弐
中学三年春
1
桜が舞い、それはそれは穏やかなお天気日和だった。町中を埋め尽くす桜の木々はピンク色や白色に染まり、町を明るく華やかに彩る。おまけに今日は入学式だ。これ以上ないくらいに快適な一日である。
今年で中学三年生になる高野夕希は眠たい目元を擦って眼鏡をかけ直した。癖っ毛のないストレートな赤毛の髪が軽く首にかかり、前髪は眉の見える位置から自然に斜めに切り揃えられていた。鋭い形の眼鏡とは相反したクリクリな目が動く。少しだけタレ目なのだが、キリッとした眉毛から、どこか芯のありそうな青年に見えた。右頬にある小さな黒子が特徴的で、肩幅、身長ともに平均並みだ。
彼は大きな手で欠伸を隠した。
「えー、今年度より我が校は新しい教育方法を取り入れ――」
全学年で二百人にも満たない学生達がこの大きな体育館に募り、こじんまりとした始業式が始まる。
相変わらず校長の話は眠たかった。
「各学年の垣根を超えて、教育を受けるこのカリキュラムには、友に学び、共に成長しようという意味が込められています。皆様ご存知かと思いますが、今世界ではアクティブラーニングというものが推奨されています。これは――」
何だが、数ヶ月前の終業式で聞いたような話を延々とされ、高野は軽く首を回した。あたりに目をやると周りの学生達も呆れている様子だった。
校長の話は長い上に、つまらない。これは全世界共通なのだろうか?
不意に風が強く体育館内に入ってきた。椅子に座ったままの女子達は巻き上がるスカートを押さえ、高野は目に入りそうになった埃を防ぐためにぎゅっと目を瞑った。強風は数秒で終わり、ゆっくりと目を開ける。
「……あ……」
この学校には、体育館から出た校舎の裏側に桜の木が一列になって植えられている。大きく開いた体育館の出入り口から見えるほど立派な木の下に、一人の女性が立っていた。
優雅に舞い落ちる桜の花びら達が、踊るように女性の足元へと下っていく。まるで、そこだけが別空間のように。
じっと見ているつもりはなかったのだが、高野の視線に気がついたのか女性と高野は目が合った。透き通る綺麗な瞳。水晶玉のような青色の瞳の色とスッと通った鼻筋から、日本人以外の血が垣間見えた。春にぴったりな薄い緑色のロングスカートを履き、上にはシンプルな白いブラウスと桃色のカーディガンを羽織っている。
目が合った高野に向かって、女性は暫く微動だにしなかったが、やがてニッコリと微笑んだ。高野は少しだけ会釈をして、再び校長の方を向いた。
「あの……良かったらお写真撮りましょうか?」
始業式が終わった後、次々と帰るクラスメイト達だったが、高野はあの女性が気になって、結局校舎の裏側に向かった。体育館にいる時見てから二時間ほどは経っているので、まだいるかどうか確信は無かったが、女性はまだいた。二時間前と変わらず、桜の木を見上げて。
近くで見れば見るほど、女性は美しかった。ブロンドのウェーブがかった長い髪の毛を下ろし、淡いピンク色のワンピースを着ていた。それに、綺麗な瞳の色だ。
高野に話しかけられた女性は一度瞬きをし、
「私が……見えるのですか?」
と遠慮気味に答えた。
予想外の質問に、高野は一瞬呆気に取られたが、平然として口を開いた。
「はい。視えますよ」
――いや。
本当は正直言って、やってしまったと思いながら答えた。
***
視えてしまったものは仕方がない。
声をかけてしまったのも仕方がない。
高野はそう割り切って、女性と肩を並べベンチに座っていた。
校舎裏のベンチは普段、カップルのイチャイチャスペースなのだが、今日は始業式ということもあって、人は全然いなかった。寧ろ、皆弾むようなスキップをして家へ帰っていった。
「ビックリしました。話しかけられるのなんて初めてなので……」
そう言って女性は照れくさそうに髪の毛を耳にかけた。サラサラふわふわな髪の毛から目を逸らし、空を見上げる。
「――桜、お好きなんですか?」
水色の空と調和するような桃色の桜が目に映る。高野は手の平を地面と水平に保つと、其処に吸い込まれるように花弁が落ちてきた。柔らかな感覚と仄かに甘い香りがする。
「……好きです。特に春が、好きなんです」
小さく肩身を狭めて答えた女性を高野は眼鏡の奥からチラ見した。女性は何処か照れくさそうに頬を赤く染める。
「私……先月結婚したんです。ずっと好きでずっとずっとお付き合いしていた方と、やっと結婚する事が出来たんです。何の変哲もない日が突然彩るかのように彼は前触れもなく私にプロポーズをしてくれたんです。それはそれはとっても嬉しくて、私舞い上がっちゃって……」
と、其処まで語って女性は一度口を閉ざした。
高野は顔ごと女性の方を見る。生暖かい風が吹いて高野の手の平から、花弁が飛んでいった。
「――知っていますか? ここよりもずっと西の方は、桜の開花が早いのですよ。ポツポツと蕾が彩り始めたと思ったら、其処からは驚くほど早いスピードで木々に色がつき始めて――。街中も何処か華やかになる様な感じがして、美しい桃色が私達に教えてくれるんです。“春が来たよ”って。私、その瞬間が凄く好きで、日本で産まれて、生きてて良かったなって思えるんです」
再び女性は最後まで言い切らずに言葉を切ってしまった。先程から口調が和らいだり、小さくなったりしている。それは、何かを遠回しに伝えたいが、結局云えずじまいになってしまっている様にみえた。
高野はジッと女性を見つめた。
女性が話したい事はわかるが、自分から話せない様子なのならば、此方から聞いてあげるのがマナーだろうか。普段こんな親切はしないのだが、折角の春だ。清々しい一年を迎える為にも、多少の親切はしよう。
「――この街には、何をしに来たのですか?」
女性はハッとして顔を上げる。全てを見透かしている様な高野の瞳から、目を逸らさずに浅く呼吸をした。
静かな校舎裏で、ただ葉の擦れ合う音と、空が軽く鳴く音がした。
「誰かに、会いに来たんですか?」
「……はい」
「誰に?」
高野はゆっくり瞬きをした。長い睫毛が太陽の光に反射する。女性の青色の瞳が一瞬だけ蜜柑色に輝いた。
「――神様に」
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