この青い空を
月のひかり
第一章 答え、そして希望
オリーブには3分以内にやらなければならないことがあった。今、目の前にいる男の生命活動を終わらせなければならない。手段は幾つかあるが、じっくりと吟味している時間はない。事態は一刻を争うのだ。
男は、燃え盛る炎のような赤色のボタンを瞬きもせずに見つめていた。薄い青の瞳の奥に、暗く濁った揺らぎが見える。オリーブは眉をひそめた。
「何故、押さない?」
オリーブの抑揚のない、静かな声が地下室に響く。男は、ボタンを見つめたまま、小さく笑った。
「冷酷無比の大統領、と呼ばれていても躊躇いはするよ」
「それは、最強にして最悪の爆弾がもたらす結果を想像しての躊躇いか?」
「そうだな。この爆弾は最悪だ」
壁の時計に目をやり、男――大統領はジャケットを脱いだ。爆弾の発射ボタンがある操作台用の椅子に腰掛ける。ネクタイを乱暴に緩めると、唇の片側を吊り上げて、自虐的な笑みを見せた。
「最悪でも、こいつを使わなければ、我々が窮地に陥るかも知れないんだ」
爆弾発射ボタンに、そっと人差し指で触れてから、オリーブに顔を向ける。そこには苦悩に満ちた、ただの1人の男の姿があった。
大統領のその姿は不意に、オリーブに父の事を思い出させた。研究者、そして科学者だったパトリックは、最強で最悪の爆弾の開発に関わってしまった。パトリックは母国とその国民を守るためと信じて爆弾の開発に力を注いだが、完成品の想定以上の破壊力に大きな恐れを抱いた。
「僕は、どうしたらいいんだろう」ぽつり、と呟き、キーボードを打つ手を止め、ぎゅっと目を閉じる。「オリーブ、君になら分かるかい?まだ僕には、自分の答えを見つけることが出来ないんだ」
やっとの思いで、喉の奥から絞り出した声は、語尾が掠れていた。
結局、パトリックは自分の答えを出さないまま、逝ってしまった。
(そう、出せないのではなく、出さなかったんだ、恐らく)
最終的な答えは、オリーブに委ねられた。
「大統領。あなたも私に答えを委ねるのか。父のように」
オリーブの声は、淡々として静かだ。大統領は、暫しの沈黙の後、ゆっくりと首を振った。
「君には委ねないよ。この答えは私が大統領として出さなければならないんだ」
しっかりとした声だった。
「そうか」
オリーブは頷いた。
(その答え次第では、私はあなたの生命活動を終わらせなければならない)
オリーブは自分の答えを既に出していた。爆弾は発射させない。発射ボタンを大統領が押下する事が分かったら即座に、それを阻止する。その為には、大統領の生命活動を終わらせる事が最も早く、最も確実だ。
(父さんの好きだった、青い空を守るために)
父さんの好きだった青い空を、これからの世界に遺すために。その為には、手段は選ばない。大統領の生命活動を終わらせる事に、微塵の迷いも躊躇いも罪悪感もない。
オリーブは大統領よりも後方に視線を移した。壁一面に設置された、爆弾発射操作システムのモニターには、地上の様子が映し出されている。今、この瞬間の地上は、春の柔らかな青い空が広がっていた。地面には春の花々が、風にその花びらを揺らして咲いている。地上では、温かく優しい風が吹き、花々の甘い香りがそこら中に満ちているのだろう。青い空は、どこまでも広がっているのだろう。
オリーブは、本物の空を見たことがない。いや、空以外にも、本物を見たことがない物は沢山あった。オリーブの世界は、生まれた時から、この地下室だけだった。その事を辛いとか、怒りに囚われるとか、その他の様々な感情で人間的に苦悩する、と云うことはまだ無かった。唯一、オリーブの心に芽生えたのは、本物の青い空を見てみたい、と云う渇望だった。
(父さんの好きだった青い空を、本物の青い空を私も見てみたい。私も、父さんと同じ気持ちを感じてみたい。叶わない望みだとは分かっているけれど)
オリーブは静かに目を閉じた。
「オリーブ、知っているか?」
大統領が、ネクタイを締め直しながら、穏やかな声音でオリーブに話しかけた。オリーブは、大統領に顔を向ける。
「なんだ?」
「君の名前、オリーブの花言葉は平和だ」
「……平和?…平和とはなんだ?」
オリーブの思考装置が、初めて聞く『平和』と云う単語に戸惑う。平和平和平和平和平和平和と繰り返す。駄目だ、探しても見つからない。
「平和とは?なんだ?」
「平和とは…そうだな。人々が憎み合うことなく、殺し合うことなく、お互いを大切に思い、心から笑いあって生活出来る世界、かな」
大統領が穏やかな笑みを浮かべた。
「私はそんな世界を今、この瞬間も望んでいるよ」
力なく肩を落とし、か細い声で大統領は呟き、オリーブに笑いかける。その時、オリーブは大統領の青い瞳に、青い空が重なって見えたような気がした。
「青い…ザザッ…空が…ザッ…あり続け……ることも…ザザザー……平和…ザー……なのか?」
(ん?なんだ?)
オリーブは、自分の声に雑音が混じっていることに気づいた。生まれてから初めての現象だった。
(これは、思考装置に障害が発生している?)
「…そうだな。世界に青い空があり続けることは、平和そのものだよ、オリーブ……しかし、爆弾の制御装置の人工知能にオリーブと名付けるとはな。パトリックもジョークが過ぎる」
大統領は身支度を終え、大きく息を吐いた。爆弾発射ボタンに、ぎこちない動きで、ゆっくりと手を伸ばす。
大統領は、爆弾を発射させる事に決めたのだ。
(父さんの好きだった青い空を私が守る)
オリーブは、大統領の生命活動を終わらせるための攻撃を開始しようとした。
(今、動かなければ)
しかし、オリーブの中の、思考装置のプログラムとは別の何かが、その動きを停止させた。
(私の名前はオリーブ、平和)
父さんが望んだのは、青い空と人々が心から笑いあって生活出来る世界。
オリーブは、地下室の黒く冷たい天井を見上げた。申し訳程度に付けられた蛍光灯が、無機質で冷たい光を発している。そこに一瞬、青い空が見えたような気がして、オリーブはハッとし、そして微笑んだ。青い空と一緒に父の笑顔が見えた気がした。
やがて、大統領の右手が、爆弾発射ボタンに触れようとした、その刹那。
突如、地下室に白く眩い光が幾つも走った。続いて、爆弾発射操作システムのモニター画面に、幾筋もの長く大きな亀裂が入り、そこから細く長い炎が激しく噴き出した。
「オリーブ、何が起きてる!」
続いて起こった、地下室全体の断続的な揺れと爆風とで、大統領は入口扉の前まで飛ばされ、転がっていった。揺れる床の上でよろめきながら、なんとか扉に掴まり、大統領は呆然と炎を見た。爆弾発射操作システムのモニターは、真っ赤に燃え暴れる炎に全てを呑み込まれ、焼き尽くされようとしていた。操作台は、モニターから降り落ちてくる画面の細かな破片と、少しずつ迫りくる炎に破壊され、崩れ落ちつつあった。
ドゥゥゥーン!
大きな爆発音の後に、床が大きく縦に揺れた。大統領はバランスを崩し、扉の前に倒れた。立ち上がろうとするが、小さな揺れが続いていて、思うようにバランスがとれない。
「ここから早く逃げろ」
大統領の目に、自分に向かって差し出された、少女の手が見えた。
「あなたが、ここから出るまでは、施設全てを完全に破壊はしない。地上への道は進めるようにしてある。時間がない、早く」
オリーブは、さぁ、と言うように手を差し出した。だが大統領は、その手を見つめたまま動かない。
「どうした?」
オリーブは首を傾げ、自分の手をしげしげと眺める。そして、あぁ、と笑った。
「すまない。私はホログラムだったな」
「いいや、ありがとう」
なんとか立ち上がり、扉に体を預けて大統領は、もう原型を留めていない爆弾発射操作システムのモニターを指差した。
「あれは君がやったのか」
大統領の問いにオリーブは頷いた。
「なんでだ」
上ずった声で大統領は怒鳴った。「もうこれで、爆弾は発射出来なくなった。我々は窮地に陥る。この国は、隙を狙っていた国々に攻め込まれる、侵略されるんだ。もう終わりだ!」
握りしめた拳を扉に叩きつける。と、その時、それが合図であったかのように、扉が重い音をたてながら開いた。
「早く行け」
そう言うとオリーブは、大統領に背を向け、暴れ狂う炎に向かって歩き出す。その背中に大統領は叫んだ。
「これから、どうしろと言うんだ!」
オリーブは、歩みを止めた。しかし、振り返ろうとはしない。炎を見つめたまま、大統領に語りかける。
「甘えるな。爆弾なんかに頼るな。惨めでも無様でも、命がけで平和を守れ。とことん話し合え。あなた達は心を持った人間なのだから、それが出来るはずだ」
「私を、私達人間を買い被るな」
大統領の顔が苦しげに歪む。
「私は君が思っているよりも弱い人間だ」
「買い被ってなどいない。私が得ている情報を基に、導き出した答えだ。かなりの高確率で真実に近い。もっと自分に自信を持て」
そう言うと、オリーブは振り向いた。人懐っこい、愛らしい少女の笑顔で。大統領は、ハッと目を見開いた。
「オリーブ…この施設の全てを破壊したら、君も壊れてしまうだろう?君自身も消えてしまうだろう、この施設と一緒に。それでいいのか?」
大統領が、オリーブに手を差し出した。
「君だけでも助かる方法はないのか」
ふるふると首を振り、オリーブは口を開く。
「私が存在していては、爆弾があっては、あなた達の望む平和は守れない。さぁ、行け」
オリーブの言葉と共に爆風が起こり、大統領を扉の外に押し出した。
「オリーブ!」
爆風に押され廊下に転がったまま大統領は叫んだ。激しい炎に阻まれ、地下室には戻れないであろうことがわかると、廊下に転がったまま、動かなくなった。
(私は弱い人間なんだよ、オリーブ。爆弾という
大統領はぼんやりと宙を見つめる。その視界に、オリーブの人懐っこい笑顔が現れ、消えていく。
大統領がオリーブに向かって伸ばした手は、虚しく空を掴む。
爆弾と共に、その制御装置の人工知能『オリーブ』は、破壊され、もうじき消える。『人間』よりも『人間らしい尊い心』を持っていた人工知能。
暫しの沈黙の後、大統領は立ち上がった。力の限り握りしめた拳が微かに震えているが、そんなことはどうでもいい、前に進めさえすれば。
大統領は、しっかりと前を向き、大きく息を吸うと、力強く一歩を踏み出した。もう、地下室を振り返ることはなかった。
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