奇跡の子とその愛の行方

紙志木

第1話 はじまり

大勢の男たちが剣を構えている。怒声が飛び交い血飛沫が散る。

剣同士がぶつかり合う音、何かが割れる音、足音、また怒声。大きなベッドの天蓋は無惨に切り裂かれ、元は繊細な模様が描かれていただろう豪華な敷物には赤黒い血がべったりと付いている。


「イズノールへ」


どこからか切羽詰まった声がした。

地獄のような光景だが、不思議と恐ろしいという感情は湧いてこなかった。声の主へ何か問いかけようとして、声が出ないことに気づく。おまけに手も足も動かせない。途端に意識が遠のいた。


********


キリトはベッドからがばっと起き上がり、はあはあと荒い息をついた。手の平も背中も嫌な汗でぐっしょりと濡れている。物の少ない部屋の中を見回して寝る前と何も変わっていないことを確認し、窓の外の空が朝焼けに染まっているのを見ると、ベッドサイドに置いてあったコップの水を飲み干した。


ずいぶん嫌な夢だった。

ベッドから出るとすぐ傍の鏡に自分の姿が映る。汗ばんだ額、肩にかかる黒髪に黒目。いくら頑張って鍛えても太くならない、年齢にしては細い首と腕。


「イズノールへ」


汗ばんで顔に張り付く髪をかき上げながら、夢の中で誰かが言った言葉をつぶやいた。


キリトが住んでいるのは王国の西端の小さな集落のさらにはずれの小さな家だった。

養い親のロベルトはキリトが物心ついた時には既に高齢だったが、キリトが18歳を迎えた去年の冬、風邪をこじらしてあっけなく亡くなってしまった。


「嫌だ、逝かないで。僕が力で治すから。」


泣いてすがるキリトに、ロベルトは薄くなった白髪を乱して力のない声で言った。


「わしはもう十分飽きるほど生きた。もう十分じゃ...」


そう言って目を閉じるとあとはもう意識が戻らず、翌朝冷たくなっていたのだった。


キリトには2つの異能があった。傷を癒す力と、夢見の力。

大層な力のように思えるが、実際は自分の指の小さな傷を治すにも汗だくになって力を使い果たし寝込んでしまうような有様で、死の床にいるロベルトを治療するなど無理な話だった。夢見の力に至っては全く思い通りにならず、いつ誰に起こることとも知れない光景を寝ている間に垣間見るのだった。



「夢を見たのはいつ以来だろう。」


家の戸を開けて春告草の白い花に朝日がさすのをぼんやり眺めながら、ロベルトが亡くなってからすっかり増えた独り言をキリトは言った。

今朝見た悪夢を思い出す。惨劇とイズノールへ、と言う声。妙に気になる声だった。未来の出来事かも知れず、既に過ぎてしまった事かも知れず、ただの夢である可能性さえある。自分に関係がある夢かどうかも分からなかった。

だが、自分は何かを待っていた気がするのだ。神の啓示めいた出来事を。あるいはロベルトを亡くした冬を越えて春を迎え、単に人恋しくなったのかもしれない。


家の裏手に回るとキリトが作ったロベルトの墓があった。いつものように墓におはようと声を掛け、小さな畑の野菜と薬草を収穫するうちにキリトの心は決まっていた。


「行ってみよう、イズノールへ」

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