1-16『不知火夏生は手を引かれる』
「んお……?」
この喫茶店は三階建てで、俺たちがいるのが二階だ。
不知火は、上の階から階段を降りてきていた。
どこか周囲の様子を探るような不知火。向こうの視界もこちらを捉える。
「……! ……っ、――――!」
何か訴えたいことがありそうな様子であたふたする不知火。
それを見つめていると、やがて彼女は諦めたようにこちらへと歩み寄ってきた。
「なんで景行がこんなところにいるわけ? しかも、樹宮と」
不知火は言う。
征心館の生徒がいてもまったくおかしくない場所だと思うのだが、それはさておき。
「――こんにちは、不知火さん」
低く、普段とは少し様子の異なる声で樹宮は言った。
かなり意外な反応だ。
お互い何かしら、思うところがありそうなのは察していたが。
それでも、実際に顔を合わせてまで、露骨に態度に出すのは樹宮らしくなかった。
「樹宮……何、デートってワケ?」
一方の不知火も、どこか挑発するように告げる。
仲がいい、とはとても言えなさそうだ。俺の肩身が狭くなってくる。
「ええ、そうですよ」
「そ――そうなんだ!? ホントにそうなんだ……!?」
動じない樹宮に対して、不知火は顔を赤くしていた。
普通なら逆じゃないかと思うのだが。
どうやら相性的には樹宮のほうが上回るらしい。
「ですので、馬に蹴られたくなければ気を遣っていただきたいところですが」
「う、うるさいなっ。別にわたしだって、樹宮になんか興味ないし!」
「言葉遣いがはしたないですよ。ここは学外です。せめて征心館の生徒として、最低限は恥じない態度を心がけてほしいものです」
「こ、こんなところで不純な交友してる奴に言われたくない……!」
「想像力が豊かですね。さすが、元天才子役ですか」
「――煽ってんの?」
瞬間、不知火の纏う態度が一瞬で冷えた。
口調も態度も、そんなに大きく変化があったわけじゃない。
だが明確に雰囲気が違う。
これには俺も驚かされた。
不知火の感情表現は、なんだか次元が違うようだ。
「は。まあ別にいいけど」
だがそれも一瞬。不知火はすぐにいつもの様子に戻って、
「確かにあんた、外面だけはいいもんね。何も知らない新入りひとりくらいなら、手玉に取るのもワケないって話だ」
「――――――――」
今度は、樹宮のほうが纏う空気が一瞬にして重くなる。
こちらは明らかだ。
樹宮をはっきりと怒らせたことが誰にでもわかる重い空気――。
「何が仰りたいんですか、不知火さん」
「べっつに? あんたに仰りたいことなんてひとつもないけど? ああ、だけど景行には教えておいてあげたほうが親切なのかもね。樹宮の本性ってヤツを」
「……昔のことで逆恨みをしているのであればお門違いです。想さんには関係ない」
「勝手なことを勝手に抜かさないでくれる? それを決めるのって樹宮じゃないでしょ」
「いい加減にしてください」
「こっちの台詞なんだけど」
いや俺の台詞なんですけども。
とか、言える性格だったらもうちょっと楽だっただろう。怖すぎて何も言えない。
上に姉がいる影響で、こういう空気には敏感なのだ。
怒っている女性に逆らおうという気力は、物心つく前に叩き折られている。
いや――でなくともふたりの迫力はちょっとしたものだった。
空気が死んでいる。
決して大声ではないのに、周囲の客さえ息を潜めていた。
ああ、何かを言わなければ。
こういう空気は本当に苦手なんだ。
とにかく頭を回して、なんとか言葉を編み上げる。
「えっと……不知火?」
「――何?」
ぎろり、と鋭い視線が俺に注がれた。
昨日の様子と違いすぎる。俺に怒っているときには見えていた、素の人の好さみたいなものが完全に消え去っていた。
あのときと同一人物には思えないほどの強い威圧感だ。
それでも俺は、とにかく必死に空気をかき混ぜる。
「あのー……そう、そうだ。不知火って確か早退したはずじゃなかったっけ?」
「あ」
すっと、不知火の纏っていた威圧感が霧散した。
よ、よし。
何が効いたのかわからんが、どうやら話題選びは成功したらしい。
「な――なんでそんなことを、景行が知ってるんだよぉ……!?」
口調が戻っている。それを好機と見て俺は続けた。
「いや、今日ちょっと不知火を探してて。教室に行ったらそう聞いたんだ」
「わ、わたしを!? なんでえ!?」
「話があったからだけど。……不知火、こんなとこで何してんだ?」
「う、えと……」
答える言葉が見つからないのか、不知火はきょろきょろと目線を彷徨わせる。
それで、おそらく気勢を削がれたのだろう。溜息交じりに樹宮は言う。
「――またサボりですか」
「な……樹宮っ!」
「突っ張るのは勝手ですが、貴女には向いていないと思いますよ」
「う、うるさいな……! だから樹宮には関係――」
「あまり押見先輩を悲しませるような真似はしないことですね。確かに私には関係のないことですが、押見先輩にも同じことを言えるんですか?」
「……っ」
「すみませんでした、想さん。空気を悪くしてしまいましたね」
そこまで言うと樹宮は鞄を持って立ち上がった。
いつの間にか、彼女のカップは中身がなくなっている。
「ご馳走様でした」
「え? あ、ああ……それはいいけど」
「今日のところは帰りますね。これに懲りず、また誘っていただければ嬉しいです」
「……お、おう……」
としか言えない俺だった。
引き留めるのも、それはそれで悪いことかもしれない。
階下に去っていく樹宮の姿を、俺と不知火で見送ることになるという不思議な時間。
不知火も不知火で呆然とした様子だったが、やがて我に返ると。
「あ、……わたしも行くからっ」
とだけ言って、そのまま店を出て行ってしまった。
およそ三十秒ほど、俺は取り残されたまま呆然と押し黙っていた。
ブレンドのカップを手に取ってみる。まだだいぶ熱があった。
これをあの短時間で飲み干すとは、樹宮もなかなか大した気合いだが――まさか置いていかれてしまうとは。
「……いや呆然としてる場合じゃないな」
首を振る。予想だにしない出来事だったが、これを機会と捉えなければ。
俺も一気にブレンドを飲み下し、片づけをして店を飛び出す。
「確か不知火は、学校方面に向かったはずだよな……?」
二階の窓から見えた記憶を頼りに、俺は学校の方面へと戻る方向に足を進めた。
しばらく走ったが、学校までのまっすぐな道のりの先に不知火は見えない。まだそんな遠くへは行っていないはずだから、これはおそらく道をずれたか。
そう判断して、通学路をひとつ外れて脇道に入った。
――そして見つける。
道の端。
人目を避けるような場所で、頭を抱えて蹲っているひとりの少女の姿を。
「あああああ、やっちゃったやっちゃった、またやっちゃったあ……っ!」
言うまでもなく不知火夏生だ。
こいつのは素は、たぶんこっちの顔なのだろう。
「どぉしてわたしはこう、売り言葉に買い言葉で……でも樹宮さんだって酷かったもん。わたしだって言いたいことくらいあるもん……むー、そもそもデートなんて嘘じゃん!」
「…………」
「だいたい怖すぎるんだよ、樹宮さんは……うぅ、なんだよあの目ぇ。わたしよりずっと演技が上手なんじゃないのぉ……? わたしが見たどの役者より迫力あるってぇ」
「…………」
「ううう、絶対ヘンな女だと思われたよぉ……景行くんは、わたしのこと知らないみたいだったのに、あんなの見られたら印象さいあくだよ、どうしてくれるんだよぉ……!」
「いや、俺はあんま気にしてないけど」
「わっひゃあ――――っ!?」
不知火は奇声を上げて飛び上がった。
たぶんさきほどのより、今の様子がいちばん他人に見られたくなさそうだ。
「な、なな、なんっ――なんで景行くんがここにいるのぉ!?」
「あー……通りすがり?」
「すがるなよぉっ!」
「縋るなよ……」
「縋るよぉ!」
「コイツ本当にさっきの奴と同一人物か?」
元子役の演技力、と言っていいのかどうかわからないが。
樹宮にも劣らない迫力があったあの不知火と、目の前の弱々しい姿に差がありすぎる。
「――うっ」
と不知火は呻いた。自分が素を見せてしまっていることに気づいたらしい。
すっと、そこで彼女は立ち上がった。
背筋をまっすぐに、軽く髪を掻き上げながら。
「は? 何勝手に追いかけて来てんの? ストーカーなの? やめてくれる?」
おお、と感心したくなる切り替えの早さだ。
立ち方も表情もまるで違う。正直、本気で別人に思えるほどの差があった。
が、
「いやもう手遅れだろ」
「……だよね……わたしもそうじゃないかとは思ってました……」
「お前、今までの態度はキャラ作りか?」
「フ……」
薄く笑って、それから不知火は。
「そうですわたしは本当は根暗で陰キャです突っ張ってましたもうごめんなさいわたし如きが調子に乗って……」
「いやそこまでは言ってないけども!」
「いっそ罵ってよ……いや、やっぱやめて。今は心に響いちゃう。泣くかも」
「あの……まあ、なんだ。そんな気にすんなよ」
「景行くん……!」
「正直、そうじゃないかと思ってたから」
「景行ぃ!!」
ぽかぽかと肩を殴ってくる不知火さんであった。
お気に召さない返答だったらしい。名前の呼び方が呼び捨てに変わった。
「わ、わたしの演技は完璧だったはずなんですけどぉ!?」
「まあ確かに演技は上手かったけど」
「でしょう!?」
「演技以外が終わってるから」
「それトドメだよぉ! うわはぁんっ!!」
激弱と言っていい素の性格を、演技力だけでカバーしていたということか。
そんな面白事実がまろび出てくるとは、さすがと言うべきかなんと言うべきか。
「……いやでも、実際すげえ演技力だったな。ずっと意図して振る舞ってたわけだろ?」
「そ、そうだけど……」
「さっき怒ったときの威圧感はちょっとしたもんだったな」
正直、俺はかなり感心させられていた。
単純な言動ではなく、それはたとえるなら、纏っている雰囲気自体を変えて、目の前の相手に自分の意図を伝えるような。
経験に裏打ちされた、場に干渉するひとつの技術。
……なるほど、俺も少しは《演技》というものを学ぶべきかもしれない。
「しかし、それはそれとして不知火。お前、どうしてそんな演技してるんだ? 普段から意識的に突っ張ってるわけだろ? なんでわざわざそんなこと」
「い、いいでしょ別に。そんなのわたしの勝手だし」
「まあ、そう言われればそうなんだが」
ある意味では、自分の演技力を最大限に活用しているとも言えるわけだ。
さすがに、それを生徒会に成果として報告はできないけれど。
「誰にも知られたくなかったのにぃ……」
不知火は目をぐるぐるさせながら唸っている。
そんな彼女に俺は訊ねた。
「つか、あれか? もしかして入学式の日に、初めて会ったときの――」
「……うん。あれは単に、樹宮さんの真似をしてただけだよ。演技は得意だから」
「そういうことか……」
元ネタより先にモノマネに会ったみたいな話なわけだ。
ただ確かに思い返してみれば、あのときの不知火の態度は――確かに樹宮そっくりだ。
「案内役だったし。正直そんなやる気なかったけど、頼まれちゃったし。ああいうふうにやれば緊張しないで済むかな、って思っただけ」
「その割には態度悪かったけどな……」
「それは! だって、……この人は、わたしのことを知らないと思ってたから」
「うん……?」
よくわからない不知火の言葉に首を傾げる。
彼女は一瞬だけ俺を見たが、やがて息をつくとこう続けた。
「わたしだって、初対面の人にわざわざ喧嘩売ったりは、ホントはしたくなかったけど。でも急に、わたしのこと知ってるみたいなこと言い出すから、ああ、この人もか――って思っちゃっただけ。別にそれだけだから!」
「それは……」
「わたしは相手を知らないのに、向こうはわたしを知ってるなんて――そんなの、あんま楽しいことじゃないじゃん。わからないかもしれないけど」
「…………」
小さく、俺はかぶりを振った。
わかるような気はするが、そんな安易な返事はできない。
だから話題を変える。
「なあ。不知火って、昔は役者やってたんだよな?」
「――むぐ。まあ、一応そうだけど……じゃあ、やっぱり知らなかったの?」
「名前を聞いたことはさすがに。でも正直に言えばお前がそうだとは気づいてなかった」
「なら樹宮さんがばらしたんだな……知られたくなかったのに、あいつぅ……!」
恨みがましく不知火は言うが、言葉は非常に弱々しい。
根本的に、誰かを敵に回すようなことが苦手なのだろう。
正直かなり共感があった。
「……役者は辞めたのか?」
「そうじゃないよ。ちょっと休んでるだけというか、……まあ辞めてもいいんだけど」
割合、あっさりした態度で不知火は答えた。
そんなに未練はなさそうな態度だ。
「もったいない。俺でも聞いたことあるくらいだったのに」
「そういうこと言う? 最初に会ったとき、結局気づいてなかったんでしょ」
「いや、そう言われたらそうだけど」
まさか《なつき》という名前がトラウマだから目を逸らしていた、とは言えない俺だ。
「子役なんて寿命短いし、そんなものだよ。別にテレビの仕事なんか今はないし、たまに演技はするけど、そういうのに時間使ってると学生生活楽しめないじゃん」
「あー……」
言わんとせんことはわかった気がした。なるほど、つまり。
「役者やるより普通に遊びたい、みたいな話か」
「な、なんだよぉ。どうせいっしょに遊ぶ相手もいないくせに何が青春だ笑わせるぜって言いたいのかよぅ……!」
「言ってない言ってない言ってない」
「仕方ないじゃん……小さい頃は仕事ばっかだったし、わたしだって少しくらい……もう仕事の話しないでほしいんですけどっ! わたしだって青春したいんだよっ!」
「わかった、わかった。悪かったって」
「慰めるならもっと気合い入れて慰めてほしいです!」
「こいつ面倒臭えな!!」
だが気持ちはわかるような気はする。
詳しくはないが、あれだけ大人気だった子役なら遊ぶ暇もなかっただろう。その反動が今やって来ているとすれば、普通の学校生活に憧れも生まれる。
ただ、
「その割にはお前……授業サボってひとりで喫茶店か?」
「べ、別にサボったわけじゃ……いやサボったけど。それには事情があったのっ!」
「事情って?」
「だから、それは――そうだった忘れてたあっ!!」
いきなり大声を上げた不知火に、俺は思わず面食らった。
彼女は焦ったように、あわあわと手を動かし、それから縋るように俺のほうを見て。
「ど、どうしよう?」
「いや何が!?」
「えと、あの……わたしこれから学校に戻って
「……だったら戻ればよろしいのでは」
「か、景行がいきなり話しかけてきたんでしょお!?」
「その前からここで蹲ってたじゃねえか!」
「あんなことあったんだからメンタルをリセットする時間は必要なんですぅ! そもそもあの店に景行がいたこと自体が悪いんですぅー!」
「俺のせいだってのか!?」
「ひぅ……。な、なんだよぉ、そんなに怒鳴らなくてもいいじゃんかよぉ……」
「情緒!」
不知火は想像の五千倍くらい面倒臭い性格をしていた。
困ったように手を動かして、かと思えば泣きそうな顔で蹲りながら俺を見上げて。
「どどど、どうしよう、約束の時間に間に合わなくなるぅ……」
「あああもう、何時だ待ち合わせは!?」
「十六時半……だけど」
「だとしたらまだ間に合う! ほら、急いで戻るぞ! 手ぇ貸せ!」
言って俺は、不知火に向けて右手を差し出した。
対する不知火は、まるで不思議なものを見るような目をこちらに向ける。
「あ……」
「あ、じゃない。時間ないんだろ? 送ってってやるから、ほら、急いで立つ!」
「あ――えとそのっ。でも、……うぇとぉ?」
混乱したように、不知火は口をあわあわさせる。
だがすぐに時間がないのを思い出して、彼女はおずおずと俺の手を握った。
「そ、それじゃ、その……、よろしく」
「よし、行くぞ不知火」
不知火の手を取り、俺は彼女を先導するように学校の方向へ走り出した。
――何か記憶に引っかかるものを感じたのはその瞬間だ。
「あ……?」
動き出した足が思わず止まる。
今、何か、妙な既視感が脳裏をよぎったような――そんな気がした。
ずっと昔にも、こういうことがあったような。
後ろをついて来る誰かの手を、引っ張るように走ったことがあったような――。
「か、景行……?」
急に立ち止まった俺に、不知火が不安そうに声をかけた。
かぶりを振る。下の双子たちの面倒を見ていたときのことを、ふと思い出してしまっただけだろう。
それよりも今は、不知火が遅刻しないように走ることのほうが先決だ。
無意識に握っていた手を放して、俺は彼女に告げる。
「……いや冷静に考えたら俺まで走る意味ないなと」
「ここまできて急に裏切るのっ!?」
「冗談だよ、安心しろ。もし遅れたら、俺のせいだってことにして謝ってやっから」
「う、うん! わかった! そのときは景行のせいにする!」
「オッケー調子いいな! いい性格してるよ!」
現在時刻は十六時十五分。
約束の時間まではあと十五分――ギリギリだが、急げば間に合わない時間じゃない。
「ああなんか遅刻するかもしれないと思ったらお腹痛くなってきた……」
「メンタル弱すぎるだろお前!」
砂金が貧弱なら、こっちは薄弱と言ったところか。
いやまあ俺も似たようなもんだが。
奇しくもさきほど言われた通り、俺は不知火のことを、気合いを入れて慰めながら来た道を後戻りするように走る。
「がんばれ不知火! お前なら間に合う!」
「もっと……もうちょっと優しく応援して……!」
「うるせえ黙って走れ!!」
「うわーん、景行が冷たいよおっ!」
――傍から見たら。
きっと、俺たちは揃ってバカ丸出しだっただろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます