第14話 体育館の地縛霊③
ある日、男の部屋の隣に住む小林が危篤状態だと知った。
偶然、医者の会話を聞いてしまったのである。ここ数日姿を見せないと思ったら、病床に付していたらしい。
小林とはあれから、アパートの外で顔を合わせるたびに立ち話をする程度の仲になっていた。しかし、自分から小林を訪ねることはなかった。日雇いの仕事で
しかし小林が危篤となると話は別で、小林が死んだ後のことを確認すべきだと思い、初めて自分から小林の部屋を尋ねた。
「どうも」
「ああ、どうも、リュウさん」
男を名前で呼ぶのは小林だけだった。
小林は部屋の中に布団を引き、その中で寝ていた。初めて会った時は端正な顔立ちをしていると思ったものだが、今や年老い、病で寝たきりになり、頬も腕も痩せ細り、もはやあの時とは別人のようになっていた。
男は布団の横で胡坐をかいて声をかけた。
「どうしたんです。身体、悪いんですか」
「ああ、どうもそうらしい。もうもたねえ。身体が痛くて仕方がねえ」
「がんってやつか?」
小林はハハッと笑った。力ない声だ。
「いやぁ、違うらしい。でもまあ、似たようなもんじゃねえのかな」
「違う?」
「よくわからんといわれた」
「なんてこったい」
「もうだめだ。きっと報いだ。受け入れるしかねえ」
男は黙って聞いていた。少し、羨ましいとも思った。
「リュウさん、俺が死ぬまで数日はあると思うんだ。最後の話し相手になってくれねえか」
「ああ、最期だからな。……どんな悪党でも、最期は寂しいんだな」
「呆れちまうよな」
小林が、ハッと笑う。乾いた笑いだった。
「小林さん、俺は一人だよ。そう思うと、俺も今から、もう寂しくなっちまった」
「悪党ってのは、最期まで自分勝手なもんだな」
「嫌気がさすな」
「まったくだ」
小林の目は、完全に生気が抜け落ちているように見えた。天井を悲しそうに見上げるその顔を見ているだけで、男は辛かった。哀れみも、一人にされることへの悲しみも、将来の自分を見ているような感覚も、すべてが男の心に深く突き刺さった。
「なあ、小林さん。聞かせてくれねえか」
「なんだい」
「後悔してるか?」
小林は考える間もなく言った。
「当たり前だ」
「……俺もだ」
心のどこかでほっとした自分がいることに気が付き、男は片膝を抱え込んだ。
小林は身動ぎ一つしない。
「リュウさん、俺はどこで道を間違えたのか、ずっと考えてた。するとな、全部間違えてやがった。若え時は女を食い物にして、その後は人様の金ふんだくって、そっからまたエライ時間かけて、ようやく後悔ってもんを覚えた」
「そういや、女に好かれそうな顔してたな」
「あの頃は、女を口説くことばかり考えてた。そしたら意外と女はついてきたんだ。勘違いしちまった。俺の才能だと思ってた。……あの頃は天狗だった」
走馬灯というのは死ぬ間際に見るものではなかったか。小林は長い年月をかけて、まるで走馬灯を見ているかのように過去を思い詰めていたらしい。
「俺の才能なんかじゃねえって気づいたのは、ここに住んでからだった。俺が生きていられたのは全て、口説いた女のお陰だったんだ。口説いた女の能力が、俺を生かしてたんだ。それに気づいた時には既に、俺の周りには誰一人として居なくなっちまってた」
馬鹿だよなあ、と小林はか細い声で呟いた。
男はじっと顔を伏せていた。溜め込んでいた感情が堰を切ったように溢れ出す。
「小林さん、俺もだ。俺も、この二十年考えてたんだ。自分のことしか考えてなかった俺は、嫁も娘も地獄に突き落とした。俺はもっと悪いんだ。暴力で娘を従わせた。実の娘をだ。信じられねえだろ。無理やり身体を売らせて、金を巻き上げて、自分は何もせずに生きてきた。娘に逃げられて、ようやく気付いた。俺は何もできねえ屑だったって」
「……もう今更後悔したって遅えんだよ。過去は変わらねえからな」
「今更だよな。……娘が隣に越してきてから声を掛けてこねえのは、俺の顔が変わっちまってるからだと思ってたんだ。でもそれは違うって気付いたんだ。俺が父親だと分かったら、娘はこの部屋から出ていっただろうって。俺は自分の都合の良いようにしか物事を考えられねえ屑だ」
「娘に関しちゃそうかもな。あんたも後悔し続けるしかねえ。……俺よお、リュウさんに詫びなくちゃならねえことがあんだ」
「なんだよ改まって」
「……どこまで知ってんのか知らねえけど、きっとあいつらのことだから何もリュウさんに教えてねえんだろうな」
「どういうことだ?」
いいか、と小林は言う。
「……俺の話を最後まで聞いて、そのあと、俺を殺すなり好きにしてくれ。だがまあ、放置しとくのが妥当だぜ。放っといてももうすぐ死ぬんだ」
「何の話だ?」
話が見えなかった。
しかし、その後の小林の発言で、すべてを理解できた気がした。
「……リュウさん。あんたの嫁さん寝取ったの俺だ」
「……何」
心の中をぐちゃぐちゃにかき回された気がした。
そういえば始めに会ったとき、小林のことをどこかで見たことがある感じがした。おそらく、妻と歩いていた見知らぬ男の姿と重なったのだろう。
「指示したのは、篠原だよ。あの野郎も、今思えば相当な屑野郎だ。教師という立場を利用して、家庭環境の悪い子供の家をずっと探してやがんだ」
「……あの野郎」
「運悪く、あんたは目に付けられたらしい。一度失踪した娘を探し出してここに住まわせるなんて、何があったか知らねえが、篠原の野郎かなり執着してやがるな」
小林は続けた。
「俺は金をもらって、あんたの嫁さんを口説き落とした。篠原がもう良いと言ったら、俺はあんたの嫁さんを捨てた。泣いてたよ。確か。……悪いな、泣かした女の数が多すぎて一人ひとり覚えてねえんだ。でもあんたの嫁さんはまだ覚えてるほうだ。……俺を罵ったあと、あんたに詫びてたからな」
「俺に……」
小林にどう感情を向ければいいかわからなかったが、それ以上に妻が自分に詫びていたという事実を、男は受け止めきれなかった。
男の中ですさまじい程の自責の念が湧きあがった。
「あの野郎が主犯なんだな」
「やめとけ。殺したいなら俺で我慢しろ」
「出来るかそんな事!」
「あんたももういい歳だ。勝てやしねえ。これ以上罪を重ねるな。俺が全部悪いんだ。あんたは悪くねえ。道を踏み外させたのは俺たちだ。何も気にすることはねえ。あんたはこれから好きに生きろ」
「……好きに生きれるほどの金がねえ。心の余裕もねえ」
「あんたが詫びるべきは、娘さんに対してだけで十分だ。その他の人たちには、俺が詫びる。娘さんのことだけ考えてろ」
男は、怒りに身を任せたい気持ちと、娘への贖罪の気持ちで混乱していた。
「どうして俺なんだ。どうして俺は奴の思い通りに動いたんだ」
「数打ちゃ当たる、ってやつらしい。そう聞いた」
考えれば考えるほど、自分の取ってきた行動が愚かしく思える。篠原の言動も、今思えばおかしなものだった。
「小林さん、俺はあんたも許せねえ」
「……その言葉が聞きたかった。長らく聞いてねえまともで素直な言葉だ。悪いが、俺は詫びを入れるだけ入れてお陀仏しちまうだろう。だからよ、あんたは俺が死んだらこの畳の下にある金を持って逃げろ」
「畳の下?」
うっすらと小林が笑った。
「ああ、俺はずっと仕事してたんだ。だから生活はその給料で賄ってた。……あの金には手を付けてねえんだ」
「じゃあ何のために奪ったんだよ……」
「さあな。奪った後、怖くなった。恐ろしくなった。何か恐ろしいものに睨まれているような感じがしてな、あの金にはもう触れなくなったまったんだ」
小林はずっと虚空を見つめている。小林をいくら見ても現実が変わるわけではないのに、つい、小林の言葉を待ってしまう。
男は自分でも気が付かないうちに、自分自身の力で考え行動することをしなくなっていた。答えがほしかった。
男はぽつりと漏らした。
「俺はどうしたらいいんだ」
そんな男の問いに、小林は静かに言った。
「最初に言ってたじゃねえか。……心の中で詫びるんだ。それしかねえ。リュウさん、お前さんの娘さんも……」
話している途中に小林は眠りに落ちた。どうやら、体力の限界だったらしい。
「何を言おうとしたんだよ……。どうせ明日になったら覚えてねえだろうに……。もう聞けねえじゃねえか」
その後しばらく、男は小林の横で蹲っていた。
小林は数日後に息を引き取った。
近親者も見つからなかったため、葬儀も行われず、小林は無縁仏となった。
小林は先月、死を悟ったとき、このアパートをその月一杯までの契約としていた。死の直前、家具も男へ譲渡された。そのため、この部屋をすぐに貸すことができるようになっていた。
「もういいか……」
そんな言葉が男の口から漏れた。何をするにも億劫になっていた。小林の部屋にあるものは次に住んだ人に貸し与えればいい。ほしいと言ったら渡してしまおう。別に必要のないものだから。
そんなことを考えた。
小林の金のことも全く気にしていなかった。使う気もなかった。人が来やすいように水回りと畳を新しくしたのだが、その工事の間だけ小林の残した大金を自分の部屋に動かした。しかしその後また一号室の畳の下に置いた。掘るのも面倒だったからそのまま置いた。入居した人物がそれを見つけたらくれてやろうと思っていた。畳代など、掛かった費用は自分のわずかな貯金を切り崩した。
借り手はすぐに見つかった。
すぐに貸した。
ふと、これで寂しくないと思った。
もう喧嘩する必要もないし、全てを隠して適度に仲良くやればいい。
そうだ、それがいい。
そう思った。
しかし、男のその考えは甘かった。
豊田直人が連絡を入れてきたのだ。
男の部屋で豊田は言った。
「あいつは暴走している。失敗をしたことのない人間が陥る最悪の状況だ」
豊田は篠原のことを名前で呼ぼうとしなかった。
「何を言うんです。それに私にはもう関係ない。二十年前に縁は切れたはずだ。私はこのまま大人しく死ぬ」
豊田は座卓の上に乗り出し、何かに警戒しているかのように小声で話した。
「あいつから、小林が死んだと連絡が入った」
「なぜ知って……」
「あいつのことだ。定期的に監視していたんだろう」
「二十年もか?」
「疑り深いやつだ。どこで何を聞いていたかわからないぞ。この話だってもしかしたら」
豊田は部屋の中できょろきょろと周囲を見渡している。
「あんた達はどういう関係なんです。仲間じゃないのか」
「あいつの仲間は小林だけだ。本当は捨て駒の私が隣に住み込むはずだったんだ。奴は小林を逃がそうとした! 小林がここに住むと決めただけだったんだ」
「……じゃああんたは何なんだ」
付き人のように後ろを歩いていた豊田の姿は、今でも覚えている。
「俺は、ただの手足だ。教員という繋がりしかなかったはずなのに、いつの間にか……」
「だがあんたには連絡が来たんだろ。小林が死んだと」
「そうだ。俺を利用して、小林の部屋に変な証拠がないか確かめる気だろう」
「もう無理だ。部屋はもう貸してしまった」
今更あの部屋をどうこうすることなどできない。
「馬鹿な……! 下手をしたら犠牲者が増えるぞ」
慌てた様子で豊田が男を責めた。
「そんなこともないだろう。わざわざ危ない橋を渡る必要もない。その人はひと月で出ると言っているんだ。待てばいい」
「そこがあいつのおかしな所なんだ」
「とういうと?」
「あいつは証拠を残すのを極端に嫌う。だからこそ今まで犯罪を犯しても見つからなかった。奴はそれを徹底して行えば何でも出来ると思っている。すぐにここへ来るぞ」
「金はもう手に入っただろ。俺の分と自分の分、一億四千万は懐に入ったはずだ」
豊田は目を細めた。
「何を言っているんだ。常盤麗子の分を合わせれば二億を超す。そんな成功体験があるんだ。あいつはもう止められない。あいつはあの部屋に情報が残っているかもしれないと疑っている。小林の金も余っていたら回収するつもりなんだろう」
心臓が跳ね上がった。冷たい血が全身に回った気がした。
「待て。なぜ常盤麗子の分まで」
「……聞いてないのか」
男は座卓を叩いて身を乗り出した。
「何があった!」
「事故死したんだ。あの日。あの嵐の日に」
両手で顔を覆い、男は震えた声を出した。
「嘘だ」
「嘘じゃない。本当だ。俺はあいつに言われるがまま三人分の金を校庭に埋めた。ほとぼりが冷めたころ、俺はまた掘り返した。常に強い音の鳴る嵐の夜にだ。その金はすべてあいつのものさ」
「……娘は殺されたのか?」
「やはり娘さんだったか。苗字が同じだったからもしかしたらとは思ったが……。殺されたかどうかは、わからないんだ。ただ、あの日は滑りやすい嵐の日で、あの時のバイクは珍しくアイツが自ら用意したんだ。俺たちのような手駒を使わずにな」
男の激情を煽るにはその情報だけで十分だった。喉の奥から震えるような声を絞り出し、血が出るまで拳を握り締めた。
「……殺してやる」
「よせ。返り討ちに会うぞ。用心深いあいつのことだ。護身術くらい身に着けているはずだ。久しぶりに対面するあんたなんか警戒されているに決まっている。背中なんてまず向けやしない」
「それでも、ここで引き下がれるか……。娘の仇だぞ」
「引き下がれ。あいつは自分の何人もの生徒に手を出し、時には破滅させてきた大悪党だ。俺と組め。何年後になるかわからんが、必ず奴を破滅させる」
「組んで何ができる」
「あんたは何もしなくていい。従順に従うんだ。奴に。……必ず俺が仕留める」
「……あんたは、娘の敵を目の前にして俺に黙っていろと言うのか」
「そうだ。悔しいだろう。憎いだろう。だが押し殺せ。いいか、奴はただ殺すだけじゃダメなんだ。全てを露呈させないと、全ての被害者が報われない! あいつが犯す罪の被害者はいつも子供たちだ。その家族だ。俺はもう、教師として、聖職者としてあいつを赦すことができない。あいつを野放しにして、片時でも手を貸した私も同じだ……。全てが終わったら、私も死ぬ……!」
「……信じてもいいのか。本当に!」
「これを……」
豊田が一枚の写真をちゃぶ台に乗せた。
「何だこれは」
「写真さ。すべてを写した、たった一枚の写真さ。ネガは私が持っている。撮ったのは、小林だ。トイカメラならシャッター音が出ないと言っていた。工作して一枚だけ遠隔で撮れるように改造したそうだ。見ろ。あんた、小林忠久、常盤麗子、そして……」
男は写真を見た。
その写真にはすべてが写っていた。
星雲荘の一号室で密談をする四人。座卓の上には地図。
男、小林忠久、常盤麗子が座卓の片側に座っている。その対面には、地図上で三億円強奪事件の被害にあった資産家宅を指さす篠原巧の姿があった。
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ながなったなぁ
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