吾輩は猫である

菅原 高知

第1話 猫の恩返し

「吾輩は猫である」


「名前は――既にある」


 アーサー。

 偉大な王の名前であるらしい。

 家族は二人。母上とその娘御。

 吾輩はその娘御のペットとしてこの家で物心付く前から世話になっている。


 娘御の耳が聞こえないということは早い段階で気が付いた。しかし、そんな事は吾輩達の間には関係ないことであった。

 家族は多分な愛情を持って接してくれた。


 吾輩も常々感謝の念に喉を鳴らしたり、ネズミを捉えたり、小鳥を捉えたり……あとは肉球を触らせてやるった。

 娘御はそれだけでも――特に肉球を触らせてやると殊の外上機嫌になった。(ネズミや小鳥を取ってきた時は微妙な顔をされた)


 笑顔が絶えない、陽だまりの中にいるようなそんな家庭だった。


 しかし、ある時から娘御の様子が変わった。

 あの明るかった笑顔に影がさし、俯いている事が増えた。吾輩が喉を鳴らしても首を撫でてくれず、肉球を差し出しても上の空で触れるのみ。


 次第に母上からも笑顔が消えていった。


 陽だまりの家に暗雲が立ち込めた。


 元から口数が多くなかった(その代わり身振り手振りを使って全身で楽しそうに話していた)娘御の口数は更に減り、とうとう吾輩の肉球にさえ触れなくなってしまった。



 一大事てある。


 吾輩は情報収集に努めた。


 家庭での変化はなかった。

 ならば原因は外にある。

 吾輩は娘御の後をつけた。

 

 その間も娘御は常に俯向いて歩いていた。


 娘御はいつも一人だった。


 吾輩は、近所の野良猫や散歩中の飼い猫――手当たり次第に聞き込みをした。


 しかし、原因は用として知れなかった。



 そんなある日。


 吾輩はいつものように娘御の部屋に向かった。

 このところ娘御は自室に引きこもることが増えていた。母上との会話も減っている。辛うじて、吾輩が部屋にはあるのは許してもらえている。


 この世で唯一人だけ。

 吾輩だけが、娘御の拠り所であった。


 だから、その呟きが漏れたのだろう。


「どうして、私は耳が聞こえないのかな……」


 ソレは悲痛な呟きだった。


 そして、ソレこそが娘御の心の闇だった。



 原因は知れた。

 しかし、この世界で一匹の猫である吾輩に出来ることは限られている。

 喉を鳴らすか、ネズミを捉えるか、小鳥を捉えるか……あとは肉球を触らせてやることくらい。

 それも、限界が見えていた。

 

 為ればこそ、吾輩も腹を括ろう。

 娘御も大きくなった。

 ならば、そろそろ可能ではないか――『あの世界』に招待する事が。

 

 ある日の母上と娘御が寝静まった深夜。吾輩は音を立てないようにゆっくりと娘御が眠るベッドへと近づいて行った。


「さぁ、共に行こう。『あの世界』はお主にとっては夢の中の世界。ならば、その聞こえぬ耳も聞こえるようになるだろうて――いざ『幻夢鏡』の扉を開かん!」


 こうして一人の少女と一匹の猫の物語が幕を開けた。

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