深夜徘徊病

みけ

第1話 春眠暁を覚えず 

 春眠暁を覚えず。そんな朝は僕には来ない。そうここに断言したい。

 生ぬるい部屋の中、乱れた布団に横たわっている。僕は事の失敗に潰され茫然自失の一時を彷徨っていた。緻密に練った安眠計画が空振りに終わってしまったからである。入浴時間、湯加減、就寝時間、照明、あとは心の余裕。ここまで朝から完璧な安眠スケジュールを編んだ。

 しかし、暗い窓から差し込むの月灯りの梯子。それは夜更けを告げるように僕の横を通る。

 カーテンを勢いよく閉めた。淡く光る枕元の照明の紐も力を込めて引っ張った。夜明けにはまた濃く暗いくまを顔に作られるのだろう。

 春の眠りは心地よいものばかりではない。暁を覚えずどころか夜も忘れられないのだ。僕の目は覚めていくばかりで、瞼を落とすことさえもを知らない。

 決めた。今日は眠らないことにする。暗闇の中で目を開けていると、まるで自分が石像になってしまったかの様な感覚に陥る。何の変化もなく、ただただ時間が過ぎていくだけなのだ。時計の針の音だけがカチカチと響く部屋で、僕は一人悶々としていた。風でカーテンがふわっとなびいた。再び部屋に差し込む月光。ふと窓に目をやると、満月らしい。落ちない瞼と眠らない体は外に行きたいとわがままを言い出す始末。気づけばパジャマのままサンダルを履いて外に出ていた。

 

 夜という柔らかな繭に包まれる。自宅前の大きく弧を描く坂道から、遠くのビル郡の赤い航空障害灯が見える。頬に当たったまだ冷たくて澄んでいる恍惚の空気。煤を叩いたような夜、心を開け放して満月を見つめながら歩いていた。そこに浮かぶビスケットのような月が、僕を空から見下ろしている。その眼差しはとても優しいものだった。

 夜の散歩は神妙で、今ならどこにでも行けるような気がする。パジャマで街を練り歩くのは少しカッコ悪いような気もするが。そうして真夜中の車道を闊歩していた。

 誰もいないこの道に僕だけが歩いている。街灯の少ない道路を照らす淡い光が、僕を導く様に前へ後ろへと揺れ動く。坂道は僕の背中を押すようにして、足は転ぶような下手なステップで下っていった。

 コンビニの電飾が僕の眼球をいじめる。生憎財布は持っていない。店の前で立ち止まり、じっとその明かりを見続けていた。中に見える肉まんのショーケース。どうせなら財布を持ってくれば良かった。今からまた坂を上がってまで財布を取りに行く気力も体力も残っていないので、今日のところは諦めることにする。

 夜は怖い。でも今日僕を誘惑した深夜2時は、大きく柔らかいスカーフのようで、優しい空気と優しい匂いを持っていた。まあただ、少し寒いのが難点だけど。たまには眠らない夜もいいものだと背徳感の皮を被った愉悦に浸っている。しかしながら、その感情は吹き飛ばされてしまうことになる。

「ねぇ、そこの人」

僕の目の前に影ができた。目線を上げるとフードを被った背の高い男。夜中のコンビニ、背の高い男。これはまずいと咄嗟に判断した僕の脳みそは体をUターンさせて一目散に走り出した。坂を駆け上がる足は降りるときよりも情けない足取りで逃げていく。財布を取りに行く体力がなかったはずなのに足は全力で地面を蹴って行く。冷たい風が僕を吹き上げて通り過ぎる。だから夜は嫌なんだよって心が訴えて、心臓がバクバクと鳴って、息が上がって、それでも必死に走った。

「待って!」

その声が聞こえた瞬間、僕は自宅のドアに体当りしてすぐさま鍵を閉めた。チェーンロックも忘れずにしっかりと施錠をする。これでもう大丈夫だ。きっとあの男だって文明の利器には勝てないだろう。安堵の溜息と共にその場に座り込んだ。しばらくすると、背中側からノックが繰り返された。恐怖のあまり腰を抜かしてしまった僕は、その場で小刻みに震えていた。

 

 あれからどのくらい経ったのだろう。僕は玄関で眠ってしまっていたみたいで、朝日が僕を起こしてくれた。

 春の安らかな眠りなんか僕には存在しないのだ。快晴というのに相応しい空を横目で見つめながら洗面台に向かった。  

 鏡に映る僕の顔。目の下には例の如くクマが描かれた。最悪だ。月曜日だというのに。今日が休日だったら許してやってもいいが。

 そしていつものように朝食を食べて、学校に向かう準備をしていた。あの男はどうなったのか、そればかり考えていて登校中も上の空だった。そのお陰で電車を一駅乗り越してしまった。お金もかかるし恥ずかしいし遅刻しそうだという不安にも駆られる。

 これも全部昨日の夜のせいなんだ。

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深夜徘徊病 みけ @mikemikan_chocolate

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