仮想の部屋から出られない
柑橘
仮想の部屋から出られない
僕には三分以内にやらなければならないことがあった。あっ、今2分59秒になった。タイマーが赤く明滅し、2:58、2:57、2:56と字義通り刻々と残り時間が減っていく。
「はやくっ」
焦りで全身を震わせながら思わずスミカを睨みつけるが、スミカは頭を抱えたモーションのまま微動だにしない。
「はやくっ」
スミカは頭を抱えたモーションのまま微動だにしない。本当に微動だにしない。ギャグか? どういう種類の?
僕は苛立ちに任せてスミカを蹴り飛ばした。こういう時、スミカはいつも涙目になって「痛いなぁ」とこぼす。しかし、あまりにありえん状況で解釈に困るギャグを繰り出す彼の方にもだいぶ責任はあると思う。
残り時間は2分47秒。大写しになった入力ウィンドウには
「■ ■ B E ■ E ■ ■ H A K A I ■ H I ■ A G A ■ A ■ ■ ■ K I ■ ■ ■ U ■ ■ B A F F A ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ E」
“Remaining possible input: 1”
の文字列が浮かんでいた。”input”が示す通り、僕はあと2分37秒で入力しなければいけない。
何を?
正しいパスワードを。
僕たちはこの部屋に、正確に言うと仮想空間内に構成されている部屋に閉じ込められている。脱出するには正しい退出用パスワードを一発で入力する他ない。
仮想空間に五感を接続する、いわゆるフルダイブ技術の発展によりVR技術は急速に市井へと広まり、需要の高まりに応じて技術も更なる向上を見せた。以前は娯楽の用途でしか用いられていなかった仮想空間は今や人々の生活の基盤となりつつある。人々は仮想空間内に構成された自室内にもこれまた仮想空間内で構成された家具やらテレビやら仕事道具やらを設置して、食事・風呂以外の生活のほぼ全てを仮想空間内で完結させていた。
仮想空間のメリットとして身体への感覚フィードバックが取捨選択できることがあった。例えば、仮想空間内で握ったペンの感触はそのまま現実の身体へとフィードバックされ脳へと伝わるが、仮想空間内でタンスの角に足の小指をぶつけても、生じるはずの痛みは現実の身体へフィードバックされない。仮想空間内で生じる「不快」はある一定の閾値を超えると一切合切フィードバックされない仕様となっていて、それゆえ当然現実よりも居心地が良かった。椅子に座って何時間仕事をしようとも肩こりは一切生じず、それどころかフルダイブ機器により現実の身体には適度な運動刺激が与えられ、身体の健康は自動的に保たれる。それから省スペース的というメリットがあり、更に経済的というメリットもあった。仮想空間内の物品は基本的に全て無料公開されているモジュールからダウンロードすることができる。現実の家に高いソファを運び入れなくても、仮想空間内で最高級のソファと同様の質感を持つものを導入すれば良い。無料で。
そんなわけで人々は仮想空間に居を構えることとなったわけだが、住居ができると当然泥棒も発生する。無料の家具を盗んでどうすんねんと思われたかもしれないが、実はいくつか価値のある物品がある。一つはデータ。もう一つはお金である。
この部屋の右奥、あそこらへんに転がってるでっかいコイン状のオブジェクトを見てほしい。これがお金だ。
お金をわざわざオブジェクト化してどないすんねん盗まれやすいだけやろと思うのも当然だが、存外こっちの方が安全なのだ。実はこの仮想空間を提供している会社のセキュリティは極めて丈夫な造りをしていて、少なくともそこらへんの銀行よりは遥かに堅固なものとなっている。業界一のシェアを誇るこの会社はうなぎ上りの収益にものを言わせて様々な会社を合併しまくり、結果としてサービスの質は更に向上し更にユーザーが増え、更に増えた収益でまた色んな会社を合併しまくった結果、最高のユーザビリティと最強のセキュリティを誇るなんだか凄すぎるものが誕生してしまった。下手したら大国の国防総省並みのセキュリティシステムが採用されているとの噂もあるくらいだ。更にこのコインは仮想空間上に存在するため、当然そのまま煩雑な手続きなしで様々な支払いに充てることができる。もちろん仮想空間上のオブジェクトなので毀損するわけもないし、更にコインは部屋の持ち主あるいは持ち主が権限を与えた者にしか視認できない。
で、問題のセキュリティの話だ。仮に泥棒が手間暇かけて何とか部屋に侵入して、権限を書き換えてコインを現出させ、コインを持って帰ろうとしたとする。その時に効力を現すのが退出用パスワードだ。つまり、入口・部屋の中・出口と三重にチェックポイントを設けることで泥棒を少なくとも確実に捕まえようという設計になっている。さらに退出用パスワードに関しては部屋の主が好きなように仕様を複雑に変更できる。
僕の友達であるスミカ、ユーザー名sumika0731もご多分に漏れず仕様を弄っていて、そのせいで現在僕たちは閉じ込められている。
いや、スミカが入力すれば良いじゃん。
ごもっともな指摘だ。というか僕もスミカに入力してもらう気でいた。
「わ、忘れた……」
友人は僕が思っていたよりも1000倍アホだった。
「わ、忘れた……」
「は?」
「ほ、ほ、本当だって!」
数分前、スミカは声を震わせてそう言った。まぁこの状況で嘘を吐くわけはないだろうし。
自分で設定した退出用パスワードを忘れた間抜けの存在も一応考慮はされていて、カスタマーセンターに連絡するとサポートの人々が駆け付け、いくつかの確認の後パスワードリセットをしてもらえる。のだが今これは使えない。
パスワード入力ウィンドウを開くと大量の四角い入力ボックスが表示された。なるほど、桁数は指定されているのか。ひ、ふ、み、よ、と左から数えていく。
46桁あった。
「てめぇいい加減にしろよ」
思わずスミカに蹴りを入れると「ひぃん」と情けない声が返ってくる。
46桁。アルファベットの総文字数の約1.7倍。ひらがなの総文字数と同じ。一応入力キーボードからして大文字小文字の区別や記号入力はなさそうだが、にしたって酷すぎる。入力可能回数の表示はないから総当たりができるとして、試行回数は最高で26の46乗だから……だいたい5の90乗で……。
少なく見積もって10の63乗回の試行が必要になる。
もう一度スミカに蹴りを入れた。ふざけんなよ。
「最後の方にはヒントが、蹴らないでっ、ヒントが出るから……!」
どうせお前のことだから意味不明なギャグ調のヒントなんだろ。スミカは無視することにして、ひとまず適当に入力してみることにした。10の63乗里の道も一歩から。
「A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S T U V W X Y Z A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S T」
入力。
うん?
入力すると変な表示が出た。
「A △ B △ C × D × E △ F △ G △ H △ I △ J × K 〇 L × M △ N △ O △ P × Q × R △ S △ T △ U △ V × W △ X × Y × Z × A △ B △ C D × E △ F △ G △ H △ I △ J × K △ L × M △ N △ O △ P × Q × R △ S △ T△」
〇は「記号が合っている」、×は「合っていない」の意味だと仮定して、△は何だ? そして〇が緑に、△が黄色に、×が灰色になっている意味も分からない。配色の意図が全く見えない。
首を傾げていると、四角が浮かんでいただけだった入力ウィンドウに一箇所だけ変化が起きた。
「■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ K ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■」
左から11番目が四角ではなくKになっている。しかも緑色のK。
待てよ。このシステムにこの配色。
「Wordleか」
スミカは目を見開いた。ここまで分かりやすかったら誰でも分かるだろ、と心の中でつっこみを入れる。
Wordleとは単語当てクイズの一種で、5文字の英単語を当てる形式のものだ。Wordleでは「実際にその位置にある文字」が緑色に、「その位置にはないが文字列には含まれる文字」が黄色に、「そもそも文字列に含まれていない文字」が灰色に表示される。例えば答えが「HANDY」のクイズに「PUNCH」と入力すると
P:灰色
U:灰色
N:緑色
C:灰色
H:黄色(Hは「HANDY」にも含まれているが位置が違う)
と表示される。
「でもこれって滅茶苦茶簡単だよな」
スミカは目をさらに見開いて、口まで開いている。当のパスワード設定者が驚いている意味はさっぱり分からないが、とにかく集中したいのでスミカを完全に黙らせることにした。
さて。初回に入力した結果から、パスワードはA,B,E,F,G,H,I,K,M,N,O,R,S,T,U,Wのたった16文字から構成されている。しかも無意味な文字列を入力しても問題ない。すると取るべき方針は一つに定まる。
「A A A (中略) A」
入力。
すると、また入力ウィンドウに変化が起きる。
「■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ A K A ■ ■ ■ ■ ■ A ■ A ■ A ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ A ■ ■ A ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■」
予想通り。
Wordleの難しいところとして、「意味のある」単語を入力しなければならないことがある。つまり「ABCDE」のような入力は受け付けられないのだ。でも今回は違う。試行回数の制限もない。
この場合、「全部同じ文字で出来た文字列を入力する」ことを繰り返せば自動的に答えにたどり着く。しかも今回文字列に出現する文字の候補はあらかじめ分かっているのだからもっと楽だ。
僕は余裕綽々で入力を続け、「B B B (中略) B」、「E E E (中略) E」、中略、「K K K (中略) K」まで入力したところで、突如警報音が鳴り、赤色の明滅する馬鹿デカいタイマーが出現し、そうして冒頭に戻る。
いやいや。
いやいやいや。
「だって、ゲームは最後の最後に罠があった方が楽しいでしょ?」
スミカの口癖が聞こえてきて、思わずもう一度蹴りを入れてしまった。しかも「最後の方にはヒントが」って何だったんだよ。出せよ。はやくっ!!
イライラしていても仕方がないので、どうにか考えよう。思考速度倍加パッチを起動する。これ頭痛くなって嫌なんだよな。
残りの文字:M,N,O,R,S,T,U,W
現在の文字列:■ ■ B E ■ E ■ ■ H A K A I ■ H I ■ A G A ■ A ■ ■ ■ K I ■ ■ ■ U ■ ■ B A F F A ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ E
「HAKAI」とあることだし、おそらくこれは日本語をローマ字化したパスワードだ。違うかもだけど、そう決め打って考えてしまおう。
残りの文字のうち母音:O,U
残りの文字のうち子音:M,N,R,S,T,W
母音が2つ残っているのが痛いけど言っても仕方がない。
最初の■ ■ B E ■ Eは「飛べて/統べて(TOBETE)」か「全て(SUBETE)」だろう。「全てを破壊(SUBETEWOHAKAI)」だと意味が通るな、待て、でも「(4文字の名詞)は、~~」の可能性もあるにはある。HAKAI■HIの部分が気になるな。■は母音で確定するはずだが、「はかいおひ(HAKAIOHI)」も「はかいうひ(HAKAIUHI)」も意味が通らな、あっ、「し(SHI)」か! 「はかいし(HAKAISHI)」だと意味が通る。可能性としては①「破壊し」、②「墓石」、③「~~は開始」の3通りがあるな。スミカって中二病なとこあるから②もありえそうだし、一旦保りゅ、いやこれ後ろの繋がりから確定しそうかも。「はかいし■Aが■A」とあって、総当たり的に全部入れていくと、えっと、「破壊しながら(HAKAISHINAGARA)」!! これしかありえない。となると、こうか。
現在の文字列:S U B E T E W O H A K A I S H I N A G A R A(全てを破壊しながら) ■ ■ ■ K I ■ ■ ■ U ■ ■ B A F F A ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ E
■ ■ ■ K I?
ローマ字は子音+母音の組み合わせで基本2文字になっている。3文字ということは、ということは、えっと、①「母音+子音+母音」/「子音+母音+母音」(2音)、もしくは②「子音+子音+母音」(1音)しかないな。②であり得るのは「つ(TSU)」のみ、一方①であり得るのは割と無限にありそう。後ろのKIとの繋がりを考えると「登記(TOUKI)」とか「労基(ROUKI)」とか? というか後半に空欄が多すぎる!! まず「BAFFA」って何なんだ。バッファーなら「BUFFER」なはずだし。いやでもスミカって英語の綴り知らなさそ
ガシャンゴン。
部屋の隅で物音が聞こえ、僕は咄嗟に視線を向ける。ついでに残り時間を見たら残り1分を切っていた。
牛がいた。
え?
牛がいた。茶色の。デカいやつ。
部屋の右奥をその牛が走っている。猛烈な速度で端から端へと突進し、シャトルランみたいに往復して突進を繰り返している。あまりの速さに牛と衝突したオブジェクトは軒並み削り取られて、え?
コインが削り取られていた。牛と衝突した部分が完全に消滅している。仕様上コインの破損は不可能なはずで、え?
僕が混乱している間に、なんとなく牛との距離が近くなってきた。多分雑巾がけみたいに、手前から奥、奥から手前の往復を繰り返しながら徐々に左へとにじり寄って来ている。すでにスミカの部屋は右端4分の1が綺麗さっぱり部屋の枠組みごと消滅してしまっており、消えた壁の向こうには謎の灰色の空間が広がっている。
残り時間は43秒。最後のヒントとやらは一切出て来ないまま、意味不明な牛が突進を繰り返し、あっ牛が増えてる。行列みたいにして突進している。どういうことなんだ。もう分からん。万策尽きたかと覚悟して僕は目を瞑った。
突進?
突進。和語にすると突き進む。
「TSU」「KI」SUSUM「U」。
「BAFFA」はバッファーなんかじゃない。牛っぽくて「バッファ」から始まる動物。「バッファロー」。
全てを、字義通り「全て」を破壊し突き進むバッファロー。
「これがヒントか!!」
叫ぶとほぼ同時に僕は文字を入力し始めていた。
「SUBETEWOHAKAISHINAGARATSUKISUSUMUBAFFARO(全てを破壊しながら突き進むバッファロー) ■ ■ ■ ■ ■ E」
残り5文字。山勘で2文字で区切る。「■ ■」「■ ■」「■ E」で出来る文字列。Eで終わってるから動詞ではないし形容詞でもないし形容動詞でもない。名詞だ。全てを破壊しながら突き進むバッファローの濁流はもう部屋の半分以上を破壊している。時間がない。バッファローが沢山いることもヒントか? 沢山いること。動物が沢山いること。
群れ。「群れ(MURE)」。
「SUBETEWOHAKAISHINAGARATSUKISUSUMUBAFFARONOMURE(全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ)」
これで間違ってたらもうしょうがない。僕はEnterキーを押そうとして。
危ない。大事なことを忘れていた。
僕はもう一切動くことのないスミカのアバターをバッファローの群れへと投げ込んだ。「全て」を破壊するバッファローは、当然、本来欠損しえないアバターをも破壊する。sumika0731は塵一つ残さず消滅した。
仮想空間内で生じる「不快」はある一定の閾値を超えると一切合切フィードバックされない仕様となっている。じゃあ閾値以下の痛みを一定間隔で与え続けたら? 精神的な苦痛ならどうだろう? 僕は興味があった。仮想空間内で人は殺せるのか。それで、友達の中で割といなくなっても良いスミカを選び、彼の部屋に招いてもらってから部屋の制御権者を僕に書き換え、スミカに多種多様な実験を行った。結果、精神的なストレスが効果的だと判明した。僕が今使っている思考速度倍加パッチは脳の神経細胞の活性を高め、脳内の各領域間での情報伝達を早めることで思考速度を向上させている。思考倍加パッチで設定をmaxにした状態のまま各種の刺激、即ち心因的ストレスを誘引する音・映像を与え続けると脳は異常な速度で抗ストレスホルモンを放出する。これを長時間行えば、抗ストレスホルモンのうち特にノルアドレナリンの大量分泌により致死性の不整脈が引き起こされる。
結果が分かって僕は満足だった。後はスミカから退出用パスワードを聞き出し、スミカを殺して部屋を脱出するだけ……だったのが、スミカのド忘れと謎のギャグセンスのせいで酷い目にあってしまった。いやはや。参った参った。
Enterキーを押して、タイマーが停止し、バッファローたちも動きを止める。唯一無事だった左側の壁にドアが現れて、僕はドアノブを引いて退出した。
ドアを閉める前に振り返ると、スミカの部屋は大部分が消滅、もとい「破壊」されていた。僕は思わず笑ってしまう。部屋の中で起こったことはログとして記録に残る。本来なら退出してからすぐに頑張ってセキュリティをくぐり抜けてスミカの部屋のデータを削除しなければならなかったのだが。
「全て」を破壊するバッファローは、部屋の枠組みまでをも破壊していった。恐らく彼らは部屋のデータそのものを消し去ったのだろう。当然、僕の犯行も全て消滅しているはずだ。
後ろ手でドアを閉めて、僕は現実に浮上する。色々あったからかお腹が空いてきた。夕飯どうしよう。焼肉にでも行こうかな。
仮想の部屋から出られない 柑橘 @sudachi_1106
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