から離れてさっと駆け出し、先生を呼んできて、私はその間、ただ泣いているばかりで、自分のスカートをどうすることもできず、マナミが先生を呼んできて、スカートの様子を、一応と言ってカメラで撮影、精液をティッシュで拭い、濡らしたティッシュでスカートをぽんぽんと叩き、応急処置、今日はとりあえず、早退してください、そのような運びになるまで、口をきくことも、できませんでした。親御さんには、伝えますか、そう聞かれて、首を横に振ったことは、覚えています、どうして大人が付き添って送り返してくれなかったのか、マナミが一緒に帰ってくれるのだとして、マナミの扱いはどうなるのか、二人して、欠席になるのか、そういう話に関しては、覚えていません、マナミに支えられるようにして、忘我のように歩き、電車に乗って、降りる駅のことだけ、意思表示、そうしてお昼前に、マンションに到着しました。

 災難だったねと、マナミは言いました。お茶を淹れること、箪笥から着替えを持ってくること、いちいち私に許可をとりながら、マナミはテキパキと動き、私は反対に、マナミの言葉に、頷くばかり、ソファに座り込んで、何もできずに、いました。マナミの淹れた温かい紅茶を、唇を湿らせる程度、口に含んで、飲み下し、マナミに言われるまま、いえ、マナミに脱がせてもらう形で、制服を脱ぎ、ゆったりとした部屋着に着替えました。脱いだスカートを、もう少しちゃんと洗うから、それでも嫌だったら、親御さんに言って、買い替えてもらうんだよ、そう言ってマナミが持っていき、洗面所から聞こえる水音と物音に耳を傾けながら、私は泣きました。いくらスカートが綺麗になろうと、私は汚された、思い返せば、何かを擦りつけられていた腿の、気持ちが悪いことといったら。

 一通りの処置を終えたらしく、マナミが帰ってくるまで、私は泣いていました。泣いている私の隣に、そっと腰掛け、マナミは柔らかな手つきで私を抱き寄せました。聞き心地の良い声で、寄り添うように、慰めるように、幾つもの言葉をかけてもらい、労わるように頭を撫で、それからぐっと、両手で抱えるように、抱き締められました。

「男に寄り掛かるようじゃいけない、寄り掛かるような弱い女だと、なめられる」

 それがその日、いえ、マナミと知り合って、マナミの声を聞いてきた中で、一番、強い声音でした。決して声を張り、荒くするわけではない、大木のように、静か、揺るがぬ意思の込められた、言葉でした。ああ、強くならなければ、いいや、強く、強くなりたい、強くなろう、そう思わせる声でした。私もそうありたいから、とマナミは言いました、王子様ではない、強い女になりたいのだと、マナミの理想を、私はその時知りました。私たちは、己の二本の足で立ち、対の眼で世界を見、頭蓋におさめた脳味噌でものを考える、自立した、強い女が二人、そうして互いに生きてゆくことを契りました。

私はマナミになりたかったのです。

手始めに髪を切りました。生まれ持ちの背の低さはどうにもなりませんでしたが、背筋をしゃんと伸ばし、まっすぐ前を見据え、言葉はなるべくはきはきと、そうしてマナミに近付こうと、マナミの隣に立つに相応しい、強い女を目指しました。中学校を卒業し、高校に進学するにあたって、マナミは他県の高校に進み、私は家から通うことができる範囲の、しかし電車で通う圏内の学校に、進学しました。結局、御両親には、早退の理由として、事の顛末を説明し、そのために、一時期は、御両親のどちらが仕事を辞め、送迎を担当するか、その相談と、その必要はないのだという説得に、苦労しましたが、高校でも電車通学を選んだのは、わざと、私は、痴漢、あんな卑劣な行為に、屈することはない、そういう意思表示のためでも、ありました。

 以降、電車でのトラブル、そうでなくとも、一般に生きていて、巻き込まれる、些末な出来事、例えば、変な人に付き纏われる、不審な人間に声をかけられる、そういったことが、一切なかったとは、いいません、私の人となり、いくら取り繕っても、生白い顔をしたちびの、女学生、顔立ちも、きつくはありませんから、なんだか、妙な人に、目を付けられることの、多いこと、多いこと。しかし、そんなもの、汚い言葉を使うようで、気が引けますが、敢えて、使います、それらは屁でもない。私はろくろく取り合わず、すばやく逃げおおせるなり、一人でジッと我慢するなり、大人の手をお借りするなり、その時々、冷静、適当、そう思える手段をもって、対応、対策、対処、してまいりました。なんのこれしき、一人でこなせず、強い女に、なれるものか、そう思ったのは、最初ばかり、マナミも万事、一人でこなせはしなかった、そう自身に言い聞かせ、学生のうち、未熟なうちならば、人を上手く頼るのもまた、強い女の技量のひとつ、として、思い返せば、ずいぶん、人様の手、お借りしてしまったようにも、感じます。とにかく、私は諸々に決して屈することなく、折り合いをつけ、それほど危険な目に遭うこともなしに、生きてゆくことが、できました。

道は分かたれようと、志は同じ、強い女になるのだ、二度と、男になめられて、たまるものか、私は常に前を向き、勉強に打ち込み、成績は常に学年の上位五本指、運動は、どうしても、苦手、それと背の伸びないことが、いつまでも不満でしたが、とにかく、そうして、歩み続けました。勉学に励み、傍らで、部活動などにも参加させていただき、それは中学校から続いて、家庭科部というものがありましたので、そちらで、三年次には、部長などという大役も、請け負わせていただき、卒業も間近の活動では、みんなでスポンジを焼いたりクリームを泡立てたりして、おのおのケーキなど作り、食べさせ合う、和やかな交流の場を設けることにも、成功しました。成績や、部長を務めたという経歴、あとは本当に、ひたすら頑張った、お受験のための、このお受験とはただの筆記試験、私立中学入学のためのいわゆるお受験より、ずっと問題集を解く必要の出てくるもの、そのためのお勉強の甲斐ありまして、大学も、名を挙げれば、ああ、いいところに進学した、そう言われるような学校に、進学することが、できました。大学四年間、勉学が、第一、返済不要の奨学金を、論文なぞ書いて、いただけるようにしながら、アルバイト、落ち着いた雰囲気の、家の近くの本屋さんに、雇っていただき、お家にお金は、入れなくていいと言っていただきましたので、貯金をたくさん、しました。単位、一つも落とさず、成績はやはり上の方で、就職活動も、早くから始め、内定を頂いた会社も、大手、誰もが名を知る企業に、就職しました。大学を卒業し、同年代の人達の中でも、高いほうのお給料をいただいて、一人暮らししながら、実家に仕送り、貯金もして、資格勉強も、今の仕事で食っていけなくなった時のことも、考え、いろいろとし、お家でできるストレッチ、体を動かす習慣を作り、とにもかくにも、自己研鑽、男などに頼ることのない、強い女、それだけを目指しました。

 私は、高校生になってから、ピルを服用しています。低用量のものを、御両親に、ねだり、買っていただきました。大学生になって、アルバイトを始めるまでは、御両親のお金で、買っていただいていましたが、それ以降は、もう、自分で買っていて、生理は、殆ど、来たことがない、それは、毎月の生理で、血を失い、貧血、そうでなくとも、腹痛や腰痛、情緒不安定、生理によって起こるどれもが、強い女の像に反していたからです。きっとマナミもそうしていると思いました。私はマナミの背を追い続けていました。男に頼るようではいけない、彼氏などというものも、当然、作りませんでしたし、交友関係、広すぎたって、無意味に時間を割かれるから、いけない、髪など染めるのも、時間とお金の無駄、会社はただの、職場でしかない、仲良しこよしの場ではない、あんまり人と慣れ合えば、弱くなる、真に強い、成熟した女であれば、何もかも、己の力で、できなければ、強い女になるために、マナミもきっとそうしている、私はそう信じていましたし、私には、そのようにしているマナミの姿が見えていました、盗撮などでは、ありません、ただ、心の繋がった仲、契りを交わした相手、どのようなことをしているかは、自然、わかります、そういうものです。私はマナミと契りを交わし、強い女になると決心して以来、ずっと、彼女の背を追っていました、一秒たりとも、他の人間の背を見たことは、ありません、私の憧れ、目標、それは必ず、マナミただ一人でした。ですので、私には、現在、友人らしい友人もおりません、資格取得のための、勉強は、すべてオンライン、起きて朝食、働いて昼食、働いて帰宅、風呂と夕食、勉強、就寝、繰り返し。完璧に独立した、高嶺の花の、独り立ち。

 数日前、中学校の同窓会がありました。実をいえば、これまでに数度、三年に一度は、開かれていたのですが、風邪、レポート課題、仕事、そうした理由で、一度も顔を出すことが、できていなかったのです、しかし今回は、示し合わせたように、予定がぽっかり、空いており、私も、同窓会に顔を出すことが、できました。色柄のついたドレスは、男に媚びているように見える、私はそう考え、黒一色、レースで装飾をあしらった、華美にならない、けれど同窓会の場に相応しいドレスを着ることに、しました。同窓会に、ドレス、と思われるかも、しれません、しかしどうやら、同窓会は、少しばかり豪華な所で、行われるらしく、それは、卒業生たちの、今の人生の、状況、例えば、年収だとか、役職だとか、そういったものが、ある程度、良好らしく、その余裕な分が、同窓会会場の、ランクの高さに、繋がっているのだそうで、私がドレスを着るには、なんの不釣り合いもないのだと、弁明、させていただきます。さて、そうして同窓会、マナミもきっと、私と同様、それほど飾り気なく、しかし男のようにスーツなどは着ないで、女として、強く、あの、高値の花じみた独り立ちの様子で、無彩色のドレス、短い髪に飾りをつけ、結婚はおろか、彼氏すら、作ったことはない、そうやって、私と瓜二つ、顔を合わせて、あの日の契りを二人で達成し続けていると、認め合うのだ、そのように考えて、おりました。会場に到着し、辺りを見回しても、マナミらしい人は、見当たらず、遅刻だなんて、らしくない、きっと会場のどこかに、もういるのだろう、そう考えて、会場内を、うろうろ、一時間ほど、見て回りましたが、どこにもマナミは、いませんでした。旧交、温めることも、なかったので、会場をうろつく私に、声をかける人は、多くありませんでした、私もまた、会場にいる大多数の人物が、誰で、一年生から三年生の時の、いつに知り合って、何をした仲、それすらわからず、他人のようでしか、ありませんでした。一時間ほどマナミを探した後、これは誰かに、マナミの居場所、もしくは、出席か欠席か、聞かなければ、そう思い、ふと目についた、薄青色のドレス、茶色く染めた髪の女性、見覚えのある顔をしていたので、当時の友人かもしれない、そう淡い期待を抱いて、声をかけました。

「あの、すみません、マナミという子が今日来ているか、ご存知ありませんか」

「マナミですか? それは私ですが……ああ!」

 戸惑った顔が一気に笑みに変わり、そうして名前を呼ばれて、久しぶりだね、ずっと同窓会に来ないから、会いたかった、黒いドレス、かっこいいね、似合ってるよ、そのようなことを、ぺらぺらと、少し低めの声に喜色を滲ませて、喋る、それは確かにマナミでした。身じろぐたびに、茶色に染めて伸ばした髪が二の腕の横で揺れて、薄青色のドレスはひらひらと裾を揺らめかせ、何の気なさそうに組んだ手の、左薬指に、銀色の指輪。聞けば彼女は、大学を卒業後すぐ、結婚、出産、今は二人の子供がおり、専業主婦、夫の稼ぎだけで、生きていける、子供の成長を見守るのが、楽しく、もう働くつもりはないそうです。マナミは母親の顔をしていました。仕事を捨て、家庭に入り、男の稼ぎで暮らし、椅子に腰かけてくにゃりと背を丸め、他愛無い話に花を咲かせる、マナミの姿に、あの、高嶺の花じみた独り立ちの様子は、どこにもありませんでした。

 その後のことは、よく覚えていません。

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