9 黒の孤児と白金の王女
気が付いたら、思わず馬鹿みたいに叫んでいた。
さらに駆け出した勢いのまま男に体当たりをして、男の子から手を離させる。
「ってめえ何しやがる!」
「あぐっ」
途端に憤怒した男に顔を殴られ、転がる。
鼻が折れていてもおかしくない衝撃だった。
痛い。前世でも、誰かに顔をぶん殴られたことなんてなかったから、余計に痛い。
――それでも俺は、あわてて男の子を連れてその場から駆け出した。
「逃げよう!」
「っ、おい」
しかし、しばらく走って、すぐに息が上がってきた。
今までろくに運動もしてきていない少女の身体だ、よく考えてみればそんなことは当然のように思えた。
追いつかれたら殺されるかもしれない。
そう想像して、ぞっと背筋に寒気が走った。
……自分の「不幸」に目が曇っていた俺は、たった一人で貧民街に訪れることの危険を、甘く見たのだ。
(くそ……っ)
しかも、ぜえぜえと息をして、ろくに走れなくなったあげく、男の子に手を引いてもらう始末だ。
――何やってんだよ、だって? それは俺が自分に言いたいことだ!
ズキズキ顔が痛んだ。顔を押さえた手が生温い液体に濡れる。鼻血が出ているのだ。
……なんなんだよ、本当に。自分のことすらおぼつかない分際で、人を助けようなんて、何様のつもりなんだよ、俺は。
「孤児を助けて、正義の味方にでもなったつもりか? そもそも、誰もお前に助けてほしいなんて言ってない」
――もう追手は追いついてこないだろう、というところで。
心底呆れかえった、というように男の子が言った。
まさしく、その通りだった。俺のやったことは偽善にすらなっていない何かだった。
(マジで、何を考えてたんだろうな、俺は)
自分が一番不幸になった気がしていた。王女として何年も安穏と暮らしておきながら、不便さと先行きの暗さを嘆いていた。アーダルベルトを助けた気になって死なせて、勝手に絶望して、何もかも投げ捨てて王宮から逃げ出した。
なんて自分勝手なんだろう。――泣きたくなるほど浅ましい。
(未来を嘆く前に、すべきことを、しろよ。王女としての責任を果たせよ)
あの時、自分の意思でエウラリアに頭を下げた時のように。
……俺は薄汚れた路地裏を見渡した。
饐えた臭いが漂う、死と貧困の渦巻く場所。
強くなければ、富がなければ、人間らしく生きられない。……この国は、弱者にやさしい国じゃない。
「なあ、お前はこの国が嫌いか?」
不意にそう問えば、少年は、「嫌いだ」と答えた。「何もかも腐ってる」
(……だよな)
王女のままでいれば。
――否。女王になれば、俺はこの国をよくできるのだろうか。
善良な人が、ただ善良なだけで、人間らしく生きられるような、そんな国に変えられるだろうか。
(そうだ)
変わらなきゃいけないんだ。
もう俺の現実はここなんだ。いつまでも他人の人生を生きているつもりじゃいられないんだ。
俺はこの国の王女なんだ。
ディアナ・リュヌ=モントシャイン。
それが事実で、真実だ。
俺は笑ってみせた。少年に向かって。
――そして、「俺がなんとかしてみせる」と言った。
君が笑えるような国にしてみせる。
子どもが飢えない国を造ってみせる。
君との出会いを、その一歩にする。
「この国を見放さないでくれとは言わない。でも、俺は、全力を尽くすと誓う」
ちゃり、と胸元で、王族の――王女ディアナの身分証明である金の指輪が揺れる。
鎖に通した、一度は捨てようと思った王族と、その責任の象徴(シンボル)。
――そして少年に名前を聞かれて、俺は思わずシャルロットの愛称である「ロッティ」を名乗った。なんだか気恥ずかしかったのもあるが、……それに、こんなふうにご立派なことを言うのは、本来、本物の聖女の役目だしな。
(帰ろう。……もう、過去を振り返ってうじうじするのはやめる)
今、この国の基盤は揺らいでいる。
王は病に倒れ、王太子は死に、王女は若い。王族の権力が弱く、親政は崩れ、政治についてはいまや二人の公爵が睨み合いながら実権を分け合っている状態だ。親国王派の宰相が王弟キャロルナ公爵よりもやや強い権勢を誇っている今の状態が続くならまだいいが、ずっとこの均衡を保てるとは思えない。
俺がしっかりしなくてはならない。
原作では確かに、ルネ=クロシュ王国は魔国に滅ぼされるまで斃れていなかった。だが、俺が知らないだけで、原作の王国の内情はボロボロだったのかもしれない。
魔国に滅ぼされたくないと怯えるのではなく、魔国に滅ぼされないくらいに強い国にする。できなくても努力はする。
――それが。次期国王として最低限持つべき覚悟だろう。
(そうだよな? お兄様)
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