八重姫
おおいししおり
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それは――大正時代、人口三百人弱の小さな村で起きた、大きな出来事。
「がはっ……はっ、はっ、はぁはぁ……」
貧しい格好をした女が喉元を一線、容赦なく刃で掻っ切られる。滴る鮮血の液体はぼとぼと、と木の床を濡らす。呼吸が雑に荒ぶる中、まだ若き娘は相手方――自身に前触れもなく尋常ではない苦痛を与えた者を瞳に捉えた。
「ほう。急所を狙ったはずじゃが、勘の良い娘じゃのう。ちと、ズレたか」
女は嗤う。狂ったように、下品に、嘲笑うように可笑しいと嗤う。
「まあ、よい。どのみち事は時期に切れる。馬鹿な娘よ、とっとと殺される選択をすればよかったものよな……む?」
「うぅ、はっ、はっ……。こ……う、さ……」
致命傷を受けた女が涙を流しながら微かに唇を動かす。既に立つ気力さえ失い、床に倒れながら死を待つばかりというのに。
狂人の女――少女はぼろぼろと醜くも、喚き散らすことのない彼女に興味本位で近付く。
「……む、遺言かのう? しかし残念じゃ、生憎とわしはそういった奉仕はしない主義でのう。他を当たれ……おや? 汝、さては子持ちか?」
「っ……!」
女の躰がぴくり、と一瞬だけ動く。自身の腹を抑えていた右手が痙攣を繰り返す。まるで正解と言わんばかりに。
「成程、成程……面白い。子種を宿しながらも、あの身のこなしは恐れ入る。生娘であれば是非とも後継者にしたいところじゃのう。ま、骨格や胸の膨らみからして齢十六のわしより幾つか年上と見たが」
刹那、玄関の古びた戸が開く。
血塗られた彼女たちが月の光を無償で浴びる時、戸の先の人物が静かに青褪めた。
「……は、つ…………?」
男の声。微かに揺れる黒い瞳が女、彼の妻・初を捉えた。同時に、彼女の近くで嘲弄する少女の存在も。
「くっくっくっ。亭主の登場かのう」
亭主、佐伯晃太郎は妻の変わり果てた姿を再び瞳に映すと荷物を放り投げて近付こうと試みる。しかし、少女は夫婦の最期の立ち会いを決して許そうとはしない。晃太郎の首筋に切っ先の鋭い刃が向けられる。
「ぐっ……」
「くくっ。まあ、そう慌てず待たれよ。汝、この娘の亭主と見受ける」
「おまえがっ……! おまえが初を、俺の妻を手に掛けたのか!?」
「ふっ。まるで話が噛み合っとらんのう。まあ、よいか。その慌てぶりから察するに汝がこの小汚ない家の亭主であることは明白じゃ」
晃太郎は歯を食い縛る。折れるのでは、と錯覚するほど強く憎しみを抱いて。
「……だったら、何だよ。おまえのような外道の言うことなど、俺は……!」
「こ、さ……に、げて……」
浅くなる息と共に初が左手を前へと差し出す。最期の力を振り絞って、まともに声が出せない中、彼女は夫に忠告を言い渡す。自身の死が段々と近付いてることに気付きながら。
「初! 初……! いい、いい……やめてくれ、もう声は出さなくていいから、安静に――」
ぐちゃり。
そんな禍々しく、男にとって絶望的な効果音は妻の心臓を少女が抉ることによって実現した。
「くくく。美しい見事な夫婦愛という奴じゃな。見ているこっちが熱くなる、故に興奮して殺人心が擽られてしまったわい」
「…………………………は、つ?」
ぴくりとも動かなくなった、妻。悪意の欠片もなく嗤う少女と、目先で起きた数秒の出来事に対して理解が追い付かない青年。彼が仄かに沸き上がる感情を昂らせた時、それは他でもない憎悪と化す。
「貴様っー! 殺してやる、絶対に絶対に絶対に絶対に、殺してやるーっ!」
「騒がしいのう。たかが娘一人が死を成した程度で。……だか、良い眼をしとる。まるでわしを今にでも切り刻もうとする勢いのある眼じゃ」
気に入った、そう言わんばかりに少女――八重は瞳を輝かせては不気味にも嗤う。
「亭主。いや、元亭主よ。汝、わしの夫となれ」
「…………………………………………は?」
それはあまりにも長く。どんなに思考を捻っても最良の返しには至らなかった。
見た目が人間の女のフリをした化物と対話している、そう幻想を抱くほど晃太郎の感情は怒りや悲しみだけに溢れながらもぐちゃぐちゃとしたものが芽生える。
「たった今、寡男となったことだしちょうど良いじゃろう。くく、名案じゃろう?」
妻を亡くした、正確には愛する妻をたった今、目先で葬った無神経な女の台詞に言葉を失う。
記憶の中で微笑む妻の顔が黒く塗りつぶされるように。子宝を宿した幸福が塵となって消え去るように。積み上げ、保証された未来は一瞬のうちにして粉々に割れていく。目先の殺人鬼が嘲笑を繰り返す度に彼の悲しみは蒸発され、乱れた呼吸が溺れる。そして、誓う。
――この女は必ず地獄に堕とす、と。
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