水底の花

藍田レプン

水底の花

 東北出身の40代男性、Tさんの少年時代の話である。

「僕が生まれ育った村には幅の広い、浅い川がありました。山の麓の上流から順に一の橋、二の橋、三の橋とありまして、僕の家のそばには六の橋がありました。下流の方だったんですね」

 Tさんは夏になると、よくその小さな橋の上から川へ飛び込む遊びをしていたという。

「川までは2、3メートルくらいの高さでしたかね。そんなに高さは無いんですけど、実際飛び込むとすごく高いところから落ちるようなスリルがありました。それが楽しかったんですね。橋の下の水深は2メートルも無かったと思います。でも、子供ですから当然足はつかない。程よい水深のおかげで怪我をすることも無い。川の流れはとても緩やかで、飛び込んだらそのままゆっくり流れに身を任せて、足のつくところで川岸に上がり、また六の橋まで戻る。夏休みの間は毎日のようにそんな遊びをしていました。今と違って娯楽の少ない時代でしたから」

 その川遊びで、一度だけTさんは不思議な体験をしたという。

「小学校高学年のころだったかな。その日も暑くて、僕は友達数人と一緒に六の橋で飛び込み遊びをしていました。友達が笑いながら飛び込んで、大きな水しぶきが上がって、ゆっくり下流に流れていく。次は僕の番だといつものように橋の上から、川へ向かって飛び込みました。そうしたら」

 いつもは角の取れた丸い石が見えるばかりの青緑色の川底が、暗い藍色に沈んでいる。

 水深が深くなっている?

 けれど川の流れはいつものように緩やかだったし、増水したという話も聞いていない。

 なにより川が荒れている時は、いつも母に止められていた。母は何も言っていなかった。いつも通り、日が暮れる前には帰るのよと言っていただけだ。

 底が見えない水の中、不思議と息苦しさは感じなかった。

 見ればその藍色の底が淡く光っている。

 何だろうと興味が湧き、その光に向かって泳ぐ。

 するとそこには

「綺麗な黄色い花が咲き乱れていました。たんぽぽよりもっと花弁が大きな、菊でもないんですけど、すいません、花には詳しくなくて。とにかく、水中にはあるはずのない光景でした。小さな花畑の幻想的な美しさに、子供ながら見とれていると」

 ぐい、と何者かに足首を掴まれた。

「気がつくと、私は一の橋の上に立っていました」

 下流の方を見ると、米粒ほどの大きさの友人たちが、六の橋の上で騒いでいるように見えたので、Tさんは急いで六の橋まで戻ったという。

「僕が飛び込んだまま浮かんでこないので、もしかして溺れたんじゃないかとみんなパニックになっていました。そんな中、僕が上流から戻ってきたからもう大騒ぎになって」

 その日はまだ陽が明るいにもかかわらず、みんな急いで帰宅したという。

「仮に僕が飛び込んだ時に気を失って視た幻覚だとしても、上流の一の橋にいるのはおかしいんです。いくら川の流れが緩やかとは言っても、子供が流れに逆らって泳げる距離じゃない。無意識のうちに泳いでいたなら川に僕の姿が見えますし、飛び込んだ後すぐに川から上がって一の橋に向かったのなら、その姿も見えるはずです。でもその場にいた友達の誰一人として、飛び込んだ後の僕の姿を見た者はいなかった」

 夜になって、仕事から帰ってきた父にそのことを話すと、それは河童にからかわれたのだろうと言って笑われた。

「河童もお前たちと遊びたかったのかもしれないな。だってほら、河童はいつまでたっても子供の姿のままだから」

 その父の言葉を聞いて、なぜか寂しいような気持ちになったことを今でも覚えている、とTさんは語った。

「その後も懲りないもので、僕たちは飛び込み遊びを続けていました。でも不思議な体験をしたのは、その一度きりです」

 一度くらい、河童と遊んでみたかったですね、とTさんは懐かしそうに微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水底の花 藍田レプン @aida_repun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ