落ちた羽

@illthy

第1話

 落ちた羽


 眉間に皺が寄るほどに冷えた風が止まないでいる。吐息が川に溶ける白い粉末のように南へ流れて消える。それを見届けると顔も南へ向いた。田んぼ一枚向こうの民家の窓から漏れる部屋明かりが見えた。踏切模様の色を取り合わせたような夜空と住宅街の光景が広がっている。手が冷たくてズボンのポケットに突っ込んだ。いつまでもこうして突っ立っているわけにもいかない。北からの風が後ろ髪の隙間に入り込んで頭を冷やしてくる。冷静になれよとばかりに絶えず絶えず説得してくる。やがて一番近い民家の二階の窓灯りが消えたので、家に入ることにした。

 暗い玄関を抜けてリビングの扉を開けると中間色の室内光が目に差し込んできた。思わず目を細めた。

「どこ行ってたの」

「どこも。家の前」

「なにそれ」

ソファに座ってその子はこちらに振り返らなかった。うなじが見えて、俯きがちになり何かをしている。

「何してるの」

そう言いながらその子の右隣に座った。膝のすぐ先にガラス張りのテーブルがあって、その子の両手が置かれている。

「編み物だよ」

「何編んでるの」

「お人形」

「そうなんだ」

今晩仕事から帰宅したら、この子がソファに座っていた。彼女が蒸発して数日だったので帰ってきてくれたのだと思った。でも知らない子、おそらく十代でショートカットの美しい顔立ちをした子。横顔を見ていたら目が合って、一瞬身構えたもののニッコリ笑って会釈をしてきたので不思議と緊張感は無くなった。

「糸なんてこの部屋にあった」

「持ってきたよ、自分で」

「ふーん」

テーブルの上に米とインスタント味噌汁を置いて食べ始めた。

「不摂生だなあ」

「で、誰なの」

女の子の手元には何色もの毛糸玉が置かれている。

「何が」

女の子は作業をやめない。

「君だよ」

女の子は手を止めて、流し目で見た。

「なーんだ。お人形のことかと思ったのに」

言葉尻の調子が上がっていて無邪気な感じだった。

「ねえ、それ食べたら風呂に入ってきてよ」

よく分からなくて返答に困った。まるで消えた彼女みたいで困惑した。

「言われなくても入るけど、いつまで居るの。帰ったほうがいいと思うけど」

「うーん、じゃあ圭君の髪を乾かしてから」

心臓が隆起して胸のすぐ裏で鼓動を打った気がした。喉の道が狭くなった。

「分かったから早く帰ってね」

「うん」

風呂に入っている間は思考が巡る。なぜあの子は名前を知っていたのか、そればかりが排水口を回る水のようにぐるぐると駆け回った。

 風呂から上がってリビングに入ると、ソファの上からはあのうなじが見えなかった。テーブルに近づくと、複数の色の糸玉に繋がれた中央に編みかけの何かがあった。女の子が座っていたところまで近づき、注意してみるとお人形の顔だと分かった。髪のところから先は茶色の毛玉に伸びていて、両目のところからは黒色の毛玉二つ別々に伸びていて、口からはピンクの毛玉に伸びていて、耳からは肌色の毛玉に伸びていて、そして首の下からは赤色の毛玉に伸びていて。目元は消えた彼女にそっくりだった。口元も髪型も顎の形も全てがそっくりだった。風呂上がりなのに背中の中心が冷たい指先になぞられたように寒くて震え出した。思わずソファに座り込んだ。うなだれて、上目にその毛糸製の人形を一瞥し、目をそらした。その時、両肩の上に温かくて柔らかな物が乗った。

「ね、上手でしょ私」

うなじのあたりに息がかかった。眼前に前腕や掌底や中途半端に閉じられた指先を見た。

「得意なんだよ。こういうの」

うなじに柔らかな物が当たる。風呂上がりの湯気とは別の、生温かい湿気が漏れていた。そしてうなじの生え際の細い毛が舐められた。思わず身を硬直させてしまう。小さな笑い声が聞こえてそれが耳元に近づいた。

「圭君の髪、乾かしてあげる」

今になってどうして部屋から出てくように言わなかったか疑問に思った。そしてなぜ、家の前で突っ立って時が過ぎるのを待っていたのかを考えた。女の子の両腕で引き寄せる力が強まり、右頬の横に女の子の左耳が押し付けられた。

「そうしたら出てくね」

それっきり女の子は体を密着させたまま動くのをやめてしまった。どうしてあの時、逃げ出さなかったのだろうかと、そればかりが疑問に残った。

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