第09話 悪童
「ん?」
部屋に戻る途中、名前を呼ばれた気がしたので、ルークは立ち止まる。しかし、周りに人の気配は無かった。
「気のせいか」
ルークは部屋に戻る。そこにメリーの姿は無かった。
(あれ? エルヴィナにでも呼ばれたか?)
しかし、机の上に放置されたままの布を見て、違和感を覚えた。
(それに、この臭い……)
すえたような臭いで、ルークはピンとくる。
(あの豚か)
気色の悪い兄の顔が浮かぶ。メリーにちょっかいを掛けに来たらしい。そして、バークがメリーに何をしてようとしているかなんて、少し考えればすぐにわかった。
「ちっ」と舌打ちが漏れる。
(俺の従者だぞ)
頭に血が上り、ルークはバークの部屋に乗り込もうとした。
――が、年功序列の掟が頭を過り、その足が止まる。
もしもそれに逆らったら、父親からの容赦のない罰が待っていた。
ルークは右胸を抑える。肋骨を折られた際の『痛み』が蘇った。
これまでの体罰で、ルークの足がすくむ。
メリーの危機であることは理解しているが、それ以上に父親からの暴力が怖い。
(……俺は掟に従った方が良いんだよな?)
ルークは自身に問いかける。この家の人間として、権力を好き放題できる人生を歩みたいなら、この家の掟に従うしかない。
――しかし、本当にそれでいいのだろうか。
メリーのことを思う。最初は、新しい玩具だと思っていた。だから、嫌われてもおかしくないようなことをいっぱいしてきた。それでもメリーはいつもそばにいて、今ではこの家で一番親しい相手になっている。そんなメリーが、バークによってメチャクチャにされると思うと――腸が煮えくり返りそうだ。
(なら、やるしかない)
ルークは覚悟を決める。ルーク・メイカーは、父親からの罰にビビるような
ルークは自室を飛び出すと、バークの部屋に急いだ――。
☆☆☆
エルヴィナは同僚のミリアンと屋敷の掃除をしていた。ここ数週間はサイモンがいないので、気が楽だった。もちろん、いないからといって、手を抜くわけではないが。
「そういえば、ミリィの一番の下の子の調子はどう?」
「おかげさまで元気よ。でも、最近は兄弟喧嘩が増えちゃって」
「そうね。私も――」
ミリアンとは歳が近いこともあって、世間話が弾む。穏やかな空気感で仕事をしていると、初老の従者であるキャエマが慌てた様子でやってきた。
「た、大変よ!」
「どうしたんですか?」
「め、メリーが、汚豚さんの部屋にっ!?」
「えっ!?」
「本当!?」
「間違いない。ちょうど部屋に連れ込まれるところを見かけた」
エルヴィナはスカートの裾を持って、駆け出した。
「あ、待って」
ミリアンとキャエマもついてくる。バークの部屋の前につくと、エルヴィナは急いで扉をノックした。しかし、反応がない。
(メリー……)
エルヴィナにとって、メリーは自分の娘も同然だ。メリーのことは彼女が初めてこの屋敷に来た時から知っていて、エルヴィナにはすでに6人の子供がいたが、彼ら彼女らと同じくらいの愛情をメリーにも注いできた。そんなメリーが、あの悪漢に連れ込まれたと聞いて、黙ってはいられない。
エルヴィナはクビにされることも覚悟して、扉のノブを握った。が、動かない。鍵が掛かっている。
「わ、私、セバスチャンを呼んでくるわ!」
「お願い! ミリィ」
エルヴィナは扉に視線を戻し、忌々しそうに睨んだ。
(早くこの家から出るように強く忠告しておけばよかった……)
バークが性の喜びを知ってからは、若い従者は次々と去り、エルヴィナのようなベテランと若すぎるメリーだけが残った。だから、メリーがその対象になってもおかしくないとは思っていたが、まさか、こんなタイミングで急に来るとは思わなかった。
エルヴィナが後悔していると、キャエマが言う。
「ルーク様にお願いするのはどう?」
「あの
「それはそうかもしれないけど、でも、最近は、心を入れ替えているようだし」
「ふん」とエルヴィナは鼻で笑う。
「メイカー家の人間は信用しちゃだめ。彼らは気分屋だから、今は心を入れ替えているように見えても、状況によって、すぐに態度を変えるわ」
エルヴィナはそれで今まで、何度も痛い目を見てきた。だから、メイカー家の人間を信用していない。
「それに、
年功序列がある以上、ルークがバークに対して強く出ることができないことは明白だった。バークに対し、背中を向けるルークの姿が容易に想像できた。
「……ずいぶんな言いようだな」
「ひゃあっ!」
エルヴィナは驚いて腰が抜けそうになった。ルークがいつの間にか背後に立っていたのである。
「あ、いや、今のは、その」
「まぁ、いいや。どけ」
ルークはエルヴィナを押しのけると、ドアノブを握って、ガチャガチャ回す。
「鍵が掛かっているみたいで、セバスチャンを呼びに行っています」
「ふーん」
「ル、ルーク様はどうしてここに?」
「愚問だな。メリーを助けるために決まっているだろ」
ルークは辺りを見回し、花瓶が載っている台を見つけると、花瓶をどかしてその台を持ち上げて、戻ってくる。
「何を?」
「知れたことを。壊すんだよ」
そう言って、ルークはドアノブに台を叩きつけた。一度ならず何度も。木のひしゃげる音で、キャエマは短い悲鳴を上げるも、エルヴィナは呆然とその様を見続けた。
そして、ドアノブの周りがぶっ壊れ、扉が開き、ルークは壊れた台を投げ捨て、中に入ろうとする。
「ま、待ってください!」とエルヴィナ。
「何?」
「怖くないのですか? 旦那様に怒られるのでは……」
「ふん」と鼻で笑い、不敵な笑みを浮かべた。
「そんなのを気にする
ルークが部屋に入る。
エルヴィナは、その背中を初めて頼もしく思った。
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