楽園の天翅たち

三三一

第1話 

 茹だるような暑さの日だった。

 十七歳の誕生日を間近に控えた夏の日、俺の祖母は死んだ。

 明るく快活な人で、自分のことは名前で呼ぶようにと言って忙しい両親の代わりに沢山遊んでくれたのを覚えている。

 祖母が暮らす郊外は都市部とは全く違い、人工林と棚田が広がっている緑豊かな地区だ。

 棚田の青さはどれほど眺めても飽きはこないほど眩しく、数年ぶりに訪れた祖母の家は、幼い頃に見た光景と変わらなくて驚いた。

 静かで小さな葬儀は二日ほどで終わり、仕事で忙しく早々に帰るつもりの両親の姿に俺は二の足を踏んでしまった。祖母の家から離れがたくて、両親がいないと泣くような都市でもないので、夏休みの間滞在して祖母の家の片づけを手伝うと伯父夫婦に伝えれば、とても喜んでくれた。


「ミスミ〜そこにいたら暑いだろう。こっちで麦茶でも飲みな」

「うん」


 伯父の声に振り返れば、縁側から手招いているのが見えた。

 そう言われて、喉がひどく乾いていることに気づく。俺は額に滲む汗を拭きながら、手渡されたコップの麦茶を飲み干した。


「雨が降るから、そろそろ中に入っておいで」


 そう言われて見上げた空は、雨の気配など感じない。

 棚田があるから都市部より雨が多いとは聞いていたけれど、本当に多いのかとなんだか感心してしまった。

 そういえば、俺が覚えている祖母との思い出は雨の中を一緒に歩いたことばかりだ。


「ユーコさん、雨好きだったね」

「雨が好きなのはお前の方だろう、ミスミ!」

「え?」

「雨なんて珍しくもないだろうに、降るたびに母さんを連れ出しては愉しそうにしてたなぁ」

「本当に。懐かしいわね~」


 思い出し笑いをする伯父に、なんだか気恥ずかしくなってくる。

 しかも、ちょうど話を聞いていたらしい伯母が小さく笑いながら奥から出てくる。


「母さんも随分活発な人だったが、昔のミスミはそれに負けないくらいだったなぁ」


 今では本や携帯端末に嚙り付いている俺の数年前の姿とは思えない。筋肉などついていない身体はたまに性別を間違えられるくらい細い。

 悔しくて運動量を増やしているところだが、成長期が終るまでには身長も伸びて欲しいと思っている。


「ミーくん、良かったら貰ってくれない?」


 そう言って伯母さんが差し出したのは、古びた布で作られた巾着だった。すぐにそれが祖母が大事に首にかけていたモノだと思い出す。


「それ、ユーコさんの……」

「棺に入れてあげられなくて……お母さんも、ミーくんに持ってもらったら喜ぶと思うの」


 掌に載せられた巾着を見下ろす。

 内緒だよ、と言われて中身を見せてもらった記憶がまるで水が湧くように蘇ってきた。

 ああ、本当にあの人はいなくなってしまったのだと、幼い頃に嬉しそうに俺の頭を撫でてくれた祖母はもういないのだと実感する。


『ミスミ。これはね、大事な人の所に連れて行ってくれる宝物なの』


 懐かしい声が耳元で囁いた。


「―大事にします」


 込み上げてきたものを飲み込んで、そう答えるのと同じくらいだった。

 音を立てて、空から水が降ってくる。

 煙る視界の向こうに祖母の姿が見えた気がした。


 夜になっても雨が止むことはなく、いつもならそこまで気にしないのにこんな日だからだろうかなんだか寝つけない。布団の中で何度目かの寝返りを打って、枕元に置いていた巾着に手を伸ばす。

 柔らかな布の向こうに、丸い硬いものの感触がする。ゆっくりと袋の口を開けて逆さにすると、手のひらにコロリと転がったのは水晶玉だった。

 一度だけ祖母に見せてもらったことのある記憶のままの石がある。

 月灯りにかざすと水晶玉の中に金色の針がいくつか浮かんでいるのが見えた。


「大切な人と繋がる石……」


 祖母はこの石を本当に大事にしていた。

 どうしたら俺にくれるのか、と聞いたとき、祖母ははにかむように言っていた。


『ミスミに大事な人が出来たらね』


 握りしめると、優しく手を握りしめてくれた温もりを思い出す。

 ゆっくりと雨の音が遠ざかり、俺の意識は優しい眠りに落ちた。


 ふと、頬を叩かれるような感触に意識がゆっくりと浮上する。

 ぼんやりとした思考の中、闇の中に浮かぶ人影と目が合った。思わず身を固くして伺っていれば、影も驚いたのか身を固くしてこちらの様子を伺っている。


「子供?」

「…………しゃべった」


 月の光を反射して金色に輝く瞳が小さく瞬いた。

 どうやったらそうなるのか分からないくらいボサボサの髪に、白い布一枚の服を着ている。妖怪とかそういうのがいたら、こんな見た目をしているのかもしれない。

 今の時代こんな姿の子供が存在しているなんて、悪い夢でも見ているような気分になる。


「あなたは、てんしさまなの?」

「……え?」

「てんしさま、おねがいします! 兄さんをたすけてください!!」

「にいさん?」


 小さな手が俺の手を掴む。子供にしては棒のように細く乾いた指だった。

 思った以上に強い力で引かれるまま、暗闇の中を進む。

 目が慣れてくると、月明かりに照らされた室内であると分かる。連れてこられたのは部屋の奥にある簡素なベッドの前だった。


「にいさん、にいさん、てんしさまだよ!」


 そう言ってめくられた布の下から現れたのは、月明かりの下でも分かるほど青白い顔をした子供だった。

 俺の手を握る子供と面立ちも髪型もよく似ている。


「この子は、君のお兄さん?」

「うん。かえってきたら、こうなってて……てんしさま、兄さんをたすけて……」

「一体、なにが……」


 明らかに俺の手には余る。いますぐ病院に連れて行かなければいけない状況だろう。夢なら望む光景になってもおかしくないはずなのに、そんな都合のいいことが起きる気配はなく、焦るまま目の前の子供に手を伸ばした。


(小さい手だ…)


 布を握りしめていた手を掴んだ瞬間だった。

 バチッと静電気のような衝撃が走り、目の前に白い星が瞬いた。

 弾かれるようにぐるりと身体が後に倒れこんだかと思えば、背中を柔らかな寝具に受け止められる。


「ぅえっ?」


 しとしとと降る雨の音が耳に飛び込んでくる。

 夢だったのだ。

 そう理解した瞬間、体中から汗が噴き出すような感覚に陥った。


「……ほんとうに、夢だったのか?」


 思わず呟いてしまうほど生々しい感覚が手のひらに残っている。

 手のひらに目を落として驚いた。

 身に覚えのない黒い土汚れが、夢ではないのだと告げている。


 その日を境に、俺はその“夢”を見続けることになった。


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