確定申告の女神

@ahorism

確定申告の女神

 二月から三月にかけて。ちょうど沈丁花の香りが漂いはじめる頃。いつもは静かな各地の税務署が、一斉に慌ただしくなる時期がある。

 そう、確定申告の季節である。


 世の副業ブームとやらに押されてさっそく開業届なるものを提出した私は、幸運にもいくつかの仕事にありつくことができた。

 そうしていつもより少しだけ暖まった懐で鰻を食べたり、ささやかな贅沢をしてみたりもした。

 経費とやらを使えることを知り、そのお金でPCやら何やら新調もしてみた。

 日頃抑えがちな消費欲を満たすことで疲れた心を癒せるのであれば、それでよかったのかもしれない。


 そして今。

 私は数枚の源泉徴収票と、乱雑に放り込まれた領収書の束に、頭を抱えているのだった。

 腹式帳簿なるものを付け、指定の書類を埋め、所定の方式で税務署へ手続きをしなければならないことは分かっている。

 だが疲れたこの体で、一からそのやり方を調べる元気は、今の私にはなかった。



「−−もしもし」

「……?」

「--もしもし、わたしの声が聞こえますか」


 どこかから囁きかける女性の声がする。ぼんやりとした頭のまま、私はその問いかけに首肯を返す。


「わたしは確定申告の女神。確定申告に悩めるすべてのものに、救いの手を差し伸べに来ました」

「かく……?」

「ですから確定申告の女神です。あなたも煩雑な手続きにお困りなのでしょう?」


 いかに八百万の神がいると言えども、古今東西、そんな神様の話は聞いたことがない。

 だが、猫の手を借りながら藁にもすがりたい今の私に、そんな疑問を浮かべる余裕はなかった。


「そうです、なんとか、なんとか三月十五日までに終えなければならないのです」

「わかりました、では問います」

「……」

「あなたが使用している会計ソフトは、この『や◯いの青色申告』ですか?」

「……いえ、違います」

「それでは、この『f◯eee』ですか?」

「それも、違います」


 この展開には、覚えがある。イソップ寓話の『金の斧』だ。ということは、正直に答え続ければ--。


「この、『マ◯ーフォワード クラウド確定申告』ですか?」

「それでも……ありません」

「でしたらこの--」

「……ていません」

「今、なんと?」

「何のソフトも、使っていません! 本当に手付かずの状態なのです!」

「そうですか、あなたは正直な人のようですね」


 しめた。これであの面倒ごとから解放される。


「そんなあなたには、これを差し上げましょう」


 わたしの頭上から、ひらひらと一枚の紙片が落ちてきた。なんだろう、申告完了の知らせだろうか。それとも、完成済みの提出書類だろうか。

 期待しながら両手でその紙を受け取ると、そこには、こう書いてあった。





「期限後申告をしたり、所得金額の決定を受けたりすると、申告等によって納める税金のほかに無申告加算税が課されます。各年分の無申告加算税は、原則として、納付すべき税額に対して、50万円までの部分は15パーセント、50万円を超える部分は20パーセントの割合を乗じて計算した金額となります。--国税庁--」



「うわあああああっ!」

 あまりの驚きに、ハッと目が覚めた。どうやら疲れて机で眠ってしまっていたらしい。

 頬に、領収書が貼り付いている。どうやらまだ私の確定申告は何も進んでいないようだ。

 今日は、三月一日。まだ、まだ期限まで二週間ある。


 そうして私は寝ぼけ眼を擦り、いそいそとe-Taxのインストールから始めることにしたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

確定申告の女神 @ahorism

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ